ちくまプリマー新書

人はなぜ服従しがちなのか…「慣れてるから」「安心するから」「責任回避」
『従順さのどこがいけないのか』より本文を一部公開

「みんなそうしているよ」「まわりに合わせないと!」「ルールだからしかたがない」「先生がいってるんだから」――こうした発想が危険なのはなぜでしょうか? 好評発売中の『従順さのどこがいけないのか』(ちくまプリマー新書)では政治、思想、歴史からその理由を徹底解明。人が「服従」してしまう理由に迫る本書の第一章より、本文を一部公開します。

責任回避としての服従

 さらに、服従することは、自分が責任を取らなくて良いことを意味するようです。実際、冒頭で紹介した実験を行ったミルグラムも言っています。「服従の本質というのは、人が自分を別の人間の願望実行の道具として考えるようになり、したがって自分の行動に責任をとらなくていいと考えるようになる点にある」。

 命令を実行するとき、命令される人は命令する人にとっての「道具」でしかありません。だから、命令される人には責任がなく、責任を負うのは命令する人だと考えるのです。

 ですが、服従しさえすれば、本当に責任はないのでしょうか?

 命令を実行する人は、実際に、命令された事柄を実現しています。その限りでは、命令する人に劣らず、そのことに深く関わっていることに変わりはありません。

 ただ、ここでの問題は、自分の行動について自分で決定しない、という点です。

 単に「命令されたから」命令されたことを行うというのは、自分で自分の行動を選び取っておらず、他人任せなのです

 自分の行動の選択を他人任せにするのは、別に「命令」されなくても、しばしば日常生活で起こっていることです。

「自分は、本当は文系志望なんだが、親が理系を選択すべきだというからしょうがない」

「自分はこの男性が特に好きではないんだけど、親や知人が強く勧めるから、この人と結婚することにした」

「自分は今勤めている会社が嫌で嫌でたまらないんだけど、辞める勇気もなかったところ、友人からの助言に従って辞めることにした」

 こんなふうに考えている場合は、いずれも、自分で自分の望むところを選ぼうとしていないことになります。

 しかし、その結果、「理系学部に進学したけど、勉強がつまらなくてどうしようもない」とか「結婚はしたものの、結婚相手が大嫌いになっちゃった」とか「会社を辞めたはいいけど、再就職先がない」なんていうことになったらどうするのでしょうか。

「親がそうしろというから」「友人がそうアドヴァイスしたから」といくら愚痴を言ってみたところで親や友人には責任の取りようがありません。

 このように、ミルグラムが指摘した「命令されることで命令する人の道具になる」ということは、「他人任せで自分では何も判断しないし、何も決定しない」ということなのです。

 判断も決定もしないことから責任がなく、楽で自由だと思い込んでいるわけです。

 確かに、ある選択を迫られる時、自分で判断し決定しなければならないことは、決して楽ではありません。しかし、本来、自分で意思決定することこそが「自由」の意味するところです。

 ですが、自分で意思決定することに伴う責任から逃れられることにも、一種の解放感があります。その解放感を「自由」と取り違えることが少なくありません。

 しかも、「命令されたから」大量虐殺の執行許可を与えたアイヒマンは、「命令されたことをやっただけ」とは言っても、その責任を取らされ死刑となりました。

 ナチス・ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク裁判については、俳優ピーター・ユスティノフが雑誌『ニューヨーカー』にこう書いています。

「何世紀にもわたって、人類は服従しないことを理由に処罰されてきた。ニュルンベルクで、人類は初めて服従したことを理由に処罰されたのである」

 服従するということは必ずしも道徳的に正しいことではないし、服従することで責任は必ずしも免除されるわけではない。そのことを、第二次世界大戦の経験を経て、私たちは改めて嚙み締めることとなったわけです。


 

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