ちくまプリマー新書

「よく言ったぞ」にある違和感

「だって、みんなそうしているよ」「ルールだから、しかたがない」「先生がいってるんだから」、これらの発想がいかに危険なのかを説いた、将基面貴巳『従順さのどこがいけないのか』の書評をライターの武田砂鉄さんに書いていただきました。ある言葉への違和感から考えます。

 最近、「よくぞ言った!」と言われる。どんな発言に対してかというと、新型コロナ対策よりもオリンピック開催を優先した政治家たちへの苦言に対して、そんな声が飛ぶのだ。実に不思議だ。そんなの、どこが、「よくぞ」なのだろうか。覚悟なんて必要ない。巨悪を暴いたわけでもない。新事実を突きつけたわけでもない。失政を前にして、これは失政だ、と告げたに過ぎない。これのどこに、「よくぞ」があるのだろうか。

 日本社会には、逆らってはいけない、という考え方が濃い。なんだそれ、と感じつつ、正直、どうぞご自由に、とも思っている。ただ、いただけないのは、それと同時に、逆らうのであれば、よほどの覚悟が必要、とする考え方まで強まってきている点だ。これはおかしい。力を持っている人に対して物申したり、逆らったりする行為を、特別な働きかけだと位置付け、それでも踏み出したと賞賛される。なぜ、賞賛されなければならないのか。

 ネットで注文した果物が家に届き、箱を開けると、その大半が傷んでいたとする。小さな虫もわいている。注文した店に電話をかけ、「ちょっと、これはさすがにないでしょう」とクレームを入れる。こんな行動を知り、「よくぞ言った!」と言う人はいないはず。さすがにそりゃそうだよな、と思うだろう。まったく同じことだ。政治も果物も変わらない。これは困る、と思ったら、そのまま口に出す。差などない。差があってはいけない。

 でも、とりわけ、この国では、政治に対して、異議申し立てをするのが相当な勇気だとされてしまう。著名人が表立って政治的な主張をすると、そのファンの中からガッカリする人まで出てくる。政治的な主張をしない、というのも大いに政治的主張なのだが、とにかく、偉い人(偉いとされている人)から与えられたものは、基本的に受け入れなければ、と思っているらしい。

 『従順さのどこがいけないのか』というタイトルにこちらが勝手に答えてみるならば、ただただ従順だと、一体あなたが何を考えている人なのかわからないから、いけないのだ。本書にこうある。「忠誠心を持つということと従順であるということは同じではありません」「忠誠心を抱くからこそ、忠誠を誓う対象に反抗するということもあるのです」。

 自分が「よくぞ言った!」と言われるようなことに対しては、「そんな不満があるなら、日本を出ていけ!」といった罵詈雑言も飛んでくる。嫌です、断ります、出ていきません。「出ていけ!」は一撃必殺のようなつもりなのかもしれないが、私は、今、この暮らしている日本というのがそれなりに好きで、今のところ、これからもここで暮らしていこうと思っているので、その日本が暮らしやすい場所であってほしいという気持ちを込めて、その気持ちが欠けている為政者を問題視する。

 『自発的隷従論』を記したド・ラ・ボエシの言葉を引き、「私たちは、私たち自身の内面に確立されてしまった、服従する『習慣』と戦わなければならない」、そして、「その服従する『習慣』とは、思考の惰性でもある」のだと書く。

 異論を言わず、常に従順な姿勢でいる人は、素直なのではない。惰性なのだ。考えることをサボっているのだ。「私はAだと思う」と表明した人に「私もです」と乗っかるだけでは、思考とは言えない。「そうですか、あなたはAですか。私も考えてみましたが、Aだと思います。Bと言う人もいますが、Bは間違っています。なぜかというと……」、これが思考である。単なる従順には思考が無い。

 「集団は、誰かが声を上げなければ形成されません」とある。声を上げる行為を、特別な行為にしてはいけない。そんなの、いつだって、どこだって、平然と行われなければならない。自分が不満に感じたことについて、相手を選ばず、不満ですと言う。それを繰り返していけば社会は変わる。繰り返さないと社会が硬直する。硬直すると、動きやすくなるのは、いつだって為政者だ。