キッドのもと

倉敷キッド

ちくま文庫『キッドのもと』一部ためし読み

8月刊行、浅草キッド渾身のセルフ・ルポ、ちくま文庫『キッドのもと』から、水道橋博士「倉敷キッド」を大公開!

 ボクが生まれ育ったのは岡山県の倉敷市。
 「倉敷っていいところですよねぇー!」
 田舎の話をすれば決まって言われる。
 確かに倉敷の美観地区は昔から名高い。柳並木が揺れる倉敷川の両岸には、白壁と黒い瓦葺(かわらぶ)きの土蔵、格子窓の屋敷が江戸情緒を残し、一年を通じて全国から多くの観光客が訪れる。
 そして南へ足を向ければ、風光明媚な瀬戸内海を臨むが、一方では公害で悪名高い水島コンビナートを擁する工場地帯でもある。
 今でこそ、日本で一番降水量が少ない〝晴れの国・おかやま〟を謳うが、ボクが小学生の頃は、毎日、光化学スモッグ注意報が発令されていた。
 つまり、光もあれば影もある。いや煙もある。 実家は、その美観地区から徒歩五分ほどのところにあった。
 四方の道が舗装された市街地の中だったが、家の前には稲作用の水田があった。
 小ぶりな田んぼではあったが、季節の移り変わりとともに、田起こし、田植え、稲刈り、稲木干しと、その表情を様変わりさせた。
 ボクは目の前で青々と成長する稲穂の表情を、しがみつくバッタのように間近に見ながら、ピョンピョンと跳ね回りスクスクと育った。
 それは、どこにでもいる田舎の無邪気な子供であり、将来を憂うことなど一切ない幼
年期だった……。

 慎ましやかな田んぼを見下ろすように、実家は無駄に大きな屋敷だった。
 黒壁の塀に囲まれた日本庭園と、二階建ての家屋から成る旧家で、敷地面積は三百坪。庭には大きな松の木がそびえ立ち、錦鯉の泳ぐ池、裏庭には蔵が二棟、さらに母屋の対面には祖父母が住む離れもあった。
 外観だけではない。実家は岡山と縁の深い、かの横溝正史が『犬神家の一族』で描いたような、代々の本家の伝統やしきたりを残す「旧い家」だった。
 祖父は存命中、家長として格別の威厳を持っていた。
 三世代が同じ屋根の下に暮らしていながら、家族内の序列も厳しく、ボクが幼児の頃は家の中が常に〝凜〟としていた。
 幼稚園に入る年齢になると、家長の祖父と接する時、言葉遣いを注意されるようになった。岡山の男の子の一人称は、通常「わし」だったが、祖父の前では「ぼく」とかしこまり、語尾も「じゃ」ではなく「です」「ます」と丁寧語で接した。
 今では当たり前の「孫という名の宝物」的な浮かれた気風も、子供がチヤホヤされる風潮も、当時は祖父とボクの間には全くなかった。
 物心ついた頃から祖父は病で寝たきりだったが、家族の皆からお伺いを立てられ、稼業と家業を病床で陣頭指揮し、威厳あるその姿は、さながら銃弾に倒れながらも権力をふるったゴッドファーザー、ドン・コルレオーネのようであった。

 実家は商売をしていた。
 父は、戦後、紙問屋を始めた祖父の跡を継いだ二代目で、問屋の他に駅前で、和紙や文房具、掛け軸、結婚式の熨斗(のし)などを売る店舗も兼業していた。
 昔は「倉敷紙業」という堅い会社名であったが、その後、時代に合わせたのか、「紙のカミヤ」という、今度は一転してペラペラの、恥ずかしさすら感じるベタな屋号となった。
 かたや、母方の祖父は中国銀行の副頭取まで登りつめた銀行家であり、勇退後は岡山国際ホテルなどで要職を歴任。折々に、その去就が地元紙の記事になり、紙幣の肖像画を見るような「お偉いさん」の風格を子供心に感じていた。
 小学校の高学年の時、夏休みに祖父宅へ泊まりに行くと、近所のゴルフ練習場に連れていかれた。
 芝生でパターの練習をしながら、祖父はボクに初歩的な鶴亀算の問題を出した。
 ボクが、わからないまま当てずっぽうで答えると、「違うのぉ……」と残念そうに首を振り、家に戻ってから「この子は、いげーに計算ができんのんじゃのぉ」と言った。
 今から思えば実に予言的な言葉だった。
 実際、母方の親戚には「計算のできる」銀行マンや会計士などが多かった。また、父方の家系も皆、実直な勤め人ばかりで、はみだし者やお調子者はひとりもいなかった。

 父は家庭内では言葉数が少なく、家庭サービスなど皆無だった。
 そんな父の態度に母が不平をこぼすと、
 「女の小利口は男のアホウより劣るぅ言ょんじゃ!」
 「何を言ょんでぇ! 聞いてあきれて屁がねばらぁ!」
 いつもこの口調で言い争った。

 父は家にいる時、実に不愉快そうで、決まってキッチンで晩酌しながら、ひとりで本ばかり読んでいた。
 そういえば、この頃、親戚一同で出かけることになった上高地への旅行に、父だけが多忙を理由に同行しないと言い張り、母と揉めたことがあった。結局、父は家に居残り、ボクらが旅行から帰ると、いつものようにキッチンで本を読んでいた。
 何を読んでいるのだろうと覗いてみると、それは『馬賊戦記』という、戦前、満州に渡ったひとりの日本人が馬賊になり、大陸で大冒険を繰り広げる物語だった。
 家族旅行にも行かず、どうして、父はあんな本を読んでいたのだろうか?
 ボクの少年期に、人前で大笑いしたり、涙を見せることのなかった父は、きっと本の中で、ひとり喜怒哀楽を味わっていたのだろう。心ここにあらずといった様子で本を読み続ける父の姿が、今も目に焼き付いている。

 一方の母は、子育てと寝たきりの義父の看護を強いられ、子育てが一段落すると、毎日欠かさず父の店を手伝いに出向いた。その後に経験する、晩年の父の壮絶な介護生活を思えば、若い頃から、ずっと働きづめだった。
 また、二つ上の兄は、東京の大学を出て、一時は勤め人として外に出ていたが、結局、父の仕事を継いだ。
 今も、長男の自覚からか、家族の誰より優れた忍耐心と調整能力を発揮し、一時はバラバラになりかけた「小野家」の要となって、家族と家業を守っている。
 このように「田舎の典型的なお堅いウチ」であった我が家の血筋から、よりによって「芸人」が出るなんて、家族や親族にとっては思いも寄らない突然変異だっただろう。

 ボクは生まれてから高校を卒業するまで、祖父母、両親、兄、そして飼い犬の「マキ」とともに、この家で過ごした。
 マキは、ボクが小学四年生の時に兄弟でねだって買ってもらった柴犬だ。
 毎日、「ボクが連れていく!」と兄と競って散歩に連れていったが、二人とも次第に子供同士の遊びのほうが面白くなり、マキが放っておかれる日が続いた。
 そんなある日、マキが裏庭から逃げ出し、行方不明になった。
 学校が終わると、連日、母と兄の三人で捜し歩いた。
 数週間探しあぐねた末、地元で霊験あらたかと言われていた、山の中腹にあるお寺さんへご託宣をもらいに行った。さまざまな儀礼の後、住職は厳かに「その犬なら近くにおるようじゃのう」と言い、やおら外を指差すと、なんと境内に、マキがワンワンと吠えながら現れたのだった──。
 狐につままれたような話だが、勿怪(もっけ)の幸い、奇跡の再会を家族は喜んだ。  しかしながら、家に帰ってからも、ボクはずっと腑に落ちなかった。自宅から山門までの距離は車で三十分以上、さらに、本堂は百段もの石段を登った山深くにあるのだ。
 「犬は賢けぇなぁ……」と母は感心しきりだったが、なぜ、あの時、あの場所にマキがいたのか、今も不思議でならない。

 その一年後、マキが再び逃げ出した。この時は三ヶ月以上探し続けただろうか。お寺のご託宣も今度は功を奏することなく、ボクも兄も捜索を途中で諦めた。
 しかし、母だけは毎日、辛抱強くマキを探し続けた。
 ある日、「マキが見つかったんじゃ!」と母が犬を連れて帰ってきた。見ると、それは確かに同じ柴犬ではあったが、どう考えてもマキとは別の犬だった。顔も体の大きさも明らかに違う。
 ボクだけでなく、兄もそのことに気づいていたが、母が頑(かたく)なに「マキじゃ!」と言い張るので、そのまま、その犬をマキとして飼うことになった。
 結果、ボクはすっかり偽犬に冷めてしまい、尻尾を振るのを見ても「おい、偽犬!」と呼びつけ、「オマエにはダマされないよ!」と相手にしなかった。
 数年間、その偽犬は母にだけなついていたが、ある日、散歩中にまたも逃げ出し、そ
のまま帰ることはなかった。
 この時は母も執着しなかった。
 そんな母の姿を見て、ボクは、母も内心は自分の連れて帰った犬がマキじゃないことをわかっていたのだろうと思っていた。
 ただ、まさか後に自分もマキと同じように、この家から、そして、母からも逃げ出す
ことになろうとは……。

 実家は大きな屋敷だったと書いたが、子供時代に自分の家が裕福だと思ったことは一度もなかった。
 時は高度成長期の真っ只中ということもあり、生活に困るような貧窮はなかったが、かといって両親から潤沢に小遣いをもらった経験も皆無だった。むしろ父親の方針で物資的には甘やかされず、欲しい物もオモチャも、ロクに買ってもらえなかった。
 そんな自分の境遇に対して、「ヨソはヨソ、ウチはウチ」という、親の決まり文句に粛々と従い、他の家と比較して不平不満を言うこともなかった。いや、むしろ、その当時はまだコンピューターゲームがなかったこともあり、家にこもることなく、好きなだけ外で遊べる日々を謳歌していた。
 しかし一方で、昭和三十年代の〝子供の領分〟は闘争社会であり、子供の遊びといっても生々しい臨場感があった。そして、怪我は日常茶飯事であり、〝怪我は自分持ち〟が大原則だった。
 今では考えられない過激な遊びが、いくつもあった。
 セメント工場の採石場を舞台にした戦争ごっこは、投石ありの「最も危険な遊戯」だ。それは学区外の縄張りを巡る本格的な抗争だったため、『プライベート・ライアン』さながらに、前後左右に飛礫(つぶて)が飛び交うド迫力の攻防戦であった。
 小学生の時、日々エスカレートしていった階段飛び競争は、『蒲田行進曲』のヤスも顔負けの、大スタントシーンが繰り広げられた。
 自転車の手ぶら運転競争は、平地からやがて坂道へと場所を変え、頻繁に行われた。最終的には鶴形山の頂から自転車で滑降するという度胸試しになり、カーブを曲がりきれず、そのままE.T.なしの空中浮遊を披露した末、着地に失敗する事故が後を絶たなかった。
 今でもボクの膝頭には生々しい傷跡がいくつも残っているが、とにかく男子は常に生傷だらけで、骨折くらいの惨事はざらにあり、クラスにはギプスを巻いた子供が必ずひとりはいた。
 ちなみに大怪我自慢で言えば、三角ベースの試合中に、木製バットの素振りがたまたま近くにいたボクの側頭部を直撃した事故で、一ヶ月もの間、『寄生獣』のような巨大なコブと共生していた。また、同じ頃に一度、飛び出しで車にはねられてギプスを巻いたこともあったが、「小野家の恥じゃ。飛び出したオメェが悪いんじゃ!」と激高する祖父のもとで土下座し、さらに運転手の家にまで詫びに行かされた。ソニー損保もびっくりの、加害者満足度ナンバーワンの対応だった。

 そう言えば、小学四年生の時には、担任から初めて鉄拳制裁を受けた。
 授業中に話を聞いていなかったのか、普段は紳士的な先生が突如として席に駆け寄り、髪の毛を鷲掴みにすると、そのまま床に引きずり倒し、ボクの顔を黒板に叩きつけた。
 泣きながら帰ってきたボクに対して、事の次第を聞いた親は「子供の教育に手塩をかけてくれてありがたい!」と言い、わざわざ先生の自宅にまで挨拶に行って感謝の気持ちを伝えたものだ。
 父の会社で無邪気に遊んでいる時に、度が過ぎたのであろう、番頭さんにビンタを際限なく喰らって顔が腫れ上がったこともあった。父は番頭さんに礼を言い、詫びに行かされたのはボクのほうだった。
 もっぱら家で大人しくしていた兄と比べると、小学校低学年の頃までのボクは俗に言う「野生児」で、親が将来を心配するほど、やんちゃが過ぎた時期もあった。
 雲母や水晶を探しに行った山の中で迷子になり、捜索願いを出されるという『スタンド・バイ・ミー』的な事件は、今もよく覚えている。
 超大型の雷魚が釣れる用水路の橋の下で、子供がいることを気づかれぬまま、水門が開かれ、水に流されたこともあった。
 駐車場に停まっている車の屋根を渡り歩き、面白半分にバットでフロントガラスを壊して回ったこともあった。
 他にも、音楽室に忍び込んでコントラバスの弦をすべて外したり、倉敷川に流れる観光用の渡し船の舫(もや)いを解いて勝手に乗り回したりして、警察に補導されることもあった。
 とにかく、ボクの破壊活動による毎回の弁済額がバカにならず、親はその損害を補償する特別な保険にも入っていたほどだ。

 しかし、小学校高学年になるにつれ、問題行動は次第に減っていき、むしろ一転して、大人が扱いやすい子供になっていった。
 この頃の主流であった、勧善懲悪のアニメや青春ドラマで育った影響なのか、子供心にも正義感が強かった。また、いつも「お天道様が見てる!」という呪文にも縛られるようになった。
 クラスでは学級委員に選ばれ、通知表は、ほぼオール五。体育も苦手にしない健康優良児で、小学六年生の時には児童会長にも選ばれた。 今でこそ、ならず者の吹き溜まりして知られる、たけし軍団の一員ではあるが、ボクは小学生までは実に健全に過ごしていたのだ。
 昔、親戚が集まると、よくこんな風に言っていた。
 「末は博士か大臣か!」
 後年、まさかバッタモンの「博士」になって帰ってくるとは誰も思わなかっただろう。

 古風な門構えで、玄関をくぐれば大家族が待ち受ける賑々しい「家」であったが、ボクが小学生の時に祖父が逝き、その数年後には祖母が逝き、高校生になると、兄が大学に進学するために上京した。
 そして、ボクも十九歳の春に家を飛び出した。
 二〇〇七年に父も八十一歳の天寿を全うし、現在、実家では老いた母がひっそりとひとりで暮らしている。

 戦後すぐに建てられたこの旧家は、何度となく修繕を重ねつつも、倉敷らしい、白壁の蔵、杉板を焦がした黒塀を残し、三代にわたる我が家族を囲い続けた。
 そして、家族がひとりひとり離れていく様を、半世紀以上にわたって物言わぬまま見守ったのだった。

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