ちくまプリマー新書

資本主義=悪? 搾取を生まないビジネスの新しいかたち

『ファッションの仕事で世界を変える』より本文一部公開

この世界を良くしたい。ビジネスの世界で活躍したい。キラキラと輝く「好き」をあきらめたくない――「エシカル・ビジネス」を切り拓いた起業家が贈る『ファッションの仕事で世界を変える』(ちくまプリマー新書)より、本文を一部公開! 鹿児島に生まれた著者が世界に羽ばたいたきっかけ、貧困の現場で見た現実、そして出会ったベトナムの鞄づくり。新しい資本主義の姿をつくり出す、新しいビジネスの形とは?

ファッションに憧れた子ども時代

 一九八一年、夏の終わりの暑い日に、緑豊かな鹿児島の田舎でわたしは生まれました。ファッションデザイナーをしていた母と、繊維関係の商社で働く父のあいだに生まれ、その後、父の実家のある愛知県一宮市で育ちました。一宮市は繊維産業で栄えた町で、家のまわりには機織り工場や紡績工場が並び、幼いころから工場からの織機の音を聴きながら、ファッションの世界が身近にある環境で育ちました。

 一人っ子だったこともあり、大勢で遊ぶよりも一人で遊ぶのが好きな子どもでした。自分の部屋で絵を描いたり、漫画や本を読んだり、ゲームをしたり。洋服やアクセサリーづくりをして一日過ごす日も多くありました。休みの日は父と岐阜に化石掘りに行ったり、海に行った日には貝殻を拾って穴をあけ、それをネックレスにするなど自然のものでアクセサリーのデザインをしてみることもありました。

 母親はわたしが生まれてからはファッションデザイナーの仕事は辞めていたものの、家で母やわたしの洋服をデザインしてつくっていたので、母の描くデザイン画を見ることやミシンを動かして洋服制作をする過程を見ることも日常の一コマでした。母に言わせれば、わたしはおもちゃ売場に行くよりも、名古屋の大塚屋(手芸用品店)の端切れコーナーに行くほうが目がらんらんと輝く子どもだったそうです。小学生の時のクラブ活動は手芸部。暑い夏の日の放課後に、プールで遊ぶ他のクラスメイトたちを横目に見ながら、フエルト素材で小物をせっせとつくっていたことはいい思い出です。実家に帰ると当時制作したぬいぐるみやキーホルダー、ビーズ細工がいまでも母の部屋に飾ってあります。

 そんな子ども時代だったので、高校時代、進路選択をするタイミングで、必然的にファッションの世界で働くことを考えていました。ですが、両親ともにファッションの仕事には反対。「きらびやかに見えるが、どこで働いても給与が低くとても苦労する環境だから」「自分が好きな洋服ばかりがつくれるような甘い世界ではないからやめておきなさい」などと猛反対され、わたしは夢の行き場を失ってしまいました。いま思うと幼いころからの長年の夢が壊れた、ちょっとした挫折経験かもしれません。

 もっとも、ただ挫折した、というよりは、反対を押しのけてまでわたしがやりたいことなのかと自問自答したときに、たしかにファッションは趣味でいいのかもしれない、他の世界も見てみようかと、親の意見も聞きつつ冷静に現実を考えたのも事実です。とはいえ他にやりたいことがわからず、しばらく道に迷っていましたが、一緒に住んでいた祖父のひとことで変化が起きました。祖父曰く、「日本は女性にとって生きづらい国だ。就職してもお茶汲みしかさせてもらえない。結婚すれば家の言いなり。夏子は海外に行ったほうがいい」

 祖父は海外旅行が趣味で、戦争経験者でもあり、さまざまな国に足を運んでいました。そして起業家として薬局や能楽の教室、催眠術師の資格も取り、催眠治療も行うなど、手に職をつけながら複数のスモールビジネスを営んでいました。一緒に住む唯一の孫としてわたしは幼いころからとても可愛がられていたので、なんとか女性として生きづらくない世界に出したかったのだと思います。諸外国で女性が活躍している事例を実際に見てきた祖父であるからこそ、この日本で女性がいかに生きづらい状況にあるかを察していて、女性として生まれた孫がこの先差別を受ける可能性があることを心配していたのでしょう。

 祖父のそんなひとことから世界に出ることに興味が湧き、海外で勉強することが現実のものとなっていきました。将来的に、さまざまな国を自由に飛び回るような仕事ができたらと自分の姿を想像するようになったのもこのころからです。この時、わたしはすでに高校三年生。大学進学のための受験勉強をする友人たちを横に、わたしは学校帰りに名古屋の国際センターに通い、留学を志す人のための情報収集をし、ブリティッシュ・カウンシルに通うなどして留学準備を開始しました。

 高校三年生で海外の大学留学の準備をするには時間が足りないと判断し、一旦名古屋市にある南山短期大学に進学。短大に通いながら留学準備を進めるなかで、人生を変える衝撃的な出来事がありました。

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