はじめての哲学的思考

第10回 信念の対立をどう乗り越えるか

 真理なんてない。客観的な事実というものさえもない。すべては僕たち自身の“確信”や“信憑”である。
 これが、哲学的思考のまず一番重要なキホンだった。
 じゃあその“確信”や“信憑”を、僕たちはいったいどのように抱くのだろう?
 最も根本的には、それは「僕たち自身の欲望に応じて」である。
 これが、哲学的思考の最大の“奥義”、「欲望相関性の原理」だった。

 前回の終わりに言ったように、この原理は、さまざまな問題に応用できるすぐれた原理だ。
 とりわけ威力を発揮するのは、次の2つの問題だ。
 1つは、“信念対立”をどう乗り越えるかという問題。もう1つは、“生きづらさ”や“不幸”“絶望”などの、いわゆる実存的問題をどう克服するかという問題だ。
 今回は、このうちまず1つめについてお話しすることにしたいと思う。

信念対立を乗り越える

 学校や仕事、家庭など、僕たちは日常生活のさまざまな場面で、日々信念の対立に遭遇する。「俺の考えは絶対に正しい、お前は絶対にまちがっている!」……そんなことを、僕たちはしばしば口にしてしまうことがある。
 でも、本連載でずっと述べてきたように、この世に絶対に正しい信念なんてものはない。
 そう、僕たちの信念は、実は何らかの欲望や関心によって編み上げられたものなのだ。

 たとえば、学校は子どもたちをびしっと統率しなければならないと考える親や教師が一方にいる。他方、学校は子どもたち一人ひとりの自由をできるだけ尊重しなければならないと考える人たちがいる。
 異なる信念を持つ両者は、時に激しく対立することがある。
 でも、この信念の次元で対立をつづけているかぎり、両者が理解し合うことはひどくむずかしい。「自分こそが正しい、お前はまちがっている」。そんな信念のぶつけ合いに、多くの場合終始することになるだろう。
 そんな時に重要なのは、どちらの信念が正しいかと考えるのをまずやめることだ。そしてお互いの信念が、いったいどのような欲望や関心から編み上げられたのか、互いに吟味することだ。

 たとえば、集団統率をよしとする教師は、かつて学級崩壊に苦しんで、そんな経験はもう二度とごめんだと思っているのかもしれない。だから統率力を発揮して、子どもたちのみならず、校長や保護者たちからその指導力を認められたいという欲望を持っているのかもしれない。
 他方、子どもたちの自由を尊重すべしと考える人は、子どもの頃集団統率的なクラスになじめず、孤独な思いを抱えた経験があるのかもしれない。だからそんな疎外感を、今の子どもたちに味わわせたくないという欲望があるのかもしれない。

 もっとも、本当に学級崩壊の“経験”が集団統率への欲望を抱かせたのか、あるいは、集団統率の苦しい“経験”が自由尊重の欲望を生み出したのか、その真相は究極的には分からない。前回も言ったように、過去の経験と僕たちの欲望との因果関係は、厳密には“たしかめ不可能”なものなのだ。
 でも、集団統率の欲望であれ、自由尊重の欲望であれ、僕たちが何らかの欲望を抱いていることそれ自体を疑うことはできない。
 つまりここで重要なのは、どちらの信念も、実は僕たち自身の欲望から生み出されたということなのだ。
 信念、それは欲望の別名なのだ。

 信念対立の現場において、僕たちはそのことを十分に理解し合う必要がある。そうすれば、「なるほどね、あなたがそういう欲望を持っているということについては、まあ分からなくもないよ」と、お互いに一定の理解を示し合えるようになるだろう。
 信念の次元で議論をし合うかぎり、僕たちは互いに一歩も引けなくなることがある。でも欲望の次元で対話をすれば、僕らは相手の欲望を理解しようとすることができるようになる。少なくとも、その可能性を開くことができる。
 もちろん、だからと言って、お互いにすぐに共感し合ったり納得し合えたりするわけじゃないだろう。でもその理解への意志は、対立を乗り越えるためのささやかな一歩になるはずなのだ。

 そこで次に重要なのは、お互いのそうした欲望や関心が、本当に妥当かどうか吟味することだ。
「自分の統率力を認めさせたい」という欲望は、本当に子どもたちのためになっていると言えるのか? 「孤独を感じさせたくない」という思いは、本当は独りよがりな欲望にすぎないんじゃないか? といった具合だ。
 そうやってお互いの欲望の妥当性をたしかめ合いながら、僕たちは、徐々にお互いが納得し合える“共通関心”へと思考を向かわせる必要がある。独りよがりな欲望・関心じゃなく、どちらも共有できる、もっと深い関心を考え合うのだ。

 たとえば、自由尊重派の教師のみならず、集団統率派の教師も、子どもたちにはゆくゆくは自由に、つまり生きたいように生きられるようになってほしいという関心なら、きっと共有できるにちがいない。
 でもだからと言って、子どもたちのわがままな自由を、今教室でそのまま認めるわけにはいかない。そのような関心もまた、両者は共有できるにちがいない。
 本連載の第1回で言ったように、僕たちが自由に生きるためには、他者の自由もまた認めることができなければならない。以前も言ったように、哲学ではこれを「自由の相互承認」の原理と呼んでいる。
 この原理の重要性を、両者はきっと“共通関心”として持つことができるはずだ。
 とすれば、僕たちは「集団統率か、自由尊重か?」といった対立をつづけるのではなく、子どもたちのゆくゆくの自由と、その“相互承認”を育むという「共通関心」を、どうすれば実現することができるのか、共に考えていけるようになる。
 信念対立は、その時対立から協同へとひっくり返るのだ。

 もちろん、実際の信念対立の現場では、とりわけ感情が邪魔をして、事はそう簡単には進まないだろう。でも、もし僕たちが本気で対立を乗り越えたいと思うなら、こんなふうにお互いの欲望や関心の次元にまでさかのぼり、その上で、お互いが納得できる共通関心と、それを叶えるためのよりよい第3のアイデアを見出し合っていくべきなのだ。

超ディベートの方法

 すでにお気づきの方もいると思うけど、以上述べてきたことは、前に少しご紹介した(第7回)、「超ディベート」(共通了解志向型対話)の具体的な方法でもある。
 いわゆる競技ディベートのように、肯定側と否定側、どちらが説得力があったかを競うのではなく、お互いに納得できる“第3のアイデア”を見出し合う対話、それが超ディベートだ。
 この“第3のアイデア”は、お互いの欲望の次元にまで思考をめぐらせることで、共に見出し合うことができるようになる。
 そこで最後に、そのための思考のステップを改めてまとめておこう。

①対立する意見の底にある、それぞれの「欲望・関心」を自覚的にさかのぼり明らかにする。
②お互いに納得できる「共通関心」を見出す。
③この「共通関心」を満たしうる、建設的な第3のアイデアを考え合う。

 誤解のないよう言っておくと、これは“妥協点”を見出し合う議論というわけじゃない。
 妥協は、お互いがお互いに少しずつ折れることで、はじめに求めていた地点より低い地点での合意を得ることだ。
 それに対して「共通了解志向型対話」は、文字通り、どちらもが納得できるよりよい“共通了解”“第3のアイデア”を、共に見出し合うことをめざすものなのだ。

 信念を、ただ素朴に主張し合うのではない。その信念の底にある欲望の次元にまでさかのぼれば、僕たちはきっと、対立を乗り越え、そんな“共通了解”を力強く見出し合っていけるはずなのだ。
 

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