ちくま文庫

石ノ森章太郎とSF

『石ノ森章太郎コレクション SF編』 解説【完全版】

8月刊行のちくま文庫『石ノ森章太郎コレクション SF編』より、すがやみつる先生の解説を転載いたします。文庫本編には、収録しきれなかった〈完全版〉をウェブ限定で公開します。

#001
 最初に断っておくが、筆者は高校生のときから石森章太郎のもとに通い、20歳で石森プロに所属、21歳のとき『仮面ライダー』のコミカライズでマンガ家デビューを果たした経歴の持ち主である。『仮面ライダー』を描きはじめた頃は、ネーム、下絵、ペン入れ、完成の各段階で石森の監修を受け、マンガの描き方を手取り足取り教えてもらっていた。石森が筆者のことを「弟子」と称してくれたのはそのためだ。
 その後、筆者は独立し、オリジナル作品を描くマンガ家になったが、50歳を過ぎて大学と大学院で学び、研究というものに手を染めることになった。本来、文庫の解説というものは、研究者の視点から執筆するのがふさわしいのだが、筆者自身の経歴から、公私混同した解説にならざるを得ない。その点については、あらかじめご了承いただきたい。なお、敬称は略させていただいた。

#002
「石森章太郎コレクション」の「SFマンガ傑作選」が出ると知って最初に思ったことは、選者の労苦についてであった。というのも石森のマンガで、とりわけ1960年代に描かれたものは、その大半がSFだったといっても過言ではないからである。既刊の「初期少女マンガ傑作選」「ファンタジー傑作選」の中にも広義のSF作品が多数ふくまれており、これらと重複しないように短篇SFを選ぶのは、至難の業であろう。狭義のSFに絞り込んだとしても作品の数は多い。1冊では間に合わないのではないか。そんな心配までするほどだった。
 1938年生まれの石森は、54年、「漫画少年」連載のファンタジーマンガ『二級天使』でデビューした。56年、高校卒業と同時に故郷の宮城県登米郡石森町(現・登米市)から上京した石森は、新宿区西落合での2畳半の下宿暮らしを1ヶ月ほど経験した後、豊島区椎名町にあったトキワ荘の住人となる。トキワ荘は、いうまでもなく、手塚治虫を筆頭に、寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、藤子不二雄(A)、水野英子、赤塚不二夫たちが住んだことで知られるマンガ家アパートだ。現在、跡地の近くに豊島区が運営する「トキワ荘マンガミュージアム」がオープンしている。
 石森はトキワ荘に在住中から早描きで知られ、少女マンガを中心に旺盛な執筆活動をつづけていたが、やがて少年マンガにも守備範囲をひろげると60年あたりからSFマンガにも手をひろげていく。『かけだせダッシュ!』(週刊少年サンデー 他 )、『悪魔のフィルム』(週刊少年サンデー (43~44号) )といった作品だ。
 SFへの傾倒が激しくなるのは61年になってからである。『フラッシュZ』(別冊まんが王)ではタイムパトロールを扱い、『ミュータントX』(中学生画報)、『ミュータント・サブ』(少女)などSF用語をタイトルに使った作品も増えはじめる。また同年には、当時、「SFマガジン」(早川書房、59年創刊)編集長だった福島正実原作の『勇気くん』(週刊少年マガジン)の連載もあった。
 この年の石森にとってのエポックは、8月24日から70日間の世界一周旅行に出かけたことであろう。当時は外貨の持ち出しにも制限があり、海外渡航には留学や視察などの目的が必要だった。石森は、アメリカ西海岸のシアトルで9月2~4日に開催された世界SF大会の取材を主目的とし、集英社の雑誌「日の丸」から取材記者の肩書きを得て羽田から飛び立った。
 このとき石森は23歳。53年に、のちにSF作家・翻訳家となる矢野徹がフィラデルフィアの世界SF大会に参加しているが、当時、他に海外のSF大会に参加した日本人がいたとしても、ごくごく少数だったことだろう。
 なぜ石森は、こんな時代にSF大会に参加しようと考えたのか? その理由は石森自身が書いた旅行記『世界まんがる記』(三一書房)に、以下のように記されている。
「子どもの頃、海野十三や手塚治虫の本でS・Fを知り、ファンになって以来、今や気狂(マニア)になっていたから、一目でも著名作家の顔を拝みたかったのである。」
 石森はSF大会で、名誉ゲストでもあったロバート・A・ハインラインやポール・アンダーソンといったSF作家のほか、矢野徹に紹介を依頼していた著名SFファンの“フォーリィ”・アッカーマンにも会うことができ、彼らと一緒に地元新聞にも紹介される栄誉にも浴していた。
 早川書房がジャック・フィニィの『盗まれた街』を皮切りに、57年に刊行を開始した「ハヤカワ・SF・シリーズ」は、石森も全巻を読んでいたという。当然、「SFマガジン」も読んでいたことだろう。それにしても、簡単に海外旅行ができない時代にアメリカの世界SF大会に出かけるということは、石森のSFへの傾倒ぶりがわかろうというものである。
 石森の読書量は、マンガの執筆枚数に劣らず旺盛なものだった。筆者が石森プロにいた70年代前半も、1日1冊は本を読んでいた。仕事を終えて寝室に入るのは朝。10畳以上もある寝室の奥にベッドがあったが、床にはびっしりとベッドの高さにまで本が積まれていた。揺れる本の上を這ってベッドに進み、そこで1冊の本を読了するのが日課だったのだ。その後、VHSやレーザーディスクが登場すると、寝る前に映画を1本見ることも日課に加わった 。旺盛な読書と映画。これはトキワ荘時代からつづく石森の習慣でもあった。そのなかで最も傾倒したのがSFだったのだ。
 SF大会参加のあとはアメリカを横断してニューヨークに向かい、さらにヨーロッパから中近東、香港を経る70日間世界一周を果たした石森は、まもなくトキワ荘を退去し、近くの曙荘というアパートに居を移した。

#003
 石森は64年に結婚し、早稲田大学に近い新宿区牛込北町のアパートに転居する。『サイボーグ009』(週刊少年キング)を筆頭に、爆発的とも思えるほどにSFマンガが増えたのは、この年からだ。翌65年には『ミュータント・サブ』(少年サンデー)、『アースマン』(原作・福島正実、少年画報)、『アンドロイドV』(冒険王)などが始まっている。
 この当時の石森は、サイボーグ、ミュータント、エスパー、アンドロイドといったSFガジェットをマンガ読者に教えたSFの伝道師といっても過言ではない。今風にいうなら〈SFのエバンジェリスト〉ともいえる存在でもあった。
 しかも石森のSFは、ストーリーマンガだけにとどまらない。同時期に連載されていた『おかしなおかしなおかしなあの子』(週刊マーガレット、後に『さるとびエッちゃん』)、『となりのたまげ太くん』(少年マガジン)、『ボンボン』(まんが王)といったギャグマンガも、すべてSFの味つけがなされていた。
 この時代に至るまで、日本にSFマンガがなかったわけではない。石森が「子どもの頃、海野十三や手塚治虫の本でS・Fを知り」と述べていた手塚の本とは、『ロストワールド』(48年)、『メトロポリス』(49年)、『来るべき世界』(51年)あたりの長編SFだったものと思われる。手塚は雑誌に舞台を移してからも『鉄腕アトム』『0マン』などのSFマンガを多数発表しているが、当時のマンガ雑誌は子ども向けのメディアであったこともあり、SF色は次第にオブラートに包まれていった。
 とりわけその傾向を加速させたのは、『鉄腕アトム』を嚆矢とするSFマンガのアニメ化であった。アニメ『アトム』が放映開始された63年以降、『鉄人28号』(横山光輝)、『8マン』(原作・平井和正、マンガ・桑田次郎)、『スーパージェッター』(久松文雄)、『遊星少年パピィ』(井上英沖)、『宇宙少年ソラン』(宮腰義勝)といったSFマンガが続々とアニメ化され放映された(アニメのコミカライズも含む)。これらのテレビアニメには、若きSF作家が数多く脚本で参加していたが、家族向けの番組とあっては先鋭的なSF表現は、やはりオブラートに包まざるを得ない。それはアニメに限らず、小学生向けと目されていた少年マンガ全体についてもいえたことだろう。
 根っからのSFマニアであった石森には、子ども向けのマンガやアニメで描かれるSFが物足りなかったのではないか。だからこそ「これがSFだ」とでもいいたげな作品を連発したのではなかったのか。だが、それは成功したとは言い難い。1年以上つづいた作品は、『ボンボン』と『サイボーグ009』くらいにすぎなかった。だが、「少年キング」の64年30号から連載された『サイボーグ009』も、「子どもには難しい」という理由で65年39号で連載が打ち切られている。石森が生涯に描いた作品タイトルの数は770にのぼり、「ひとりの著者が描いたコミックの出版作品数が世界で最も多いマンガ家」としてギネス世界記録にも認定されているが、作品タイトルが増えたのは、長期連載が少なく、読み切りや短期連載が多かったからでもあろう。

#004
 ところが、ひょんなことから『サイボーグ009』が甦る。東映が『サイボーグ009』を66年夏休みに公開する劇場用アニメとして制作することを決め、それに合わせてマンガも「少年マガジン」で「地下帝国“ヨミ”編」として再開されたのだ。
 さらに、『サイボーグ009』の再開に合わせたかのように、SFマンガ家としての石森章太郎がブレイクすることになる。きっかけは、この年に出版市場に登場した新書判コミックス(以下、コミックス)だった。まず7月にコダマプレスから『ミュータント・サブ』が240円で刊行され、同月、秋田書店から『サイボーグ009』第1巻が発売となる。こちらは220円だった。同時期の「少年マガジン」は50円である。コミックスは小学生の買えない値段に設定されていた。この価格の本が買えるのは、小遣いが裕福につかえる中高生以上になる。つまり、66年に登場したコミックスという新しいマンガメディアは、ティーン向けのメディアであり、その年代の少年少女によって発見されたメディアでもあったのだ。
 そのことは、石森のコミックス第1号となった『ミュータント・サブ』に解説を寄せていた小松左京によって的確に指摘されていた。同書では福島正実も「用語解説」をしていたが、『ミュータント・サブ』に登場するSF用語は当時のティーンにも馴染みのないものが多く、解説が必要だったのだ。小松は、そんなSF用語が臆面もなく登場する石森マンガを「若衆マンガ」であると看破した。そう、石森のSFマンガは子ども向けではなく、もっと上の年齢に合うという指摘である。その直後に石森マンガがコミックスを中心にブレイクしたことを考えれば、小松の指摘はまさに慧眼だったといえるだろう。
 66年に誕生したコミックスは、まさに石森のために生まれたようなメディアだった。秋田書店「サンデーコミックス」の『サイボーグ009』はベストセラーになり、他社もコミックスの出版を開始する。そのなかで石森のコミックスは、年に10作以上も刊行されつづけた。まさに石森は「コミックスの申し子」であり「コミックスの寵児」ともなったのだ。

#005
 石森がティーン以上の読者の支持を集めた背景には、65年8月刊行の『マンガ家入門』の存在も大きいだろう。石森は『龍神沼』をこの本で解題したことで、マンガを描いたり、マンガ家をめざしていた少年少女に注目され、作品だけでなく自身のファンをも増やしていった。石森は27歳にしてマンガ家志望者のカリスマのような存在になったのだ。さらに66年暮れ創刊の「COM」で連載が開始された『ジュン』によって、石森はカリスマとしての地位を固めていく。
 コミックスは、小説がそうであるように、作品のタイトルよりも作家の名前で買われるところがある。作者自身にファンがついている石森のようなマンガ家は、出版社にとっても得がたい存在だったことだろう。
 コミックスという若者向けのメディアは、同時に「青年マンガ」という新しい市場も生み出した。月刊マンガ誌、週刊マンガ誌の最大の顧客だった団塊の世代は、すでにハイティーンになり、新しいマンガを求めていた。彼らのために「ビッグコミック」「漫画アクション」「プレイコミック」といった青年マンガ誌が次々と創刊され、石森は、これら「若衆」向けの雑誌にも連載を開始する。「ビッグコミック」こそ『佐武と市捕物控』という時代マンガだったが、他は『009ノ1』『ワイルドキャット』など、SFベースの作品が多い。並行して「週刊少年マガジン」ではSF大作『リュウの道』がはじまり、71年になると『仮面ライダー』がスタートする。
 石森は、60年代後半から70年代前半にかけて週刊誌6誌に連載を持ち、さらに隔週誌や月刊誌にも連載を持っていたうえに、描き下ろしの単行本まで手がけていた。月産枚数は500~600ページにもなり、量の上でも他のマンガ家を圧倒していた。
 本書に掲載された短編~中編のSFマンガは、そんな時代も含む60年代はじめから80年代初頭に描かれたものだ(ちなみに筆者は『おわりからはじまる物語』を除き、すべて初出時に読んでいる)。

#006
 本書掲載の作品を読んでいると、石森がいかにSFのフォーマットを踏襲しようとしていたかも透けて見えてくる。
 60年代、日本のSFが揺籃期にあった時代、このSFを子どもにも知ってもらおうとして、ジュブナイルSFの開拓からSFマンガの原作にまで手を染めていたのが「SFマガジン」編集長の福島正実だった。福島をはじめとするSFの伝道師たらんとした人々は、SFをわかりやすく解説するために、名作といわれる作品をテーマ別にジャンル分けしてみせた。現在、「日本大百科全書(ニッポニカ)」では「SFの種類」が次の7種類に分けて紹介されている。分類したのは60年代から東京創元推理文庫でエドガー・ライス・バローズの『金星シリーズ』『火星シリーズ』などを多数翻訳した厚木淳である。SFの古典をベースにした60年代の代表的な分類法であるといえるだろう。
(1)宇宙旅行と異生物テーマ
(2)未来社会テーマ
(3)超能力テーマ
(4)破滅テーマ
(5)ロボット・テーマ
(6)時間・次元テーマ
(7)幻想世界テーマ
 本書に掲載された石森のSF作品も、この7種類のうちに分類できるものがほとんどだ。順に見てみよう。
『敵 ENEMY』は「週刊少年サンデー」63年第49号に掲載された。『サイボーグ009』連載開始の1年前に、すでにサイボーグが登場しているのが興味深い。これも「未来社会テーマ」の作品といえる。
『敵』については苦笑したくなる思い出がある。中一のときに読んだストーリーを憶えていて、高校生になってから参加した『墨汁三滴』という肉筆回覧同人誌に、サイボーグを地球防衛隊に置き換え、オチもそのままのマンガを描いたのだ。原稿を見せた石森の評は「発想が陳腐」だった。もちろん描き方が稚拙ではあったのだが、アイデアストーリーが主体だった短篇SFも、すでに進化を遂げていたということか。
『狂犬』は「週刊少年マガジン」の66年第9~14号に連載された。下敷きにしたのは作中にも触れられている「侵略テーマ」のSFとして名高いジャック・フィニィの『盗まれた街』であり、アルフレッド・ヒッチコック監督の映画『鳥』であろう。「超能力」テーマに分類される作品で、同時期に描かれた『ミュータント・サブ』の「白い少年」編と同傾向の作品ともいえる。
『おわりからはじまる物語』は67年1月から「赤旗日曜版」に52回にわたって連載された「未来社会テーマ」のマンガである。石森が描く未来社会は、いずれもディストピアだが、これは最後に救いがある。未来を変えるのはサイボーグという改造人間なのか、それともミュータントという新人類なのか。どちらもが石森SFにとっては永遠のテーマであったようだ。
『四帖半襖の下張りの下』は、69年に刊行された「別冊プレイボーイ」のCOMICS特集「クレイジー」(集英社)に掲載された。媒体からわかるように青年向けで、タイトルは永井荷風作とされている『四畳半襖の下張』から来たものだ。永井の作品から借りたのはタイトルだけで、「時間・次元テーマ」のSFとして、サラリと仕上げた短編になっている。
『おとし穴』は「週刊少年マガジン」71年第12号に掲載された。「少年マガジン」では、前年52号で2年つづいたSF大作の『リュウの道』が終わり、71年第7号で石森は筒井康隆の小説『ベトナム観光公社』を読み切りで描いていた。
「少年マガジン」は、『巨人の星』(原作・梶原一騎/川崎のぼる)や『あしたのジョー』(原作・高森朝雄/ちばてつや)、『無用ノ介』(さいとう・たかを)などの連載によって読者が大学生の世代にも拡大し、高齢化していた頃である。講談社は、児童を対象にした「週刊ぼくらマガジン」を69年1月に創刊することで、「少年マガジン」の青年誌化を加速させていた。その一環として編集部は、中間小説やSF小説を原作とした読み切りマンガを多数掲載した。松本零士の『模型の時代』(原作・小松左京)、上村一夫の『見返り峠の落日』『中山峠に地獄をみた』(原作・笹沢佐保)などだ。石森が手がけた『ベトナム観光公社』も、このシリーズの1作だ。読者層を青年ならぬ成人一般を見据えてのラインナップであろう。『おとし穴』は、そんな時代の「少年マガジン」に掲載された「未来社会テーマ」に該当する読み切り作品であった。登場する「フィーリングコミック(FC)」は、現在ならVRマンガといったところであろう。だが、この作品のテーマは、古い言葉でいえば「社会派SF」にもなるが、いま一般化している言葉でいえば「地球生命体{ルビ=ガイア}理論」やSDGsに通じるテーマだともいえるだろう。この年、日本中を「変身ブーム」に巻き込むことになる『仮面ライダー』も、「少年マガジン」連載版の原作マンガも、現在ならSDGsを意識したマンガと受け取られるはずである。
『赤い砂漠』は71年、「週刊朝日」増刊号に掲載された「未来社会テーマ」の作品であり、いまなら「ディストピアもの」に分類されてもおかしくない。最後にオチがあるが、これも短編SFのアイデアストーリーには珍しくない手法だろう。
『天敵』は「UFOと宇宙」という雑誌の79年1~2月号に掲載された。オカルト系出版物が専門のユニバース出版社が出していた「ムー」(学研)に似た雑誌でオカルト系に属するもので、石森が狂言まわしとなり、UFOに関する持論を展開するものである。石森がこだわりつづけている「未来社会・超能力・破滅テーマ」だが、『サイボーグ009』の最終章に通じるテーマでもあろう。気になるのは、結末に救いがなくなってきていることだ。
『UFO』は「週刊少年マガジン」の82年17号に掲載された。主人公のUFOを信じる少年は、78年に公開されたスピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』にも相通じるものがある。さらに「破滅テーマ」を超えて「破滅願望」にもつながっている印象も受けた。ラストシーンは希望なのか絶望なのかを明示しないリドルストーリーになっている。読者によって結末が異なるということだ。石森は、どちらの結末を提示したかったのだろう?

#007
 かつて石森が傾倒したSFも、70年代を経て80年代に入ると、すでに新しい表現ではなくなっていた。「SFの浸透と拡散」が進み、SFマンガは石森と同じ宮城県立佐沼高校出身である大友克洋なども輩出していたが、SF小説とSFマンガは次第に刊行物が減り、反対に『スター・ウォーズ』特撮を駆使した映画と宇宙戦艦や巨大ロボットが活躍するアニメがSFの主流となっていく。日本で受け容れられたSFの多くは「メカSF」でもあったのだ。
 しかし、石森はメカへの関心は薄かった。ベースにあるのは、やはり若き日に愛読したアイザック・アシモフやロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラークに代表される50年代、60年代のSF小説であったことだろう。石森が、どれほどSFを読み込んでいたかは、69年から70年にかけて「SFマガジン」に連載された『7P』というマンガを見ればわかる。
『7P』は、普通のストーリーマンガではなく、「COM」に連載していた『ジュン』の主人公を狂言回しにして、内外のSF作家へのオマージュを捧げたマンガである。扱われているのは海野十三、H・G・ウエルズ、カレル・チャペック、ロバート・A・ハインライン、星新一、アルフレッド・ベスター、レイ・ブラッドベリ、アーサー・C・クラーク、フドリック・ブラウン、小松左京、ジョン・ウィンダム、筒井康隆、ジュール・ヴェルヌ、バラード&オールディス、「ニッポンSF作家」として まとめられた小松・筒井・星・眉村卓・平井和正・手塚治虫・豊田有恒・福島正実・光瀬龍などの人物や作品で、  『ジュン』のようなイメージマンガもあれば、1コママンガやパロディもある。当然ながら、これらの作家の作品を読み込んでいなければ描けないマンガでもある。
『7P』を読んでいると、そこには「SFマガジン」の読者に対し石森が、いかに自分がSFを愛しているかを訴えかけたマンガのように思えることもある。石森は、誰にも負けぬほどに大量のSFマンガを描き、SFの伝道師役まで果たしているのに、「SFマガジン」を読むようなSFマニアやSF業界の人々には評価されていない一面があったからである。その理由は、「石森章太郎は、読んだ本や見た映画の内容を咀嚼しないで生のまま、自分のマンガに使っている」という批判によるものだった。

#008
 もともと石森のマンガには、既存の小説や映画をベースにしたものが多いことは、よく知られていた。たとえば『石森章太郎コレクション』の「初期少女マンガ傑作選」に掲載されていた『きのうはもうこない だが あすもまた…』はロバート・ネイサンの『ジェニーの肖像』をヒントにしたものだ。赤塚不二夫が石森に紹介したという『ジェニーの肖像』については、同じトキワ荘グループの水野英子をはじめとする多数のマンガ家が、あきらかに影響を受けたと思われる作品を描いている。
『狂犬』の終了直後に「週刊少年マガジン」ではじまった『サイボーグ009』の「地下帝国“ヨミ”編」は、009のジョーと002のジェットが地球の大気圏に突入し、燃えて流れ星になる感動的なシーンで終わったが、このラストもレイ・ブラッドベリの短篇小説『万華鏡』をヒントにしたものといわれている。しかし、『サイボーグ009』のラストの方が『万華鏡』よりも感動的だったと思っている読者は筆者だけではないだろう。
 なお、『サイボーグ009』の「地下帝国“ヨミ”編」では、地下帝国の発想そのものが、連載の少し前に「ハヤカワ・SF・シリーズ」の1冊として刊行された『地底世界ペルシダー』から借りたものではないかとの指摘もあった。
 石森も、そのような批判は耳にしていたことだろう。だが石森は、批判を気にしているような素振りは見せなかった。おそらくではあるが、石森にとってのSF作品は、自分の愛する作品へのオマージュでもあったのではなかろうか。 SF大作となった『リュウの道』などは、名作SF(映画も含む)に対するリスペクトとオマージュの集大成ともいえるような作品でもあった。

#009
 石森は、70年代中盤からは『仮面ライダー』や『人造人間キカイダー』などのテレビ特撮番組や映画『宇宙からのメッセージ』などの映像には関わりながらも、SFマンガそのものの執筆量は減らしていく。晩年は『HOTEL』のような人情もの、あるいは『マンガ日本の歴史』の描き下ろしなど、わかりやすさが優先され、尖ったコマ割りやスピード感のあるアクションも影を潜めていった。
 このような方向に転換していったのは、なぜか? 筆者には個人的な心当たりがある。
「最近、何かおもしろい本を読んだか?」
ふいに筆者が石森からこんな問いかけをされたのは、何かの用事で西武池袋線桜台駅近くの喫茶店ラタンを訪ねたときのことだ。一人掛けの専用席でネームを入れる石森の作業がすむのを待って、近くの席でコーヒーを飲んでいたときに、こんな声がかかってきたのだ。
 筆者も本好きで、小説やノンフィクションを浴びるように読んでいた。石森は、それを知っていて、ときおりこんな質問を投げかけてくることがあった。
 このときの会話はリアルに憶えている。
「半村良さんが『オール讀物』に書いていた『雨やどり』という短編がジンときました」
「おお、あれな。おれも読んだよ。よかったな、あれ」
 石森は顔をあげて、筆者を見ながらニッコリと微笑んだ。
『雨やどり』が「オール讀物」に掲載されたのは1974年11月号。発売は九月下旬になる。ちょうど石森原作の『がんばれ!!ロボコン』が10月から放映開始になる直前のことだ。
 石森の読書量を知っていたので、『雨やどり』が読まれていたことには驚きはなかった。が、つづいて出てきた言葉に、筆者はかなりのショックを受けた。
「おれもあんな感じの作品を描いてみたいけれど、ああいうのは苦労してないと描けないんだよな」
『雨やどり』はバーテンが主人公で、新宿の酒場を舞台に、そこで生きる人々の人生の機微を描写した人情噺である。「苦労してないと描けない」というのもわかった。『雨やどり』を書いた半村良は、翌年、この作品で直木賞を受賞するが、その前2回にわたりノミネートされ、落選した経験を持っていた。落選した『黄金伝説』と『不可触領域』は、いずれも「伝奇SF」と呼ばれる超常現象を題材にした小説で、歴史時代小説、社会派推理小説、恋愛小説などの作者が多い選者には受けが悪く、受賞にはいたらなかったのだ。
 半村良は、62年、第2回ハヤカワ・SFコンテストの応募した『収穫』が第3席に入選し、この短篇小説でデビューを果たす。小松左京と同時のデビューであった。しかし、「伝奇SF」を志向していた半村の作品は、当時の編集者にはウケが悪く、10年ちかい雌伏の時を過ごす。半村がブレイクしたのは71年に書き下ろしで刊行された『石の血脈』においてであった。その後、半村は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで『産霊山秘録』『黄金伝説』『闇の中の系図』、映画がヒットした『戦国自衛隊』などの伝奇SFを連発し、その一方で『雨やどり』にもつながる『男あそび』などの人情小説も発表する。その頃には半村良が、酒場でのバーテンなど30もの職を転々としていた経歴も知られるようになっていた。石森の「苦労してないと描けない」という言葉は、そんな半村の経歴を指してのことでもあったはずで、ここまでは理解できた。石森も含む大半のマンガ家が、中学や高校からいきなりマンガの世界に入ってしまった経歴を持っていたからだ。「マンガ家は社会経験がなさすぎる」。そんなことを指摘する編集者も多かった。
 ショックを受けたのは、石森の次の言葉だった。
「おれは、苦労したことがないのがコンプレックスなんだよ」
 石森の口からコンプレックスという言葉が出てこようとは、まったく予想外のことだった。石森は高校生でマンガ家デビューし、上京後もトキワ荘で同居していた姉の死という悲しみはあったが、それを除けば好きなマンガを好きなように描き、作品はアニメにもなりコミックスも売れて、さらには『仮面ライダー』という日本中を席巻する人気キャラクターも生み出した。大量の原稿も呻吟しながら描いているわけではない。鼻歌でも口ずさんでいるかのように、軽やかにネームを入れ、ペンを入れていた。まさに苦労とは無縁のマンガ家だったといえる。それは誇れこそすれ、コンプレックスを感じるようなものではないはずだ。
 石森のいう苦労の意味が理解できず、一瞬、途方に暮れたものだ。だが、さらにつづけられた「おれよりお前の方が、何倍も苦労しているよ」という石森の言葉で、ようやく苦労の意味を察することができた。それは、こんなことだ。
 筆者は、小学生のときに父が倒れ、母が一人で生計を支える家で育った。親戚の援助もあって高校には進んだが、大学など行けそうにない。どうせ仕事をするのなら、好きなマンガで生計を得たい。そう考えて、高校卒業と同時にマンガの世界に飛び込んだ。マンガは食べるための手段だったのだ。
 石森プロで『仮面ライダー』のコミカライズを担当し、月に200~300枚の原稿を描いていた筆者は、出前ばかりの食事がつづいて健康を損ねかけたことがある。そこで郷里で調理師をしていた母を呼び寄せ、筆者と3人ほどいたアシスタントの食事の面倒を見てもらっていた。つまり自分だけでなく、母とアシスタントの生計まで支える状態にあったのである。筆者が24歳の頃のことで、石森もこんな事情を知っていた。
 石森は、父親が役場の助役で、母は実家で雑貨店を営んでいた。両親とも健在で、石森は小学生の頃から椅子付きの勉強机を与えられていた。太平洋戦争が終わる頃で、一般の家庭にはお膳くらいしかなかった時代である。生活に困窮するという経験はなかったことだろう。
 父親は、進学校の宮城県立佐沼高校に進んだ石森が、名門国立大学の東北大に進学するものと思っていたという。だが、石森は、父親の期待に反して高卒と同時に上京し、トキワ荘でマンガを描くようになる。
 トキワ荘で一緒に住んでいた藤子不二雄は、ふたりとも小学生時代には母親だけの片親だった。赤塚不二夫は満州の出身で、終戦後、苦難の引き揚げを体験していた。両藤子や赤塚は、トキワ荘で母親も一緒に暮らしていた。石森も姉と一緒に暮らしていたが、その生活ぶりは他のマンガ家とは異なっていた。原稿料は本や映画に費やされ、描き下ろしの単行本で得た原稿料を全額注ぎ込んでステレオのセットを買ってしまったことも。その挙げ句に原稿料を前借りしての世界一周旅行でもあったのだ。
 石森が70日間世界一周旅行に出かけたとき、両藤子は川崎市に新居を構え、結婚した赤塚はトキワ荘に近いアパートで新婚生活を送っていた。
 おそらく石森には、「マンガ家として生計を支える」という生活感覚が欠如していたのだろう。だからこそSFという空想の世界に遊ぶことができたともいえそうだ。しかも描くマンガは、いずれも遊びの延長のようでもあった。その一方で、人の情を描くのが不得手なことを自覚し、それがコンプレックスにつながったのではなかろうか。
 こんな話を交わした翌75年、石森は「ビッグコミック」で『さんだらぼっち』という時代マンガの連載を開始する。遊郭の吉原を舞台にした古典落語の人情噺にも通じるような温和な物語で、石森には珍しく6年半にわたる長期連載となった。おそらく石森は、関連分野の本を読み、映画を見て、〈苦労の欠如〉を克服したのにちがいない。石森の最長連載記録となる『HOTEL』の登場は、『おみやさん』と『八百八町表裏 化粧師』を挟んだ84年のことになる。
 90年代に入り、病に倒れた石森は、SFマンガの総仕上げとして『サイボーグ009』の完結をめざしていたが、自身の手では「END」の文字を記すことはできなかった。
(了)

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