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第3回 われらは傷を修復する――『進撃の巨人』論(2)

アナキスト/フェミニストの高島鈴が、社会現象級の大ヒット作を正座で熟読。マンガと社会を熱く鋭く読み解く、革命のためのポップカルチャー論をお届けします。
最終回となる第3回は、累計発行部数が世界で1億部を超え、今年完結を迎えた諫山創『進撃の巨人』(2009~21年/講談社)。この歴史に残る作品は、いかに歴史を描いたのでしょうか。

●ひとりひとりに何ができるのか?

「…たぶん順番が来たんだ 自分じゃ正しいことをやってきたつもりでも…/時代が変われば牢屋の中」【25】

 これはイェーガー派に追われたハンジによる述懐である。かつては正義を信じて憲兵を倒して王政を打ち破ったハンジは、イェーガー派が急速に民衆の支持を拡大していく様子に、時代の潮目を感じ取っていた。
 イェーガー派とは、パラディ島のナショナリストたちだ。調査兵団を筆頭に、兵政権の面々が犠牲者を出さずにマーレら連合国に矛を収めてもらう道を必死で探る中、イェーガー派は「壁外の全てを踏み潰す」というシンプルかつ最も暴力的な方法に同意していた。
 エレンによるマーレ奇襲以降、兵政権が求心力を失い、イェーガー派がヘゲモニーを握ったパラディ島で、民衆たちは「心臓を捧げよ」という調査兵団の敬礼――公に心臓を捧げる覚悟を示す兵士、、の宣言――を自ら叫び始める【26】。序盤でエレンが多大な犠牲を出しながらウォール・ローゼを塞いだ際、駐屯兵団の班長・リコが口にする「皆…… 死んだ甲斐があったな…」【27】も、市民の口から繰り出される。これらは市民/兵士の区分が崩れる瞬間であり、市民の自他境界が曖昧になってゆく場面であり、パラディ島に総力戦体制ができあがった証であった。
『進撃の巨人』における正義は事態を変えるものではなく、事態の変化に応じて変わる、、、、、、、、、、、、ものとして描かれるのだ。この正義の流動性は、本作が戦争を扱った作品であることに大きく起因している。物語の主要人物は多くが軍事組織の所属――それもほとんどがやむを得ない形で兵士になった――であり、描かれる時間軸は平時ではない。そして物語世界は、まさにエレンが嫌悪した通り時代や歴史に縛られており、人間ひとりでは立ち向かえないほどに巨大な構造を作って個人を戦争へと動員している。対外的緊張が高まる中でパラディ島の憲兵が発する「その正論で国は滅ぶのかもな」【28】という言葉にも、「国」の存続が正義に優越する状況は滲み出る。戦時体制が前景化するにつれ、社会的なものがさまざまに麻痺することは、イェーガー派の台頭による兵士/市民の区分の崩壊に明らかであろう。
 エレンは時代や歴史に縛られることを嫌悪するゆえにひとりで構造の破壊を試みたわけだが、ではエレンのような力を持たなかった者、エレンの選んだ方法=虐殺を選ばない者は、巨大な戦時体制に対して、一体何ができるというのだろうか?
『進撃の巨人』は、構造に対する個人の無力もふんだんに描くが、一方でひとりひとりの動きの連関が物語を和解へと導く過程を提示する。それは前半においては王政を打倒する際のトロスト区住人らと調査兵団の協働に読み取れるだろうし【29】、後半においては、調査兵団から再構築される連帯の流れ、そして次節で示すエレンの同期の兵士・サシャのエピソードが特に印象的に現れる。

●森を抜ける――サシャとその周りについて
 サシャの故郷は狩猟で生計を立てる山奥の村・ダウパー村だが、この村では845年の壁の破壊で流入した「よそ者」によって獲物が減り、サシャの家も狩猟をやめて王政の求める厩舎の仕事を始めようかと検討していた。サシャは森を王政に明け渡そうと考える父に対し、「私達にゃ私達の生き方があるんやから 誰にもそれを邪魔できる理由は無い!」【30】と強く反発するが、父はサシャの態度に「世界が繋がってることを受け入れなければならん」「この森を出て他者と向き合うことは…お前にとってそんなに難しいことなんか?」【31】と問い返し、サシャを兵士として外へ出したのだ。そしてサシャは確かに立派な兵士になったが、エレンの謀略でパラディ島の面々がマーレの奇襲に及んだ際、マーレの戦士候補生・ガビに殺されてしまう。
 その後の因果は奇妙に連鎖する。捕縛されてパラディ島にやってきたガビとファルコは、かつてサシャが巨人から救った少女・カヤと、厩舎の経営者となったサシャの家族に保護されるのだ。ガビは「島の悪魔」を拒絶し、マーレ人捕虜の料理人・ニコロに助けを求めるが、ニコロはサシャと親密な関係にあり、サシャの死を知ってガビを殺そうとした。サシャの父は静かにそれを制止し、サシャの死について語り出す。

「…サシャは狩人やった」「こめぇ頃から弓を教えて森ん獣を射て殺して食ってきた それがおれらの生き方やったからや けど同じ生き方が続けられん時代が来ることはわかっとったから サシャを森から外に行かした…/んで…世界は繋がり兵士んなったサシャは… 他所ん土地に攻め入り人を撃ち 人に撃たれた 結局…森を出たつもりが世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったんや…/サシャが殺されたんは… 森を彷徨ったからやと思っとる/せめて子供達はこの森から出してやらんといかん そうやないとまた同じところをぐるぐる回るだけやろう…/だから過去の罪や憎しみを背負うのは 我々大人の責任や」【32】

 ここに登場する「森」は、本作においては終わらぬ命の奪い合いが行われる場であり、「強い者が弱い者を食らう親切なくらい分かりやすい世界」【33】の象徴だ。森という巨大な戦時体制から、せめて子どもの世代を助けるために、大人は責任を負わねばならない――「大人の責任」を強調するのは、『進撃の巨人』の中では繰り返し語られるメッセージでもある。
 やがて〈地鳴らし〉が始まる。ガビは巨人から身を呈してカヤを助けた。その姿にサシャの影を見たカヤは、ニコロとともに脱走捕虜の身分にあるガビを兵士から庇った。かつて互いに殺し合おうとした人びとが、サシャという死者の遺したものを通じて和解に至るのである。
 この道行きの過程で、カヤ、ガビ、ニコロは、各々の中にいる「悪魔」の存在について語り合う。カヤはガビへの殺意を悪魔と言い、ガビは褒めてもらうために何人も人を殺した自分の行為を悪魔と言った。ニコロもまた自分の中に悪魔を認め、「みんなの中に悪魔がいるから世界はこうなってしまった」と述べる。ではどうすればいいのか、と問われたニコロの「…… 森から出るんだ/出られなくても… 出ようとし続けるんだ…」【34】という返答は、サシャの示した道にも通じる。

「結局お姉ちゃんは自分を盾にして巨人から私を逃がしてくれた/この道を走れば…いつかあなたを助けてくれる人と会える だから会えるまで走ってと言って…」【35】

 カヤはサシャに助けられたときのことを、このように回顧する。「進む」ことは『進撃の巨人』において、あらゆる他者を踏み潰そうとする個人=エレンの象徴でもある。しかしサシャの遺した「道を走れ」という指示は、誰かと出会うための振る舞いだ。ひとりで立ち尽くすのではなく、共に立ってくれる誰かに出会うまで森を抜けるための模索を続けることこそ、構造の中で翻弄される個人に開かれた変革の可能性なのである。そして実際に、カヤやニコロやブラウス家に助けられたガビとファルコは、エレンを止めるために重要な役割を果たすのだ。
 これらの人びとの動きがサシャという故人についての語りで繋がっていく点に、特に注目しておきたい。死者は生者の語り直しを通じ、死してなお新たに他者と出会い、その選択に影響を及ぼしてゆく。ここにはプラクティカル・パストの持つ、極めて重要な社会的機能が現れている。

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