ちくまプリマー新書

戦後日本の時代精神を憲法に読む

8月刊行の長谷川櫂著『文学部で読む日本国憲法』(ちくまプリマー新書)の「はじめに」から抜粋します。小説のように詩歌のように、虚心に憲法を読んでみる試みです。

 東海大学では(略)、2014年から「日本国憲法を読む」という講座をつづけています。法学部ではなく文学部で、しかも俳人がなぜ憲法について講義をするのか。ときどき質問されますが、理由はいまお話ししたとおり、日本国憲法が戦後の時代精神を考えるのに絶好の教材だからです。
 法学部の憲法の講座は条文の解釈や具体的な事例への適用が中心となると思いますが、この講座では法学部のような講義はしません。日本国憲法にはどのような人類の思想が流れこんでいるのか、そこに記されている国民主権や戦争放棄はどのような思想のうえに成り立っているか、そして憲法は何を伝えようとしているのか、さらに日本人と政府に何を求めているのかという問題について探ってゆくのです。いわばシェークスピアの戯曲や芭蕉の俳句や谷崎の小説を読むように日本国憲法を読んでゆくわけです。
 この読み方はそれほど無茶な方法ではありません。なぜなら文学も法律も言葉で書かれているからです。言葉の奥に広がる世界を解明する文学の方法で憲法を読んでも問題はないはずです。それどころか法学の読み方では見えない部分が見えてくるかもしれません。
 人間のさまざまな仕事のなかで言葉を使う仕事が三つあります。一つは文学、次に政治、もう一つが宗教です。この三つは言葉から生まれた兄弟のようなものです。このうち政治の産物の一つが憲法をはじめとする法律です。
 そればかりか、この三つが相手にするのは人間であるという点も共通しています。人間とは何か。人間とは欲望をもった生き物であり、そのため人間同士でも、人間の集団同士でも絶えずもめごとが起こります。個人間の揉めごとが喧嘩であり、国家間のもめごとが戦争です。
 ただもしここまでなら動物も同じですが、人間とその集団が厄介なのは自分の欲望と行動を言葉で正当化するという点です。自分の欲望や行動をすぐ「?のため」と正当化したがる。その正当化の言葉が「大義名分」です。
 なぜ人間は大義名分で自分の欲望や行動を正当化するのか。その最大の理由は人間が欲望の化身でありながら、欲望を醜いと思い、恥と感じる矛盾した生き物だからです。人間の裸体は醜いので、たいてい衣装で覆い隠しているようなものです。このように哀しくも滑稽な人間を描くのが文学です。『源氏物語』も『マクベス』も『瘋癲老人日記』もまさにそうした人間を描く文学の名作です。
 動物の世界は欲しければ奪う、これですべて片づきます。ところが人間は欲望を追求しながら、欲望に欲望以上の意味(意義)を求めようとします。それは人間がほかの動物とちがって言葉をもち、言葉による意義づけに目覚めてしまった生き物だからです。
 動物は言葉も意味もない世界に生きていますが、言葉をもつ人間はありとあらゆるものに意味を求めようとします。意味のない世界には耐えられない。恐るべき無意味の世界から人間を救済する壮大な体系がじつは宗教なのですが、人間社会には宗教以外にも断片的な救済方法が用意されています。それが大義名分です。
 そこで人間社会では「あなたのため」「会社のため」「国のため」あるいは逆に「国民のため」、このようなさまざまな大義名分が飛び交います。政治家とはある欲望を実現するため大義名分を編み出し、それを掲げて人々を動かそうとする職業のことです。
 同じように国家間では「人権救済のため」「民族解放のため」「平和のため」という大義名分が国の欲望を正当化するために使われます。「自由のための戦争」「平等のための戦争」「民主主義のための戦争」、挙句のはてには「平和のための戦争」という大義名分さえあります。
 このような大義名分の応酬はほかの動物には決して見られない人間的な光景です。そして個人であれ国家であれ、大義名分のうしろの闇には個人や国家の抱く欲望が虎のように目を光らせて潜んでいることを忘れてはなりません。
 こう書いてくると、人間とは欲望の塊であり悪の権化であるかのようですが、絶望することはありません。人間の欲望は金銭欲、名誉欲のようなものばかりではなく、自分を犠牲にしてもこの人を守りたいという愛情も、同じように自分を犠牲にしても何かを実現したいという理想もまた人間の欲望です。人間は金銭欲、名誉欲、愛情、理想の混ぜものであり、善と悪の合金です。
 文学も政治も宗教もこの複雑怪奇な人間を相手にしています。文学は人間を描き、政治は人間を動かし、宗教は人間を救おうとする。そのなかの政治の産物である法律は人間たちのもめごとを捌くための取り決めです。そして憲法が相手にするのも欲望と愛情と理想をもった人間という厄介な生き物です。

 

 民主主義、平和主義、そして表現の自由

 日本国憲法は1945年(昭和20)8月15日の昭和戦争の敗戦後ただちに草案作りがはじまり、翌46年11月3日に公布、47年5月3日に施行されました。ところが誕生直後から賛否の嵐にさらされてきました。その一方、憲法自身は「崇高な理想」に向かって大日本帝国憲法(明治憲法)と戦前の旧体制と闘い、冷戦時代(1945‐89)もその後も内外の「見えざる敵」と闘ってきました。
 戦後の日本人もこの新しい時代に父母、祖父母の世代をどう乗り越えるか、あるいはどう受け継ぐか、試練にさらされてきましたが、それはそのまま憲法の歩んできた道でもあります。この点で日本国憲法は戦後的かつ国民的な第一級の文書です。それは同じく言葉で書かれた戦後の小説や詩歌の及ぶところではありません。
 この本でとりあげるのは東海大学での講義同様、日本国憲法に書かれている国民主権(民主主義)、戦争放棄(平和主義)、表現の自由(基本的人権)の三つです。国民主権、戦争放棄、基本的人権、この三つは「日本国憲法の三原則」と呼ばれるもので、前文と第1~3章に書かれています。基本的人権は表現の自由だけではありませんが、この問題をとりあげるのは、表現の自由が戦争放棄とじつは密接に関わっているだけでなく、もっとも今日的で地球的な問題だからです。
 日本国憲法にはこのほか、国の組織と運営(国会、内閣、司法、財政、地方自治)を定めた条項(第4~8章)、憲法改正の手続き(第9章)、憲法施行のための補則(第11章)がありますが、必要に応じて触れてます。
 それでは日本国憲法を読んでゆくことにします。
 

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