荒内佑

【特別編】去年の夏

バンドceroのメンバーとして活動しながら、8月25日にはファーストアルバム「Śisei」を発表したばかりの著者によるかつての人気連載が〈特別編〉として1度きりの限定復活。


 一昨年、中野区に引っ越した。間も無く、ホームセンターで数年ぶりに自転車を買った。中野の島忠で一番安いママチャリ、黒いボディで、白地に赤字でsantosと書かれている。メーカー名なのか、車種名なのか分からないけれど、どうして廉価な自転車にはファニーな名称が多いのだろう。安いママチャリが一番かっこいいよね? という話を何人かの友人にしたら、誰からも賛同を得られなかったので、局所的な価値観だったようだ。そういう訳で約8000円で自転車を購入した。一番安いといいつつ、8000円は高い気もする。
 
 2019年の年末に引っ越して、すぐコロナ禍になり、2020年は外に出かける仕事がほとんどなくなった。そこで、自宅の半畳ほどの倉庫から荷物を全て搬出し(おかげで家中散らかった)、ホームセンターで木材を買い、本棚を設え、閉じこもる。倉庫でドストの『地下室の手記』を読んでみる。感じるところはあったが、ほとんど頭に入ってこないので、途中で投げ出す。フーコーについて、再度勉強する。筑摩書房から以前頂いた重田園江『ミシェル・フーコー』、中山元『フーコー入門』などを読む。いつかフーコーの原典に当たる時は来るのだろうか。有名な規律ー訓練、生ー権力の概念は現状にしっくり来る。規律ー訓練は、戸坂潤の制度習得感にも通ずる。炎上していたアガンベンのテキストも読む。のちに『私たちはどこにいるのか?』というタイトルで刊行された。アガンベンには問題があるが、訳者の高桑和巳のあとがきを含めて良かった。小説だったらジム・トンプソンの『天国の南』、ドライな訳文が良かった。ジム・トンプソンはタランティーノの映像でしか脳内再生できない。映画関係だったら山田宏一や淀川長治の本も良かった。アカデミアとは対極にある、映画の現場を通して得られた経験、スクリーンに育まれた知性、敬服する。音楽系は柿沼敏江『無調の誕生』が素晴らしい。なぜだか綿矢りさの『蹴りたい背中』も電子書籍で読んだ。面白かった。っていうこのスタンス。
 
 夏になって、倉庫から這い出し、自転車で深夜に遠出してみる。グーグルマップで検索すると、東京湾まで徒歩で3時間。自分の算段では、自転車だと1時間で着くはずだったが、結局2時間以上かかった。正確なルートは覚えていないが、新宿、原宿、青山、広尾、港区一帯を通過する。東京は海岸部に向かってずっと下り坂になっているのが、身をもって分かる。職務質問を受ける。東京タワーの近辺も通過するが、東京の地理感が今でもよく分からない。地方出身者の方が、都心部に詳しいというのはよくある。海に着いてみると、肉体的な達成感が微妙にあるだけだった。ところでSantosはブラジルの湾港都市の名であるが、東京湾にはカップルや、車で乗り付けた若者たちが多少いるだけだった。
 帰りはほぼ上り道になるので息が切れる。道に迷っていたら木々が立ち並ぶ場所に出る。グーグルマップで確認すると神宮外苑だった。初めて来た。東京の土地勘が分からない。神宮を通過すると暗闇の中に、鬱蒼とした森のような場所が見えてくる。近づいてみると新宿御苑だった。日中の御苑とは印象がだいぶ違う。都心部にこれほど植物が群生しているのかと驚く。再度、その場でマップを開くと、確かに西から東へ向かい、代々木公園、新宿御苑、神宮外苑、青山霊園、赤坂離宮、皇居、と森林部が集まっている。そういえば、皇居の中に吹上御苑という手つかずの原生林があるという話を思い出す。これらは都市計画によって造成された緑地なのか、あるいは昔からある森林なのだろうか。しかし、その境界もだいぶ曖昧な気もする。歌舞伎町で、その日三度目の職務質問を受ける。財布の中身も全てひっくり返され、ボディチェックまで受ける。思いつく限りの罵詈雑言を警官に浴びせる。日本では夜中に自転車に乗ることすら許されていない。
 
 夏の終わりには車を買った。埼玉にある中古車屋まで何度か行く。いつでも凄い暑さだった。東京よりも何度か高い気がする。納車の日に、車屋の作業を待つ間、ショッピングモールでうどんを食べる。立ち並んだ飲食店から任意の店を選び、会計を済ます。食事を席まで運んでいると、巨大なアリの巣を彷徨っている気分になる。他の動植物から見たら、ヒトはだいぶ変わった生き物に見えるだろうと想像する。紙やカードを差し出すと、それが車や自転車やうどんと交換される。全く見も知らない者が、理由もなく夜中の移動を禁じてくる。文字が書かれた紙束を、倉庫に閉じこもって凝視する。住処を変えたり、意味もなく深夜に移動する。最近は口に覆いのようなものをずっとつけている。貨幣制度や資本主義や、警察権力の中に原生林や海があったりしないものか。サル目ヒト科が作ったのだから、あっても良さそうな気がする
 
 去年の夏に遠出したのはこのくらいで、あとはほとんど家で曲を作っていた。