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第3回 われらは傷を修復する――『進撃の巨人』論(1)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
最終回となる第3回は、累計発行部数が世界で1億部を超え、今年完結を迎えた諫山創『進撃の巨人』(2009~21年/講談社)。この歴史に残る作品は、いかに歴史を描いたのでしょうか。

●壁内の歴史

「周知の通り今から107年前 我々以外の人類は…皆/巨人に食い尽くされた/その後 我々の先祖は巨人の越えられない強固な「壁」を築くことによって 巨人の存在しない安全な領域を確保することに成功した[…]」【3】
「この壁に人類が逃げ込んだ際 それまでの歴史を記すような物は何一つ残すことができなかった 人類の大半は失われ住み処は僅かにしか無くなったが争いの絶えなかった時代と決別できた/我々はこの壁の中で理想の世界を手にしたのだと…」【4】

 これはエレンらが最初に教えられる壁内の歴史だ。一見して、異様に短い。壁の王はこの叙述を壁内の共通認識として伝えており、王政のもとで壁外へ出る唯一の軍事組織「調査兵団」を除いて、壁外に特別な関心を寄せることを許していない。【5】
 ここで注目したいのは、王政が歴史の喪失を決して惜しんでいないことだ。歴史の喪失は損失ではなく、むしろ「争いの絶えなかった時代」に終止符を打ち、「理想の世界」に生きるために払われた必要な犠牲であるかのように語られている。だが実のところ、王政が歴史の喪失を肯定する理由は、民衆から壁を築く以前の記憶を奪い、王政のみで歴史を占有していたためであった。
 冒頭の異様に短い歴史を教えられた登場人物たちは、世界を「人類対巨人」の二元論で捉え、人間が巨人によって残酷に捕食されていく様子を見て、この世は「強い者が弱い者を食らう親切なくらい分かりやすい世界」【6】であると考える。これは極めて危険な事態だ。確かに「人」は「巨人」に食われるだろう。だが巨人とはどこから来た何者で、なぜここにいるのだろうか? 世界が「親切なくらい分かりやすい」のではなく、世界についての理解が単純であるがゆえに、世界が「親切なくらい分かりやす」く見えるのではないか。歴史とは認識論でもある。誰も何も知らない、ゆえに世界も単純に見える。この状況自体が王政の作為なのだった。
 では王政は何を企図して「誰も何も知らない」状況を作り出していたのだろうか。その答えは、壁外から来た人間であったエレンの父・グリシャの記憶――これはグリシャの手記とエレンの記憶に引き継がれた――を通じて明らかになる。

「[…]ただ理由(ワケ)もわからず巨人に食われることが贖罪だと言うのか!?」
「…… …いいえ/我々がいくら反省した所で 我々エルディア人が奪った人々の命を戻すことはできません/しかし… 我々が壁の外の人類の命を奪うことを 防ぐことはできる/我々がただ何も知らずに 世界の怒りを受け入れれば 死ぬのは我々エルディア人だけで済むのです」【7】

 これはマーレの「戦士」たちが壁に攻撃を加えてきた845年、壁に攻めてきた巨人を殺してくれと懇願するグリシャと、王政の中枢である「壁の王」フリーダとの会話である。
エルディア人とは、ユミルの民とも呼ばれる壁内人類のマジョリティにして、巨人の正体である――作中、「ユミルの民」「エルディア人」は民族名でありながら、血液検査で判別しうる特性として描かれており、あたかも「人種」概念が「科学的に」有用なカテゴリであるかのように読めてしまう。この点には厳しい目を向けておかねばなるまい。
 さて、「ユミル」とは最初に巨人化能力を手に入れた「始祖」の名前だ。かつてユミルの民は大陸において巨人の力を用いて他民族を攻め、エルディア帝国を建設したが、「巨人大戦」と呼ばれる内紛で弱体化した。エルディア帝国最後の王は、大量の巨人を文字通り壁にして、残った領地・パラディ島に逃れた――もしこの島を攻めれば壁の巨人が世界を平らにならすだろう、と言い置いて。それから100年以上にわたり、パラディ島は巨人兵力の潜む邪悪な島、「悪魔の民族」の住処として、世界中の憎しみを浴び続けることになった。そして近い将来、大陸諸国はパラディ島に眠る資源獲得を名目に、島に攻めてくるはずである……。
 この歴史を踏まえ、先に引用した会話を読み直す。壁の王は845年に起きた巨人の侵攻を「ユミルの民が裁かれる日」【8】と呼ぶが、一方で何も知らずに死ぬことが贖罪になるとは思っていない。贖罪、すなわち歴史的責任の精算が、、、、、、、、、完全に不可能であると、、、、、、、、、、最初から諦めている、、、、、、、、、からこそ、壁外人類の存在すら知らずに民ごと滅びることが、世界にとってもユミルの民にとってもよい選択肢であると考えているのだ。ここに、王の考える「誰も何も知らない」世界の意義がある。
 かつてユミルの民は、巨人の力で多くの人を虐殺した。その点については、確かに何年経過しようと責任が消えることはないだろう。だがそれは、すでにそこに生きている者たちが死んでよい理由にはなり得ないし、特定の民族が消滅すべき理由にもならない。そのような理由があっていいわけがない。責任があるからこそ、ユミルの民の取るべき態度とは、歴史を知り、その責任を負いながら生きていくことであるはずだ。
 しかしこの世界の複雑さを引き受ける姿勢を、王は選ばず、多くの人びとも王に懸念を持たなかった。ゆえに調査兵団が王政にクーデターを起こし、この歴史を民衆に公開したとき、民衆の反応は非常に不安定なものであった。

「そのまま受け取る者 笑い飛ばす者 未だ兵政権に異を唱え陰謀論を結びつけ吹聴する者/あなた方が危惧した通りの混乱状態です」【9】
「もはや この激動する世の中の状況において 我々民衆は何を求めて/何を信じればいいのか… わからないのです」【10】

「誰も何も知らない」世界は終わり、世界は民衆の前にその入り組んだ姿を現した。現実を疑うための力を奪われてきた人びとの困惑は、危機を前にしてよりいっそう広がっていく。そして困惑していたのは、絶えず外へと意識を向けてきた調査兵団のメンバーも同様だった。

「…なぁ? 向こうにいる敵… 全部殺せば …オレ達/自由になれるのか?」【11】

 エレンが人生で初めて見る壁外の海を指差し、このように尋ねるシーンで『進撃の巨人』の前半(1〜22巻)は終わる。誰も問いには答えない。戦うことを前提として、「勝てば生きる」/「負ければ死ぬ」という世界観で生きてきた人がそれ以外のやり方を想像することは、はっきり言って簡単ではない。
 またこの場面は、幼い頃に海の存在を通じて壁内に閉じ込められる「不自由」を憎むようになったエレンと、海そのものに関心を抱いて壁外を夢見た幼馴染・アルミンとの差が明確にあらわれてくるシーンでもある。この点を境に、エレンは少しずつ調査兵団から精神的に離脱してゆくことになる。

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