苦手から始める作文教室

第12回 ありのままを書くということ

伝わる文章とはどんなもの?②

本当のことが書かれていると文章は伝わると津村さんは考えます。本当のこととはどんなことを言うのでしょうか? そしてそういった文章を書いたり・読まれたりする経験とはどんなものでしょう。前回に引き続き「伝わる文章」を、今回はちがった方向から考えていきます。

 前回は、「伝わる文章」について、文そのものにどういうものが含まれていたら読んでいる人に伝わるのか、ということについて書きました。今回は、その内容について書きたいと思います。内容についてと言っても、主題は書きたいことであればなんでもよいので、おもに「どういう書き方をしたらよいのか」「どんな心がまえで書くとよいのか」という、ちょっとぼんやりした、わたしの主観的な話です。

 わたしが誰かの作文を読んで、「伝わってくるなあ」と思えるのは、実感が書かれていることです。実感がどういうものかは説明しにくいのですが、こちらが読む側だと「本当のことが書いてあるよな」と感じられることです。わたしのタイプライターの内蔵の辞書では、実感とは〈現実の物事に接することで得られる感じ。現実の物事に接しているかのような感じ。また、そのように感じること〉と説明されています。

 「現実の物事に接することで得られる感じ」と言い切ってしまうと、ゲームやマンガや映画のことは書けないので、この「現実の物事」は、作文の中で取り上げる物事ではなく、実際に存在する「書き手自身の心」ということにしましょう。「書き手自身の心に接しているような感じ」が書かれている状態とはつまり、書き手自身の感じたままのことが書かれている感じです。ようするに、書き手がうそをついていない状態です。書き手が本当に感じていることが書かれている状態です。

 自分が誰かの文章を読んで、「この人は本当にこう感じているんだな」と思えた場合、そういう文章はだいたいおもしろいです。多少文の組み立てがぶかっこうでも、それでもやっぱりおもしろいです。本当のことを書いているぶかっこうな文の反対は、うそを書いているきれいな文ということになりますが、わたし自身の主観だけで言うと、それはつまらない文章です。

 本当のことを書くほうが簡単なのに、わざわざうそをつくなんて、と思う人もいるかもしれません。わたしもそう思いますが、作文でもSNSでもいいんですけど、誰かに自分についての文を見せる時に、ついつい見栄を張ってしまう人っていますよね。文を通して「自分を大きく見せたい人」「自分を良く見られたい人」が、そういうことをやるわけです。誰だって自分を大きく見せたいですし、良いように見られたいよな、と考えると、「わざわざうそをつく」ことはそんなに理解できないこと、難しいことでもないように思えてきます。

 そういう人はべつにそうしたらいいと思うんですが、ただわたし自身は「つまらない」と思います。伝わってこない文章です。伝わる文章を書くためには、文章を使って自分を大きく見せようとすることをまずやめると良いかもしれません。

 せっかく見栄を張れる機会なのに、自分を大きく見せようとしないことは、居心地が良いでしょうか? 悪いでしょうか? わたし自身の体験しかお伝えすることはできないのですが、本当のことを書いて誰かが気に入ってくれたり、悪くないと思ってくれることは、決して居心地の悪いことではありません。この連載を通して、わたしがどれだけしょぼい生活をしている人間であるかについてはいいかげん伝わっていると思うのですが、「この人はこんなにしょんぼりした生活をしているのに一応生きているのだから、自分もあんまりいいことはないけどまあがんばろう」などと思っていただけたとしたら、わたしはとてもうれしく感じます。

 ずっと文章を書いてきて気付いたことの一つに、自分自身のしょうもないありのままの出来事を文章に書いてみると、そのしょうもないありのままの出来事が、でも捨てたものではないなと思えてくることです。意味がある、と言い切ってしまうのとはちょっと違いますが、「しょうもないのもそれほど悪くないな」という感じです。

 たとえばわたしは、先ほどデスクの周りに持ってきてコップに注いだたはずのスポーツドリンクの1.5リットルのペットボトルを、だいたい5分ぐらいの間で見失ってしまい、デスクの周りをさんざん探し回ったあげく、あんなでかいものをなくすって自分のだらしなさって何なんだ……、とちょっと絶望していたのですが、自分は意外ときっちりしていて、トイレに行くついでに無意識に台所にペットボトルを戻しに行っていたということが判明しました。出来事としてはただのいらいらする話ですが、整理するとまぬけに思えてきます。自分に起こる出来事を文章して「まぬけ」化することは、いらいらする日常をそれほど悪くないものにする一つの方法だとわたしはまじめに思っています。

 わたしの話だけだと貧弱ですし、ありのままの出来事をおもしろく書いている文章は世の中にたくさんあるので、個人的に好きなものを紹介します。

 一つ目は、ジョージ・オーウェルという人が『パブと大衆』という本について書いた感想の中にあった文章です。ある女性が、自分のお祖母さんがすごくビールが好きだったということについて語っています。

 

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 あたしは、昔、お祖母さんが夜ビールを飲んでいるのを見てると、楽しかったのよ。とても美味そうだったわ。おつまみは、干からびたパンにチーズをのっけただけだったのに、それがご馳走みたいに見えてね。ビールを飲んでりゃ百まで生きられるってお祖母さんは言ってたわ。九十二で死んだけど。

                                            ※出典①下記参照

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 ビールを飲めなくても、好きでなくても、このお祖母さんとお孫さんのしみじみと楽しい様子が浮かんできて、すぐに干からびたパンとチーズをくれ! という気分になる文章ですね。

 二つ目は、シモーヌ・ヴェイユという人が工場で働いていた時のことを細かく記した日記の中の文章です。彼女はわりと不器用な人のようで、あまり工場での仕事には向いていないようです。しかもこの時は好きでない人と働いています。

 

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わたしははやくやろうとばかりつとめた。〈中略〉スピードを調節するのはむつかしい。一々数えたりしていられないからだ。疲れる、とくに一一時四五分にそとに出たときは、ぐったりだった(「プリジュニク」で食事、くつろぐ。工場へもどるまでの、しばらくの楽しい時間〈後略〉。

(五時半に)元気はつらつと帰宅。一晩中いろんな考えで、頭の中はいっぱいだった〈中略〉。「プリジュニク」で食事したことが、夕方こんなふうに気持よくしていられるのに何程かあずかっているのだろうか。

                              ※出典②下記参照

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 「プリジュニク」とは、均一価格の商品を売る大衆的なデパートのことだそうです。ばかみたいなんですが、これを読むと、いやな仕事をしている時や疲れている時ほど、好きなところでごはんを食べようという気持ちになりますよね。

 どちらもまったく自分を大きく見せようというところのない、まるでかざりのない文章ですが、本当のことがとても伝わってくる文章だとわたしは思います。

 見栄を張れることも文章のよいところではありますが、文章を書くことは、さえない「本当のこと」「普通のこと」をみがいて光らせることも可能にします。さえない「本当のこと」「普通のこと」が光って見えるということは、「本当のこと」「普通のこと」であっても「それでいいんだ」と思えることでもあります。わたしは文章を書くことを通して、「普通のこと」も本当であればそれほど悪くないんだと思えるようになりました。

 

出典①:ジョージ・オーウェル著 小野寺健訳「ビールを飲む理由 世論調査所編『パブと大衆』書評」 『一杯のおいしい紅茶』(中公文庫)所収 より

出典②:シモーヌ・ヴェイユ著 田辺保訳『工場日記』(ちくま学芸文庫)より

 

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