十代を生き延びる 安心な僕らのレジスタンス

第10回 「自分の言葉で話す」って難しい

寺子屋ネット福岡の代表として、小学生から高校生まで多くの十代の子供たちと関わってきた鳥羽和久さんの連載第10回。自分で考えているつもりになってませんか?

この連載は大幅に加筆し構成し直して、『君は君の人生の主役になれ』(ちくまプリマー新書)として刊行されています。 刊行1年を機に、多くの方々に読んでいただきたいと思い、再掲載いたします。

自分の思考って?

数日前に、小論文が書けないと相談をしてきた高3のRさんが「自分の思考を言葉にできないんです」と言ったので、私はとっさに「自分の思考って何?」と尋ねてみたのですが、彼女は「うーん」と考え込んだきり、何も言えなくなってしまいました。

このとき私は「自分の思考を言葉にできない」と言ったばかりの彼女に対して「自分の思考って何?」と言葉で答えさせようとしていたわけで、そんなの答えられないに決まってるんですが、ここで私が尋ねたかったのは、いまRさんが言った「自分の思考」ってほんとうにあなたの中にあるの?どうしてそう言えるの?ということです。

構造主義の立役者(たてやくしゃ)のひとりとして知られるソシュール(注1)が明らかにした言語についての大きな成果のひとつは、私たちが「自分の思考」だと思っているそれは、言葉で表現されることによって初めて生じたのであり、思考が言葉とは別に自分の中にあるわけではない、ということです。

このことを踏まえれば、あなたがもし小論文を書くときに何か適切な表現を見出したとしたら、それはあなたの中にすでにあった「自分の思考」に言葉を与えたわけではなくて、あなたが言葉を見出すと同時に、その言葉が表現する思考を作り出したわけです。

ということは、Rさんの「自分の思考を言葉にできない」という言明はちょっと無理がありそうです。だって、この言い方は「言葉」に先立って「自分の思考」があることを含意(がんい)していますから。

そうではなくて、彼女は単に「自分の思考」のようなまとまったものは何もないこと、言葉が不足しているから十分な思考が成立していないことを認めなければならなかったのではないでしょうか。でも、そんなことを認めるのはイヤですよね。なんだかバカにされている感じがします。

自分の思考は言葉と同時に生まれる

Rさんは直球で小論文が「書けない」ことを悩む生徒でしたが、小論文が「書ける」と思っている生徒だって大差はないかもしれません。他の高校生たちの小論文の解答を読んでいると、勇敢にも問題文(著作家たちの執筆内容)に真っ向(まっこう)から反論を試みるものが多く見られます。中には面白いものもあるのですが、しかしそのほとんどが言葉足らずのイキリ芸に終始しています。

過剰なエネルギーが空回りする彼らの文章を読むのは、モヒートを飲んだときのような爽(さわ)やかな快楽さえあるのですが、でも問題文の論旨(ろんし)を全く理解できないまま、苦し紛(まぎ)れに的外れな自分語りをしているそれは、お世辞にも良い文章とは言えません。

それにしても、「自分の思考」は言葉と同時に生まれるのであって、言葉以前には自分の思考などないなんて、私たちはなんておぼつかない存在なのでしょうか。それをさらに煮詰(につ)めて考えてみると、そのおぼつかなさは、言葉がはじめから持っている性質に由来していることがわかってきます。

言葉はだれのもの?

私たちはふだん、自分がしゃべる言葉を「自分の言葉」だと認識しています。だから、人前でしゃべるのは緊張するし、自分の意見を求められると、なんとか自分で考え抜いた言葉を相手に伝えようと躍起(やっき)になります。

でも、言葉というのは、自分のものとは到底言いがたく、もともと他人のものなんです。あなたは、生まれたばかりのときには言葉を持ちませんでした。そこから少しずつ、親や家族、周りの人たちを真似しながら、あなたは少しずつ言葉を覚えてきました。そしていま、他人からの借り物である言葉をあなたは日々話したり、記述したりしています。

あなたが言葉を扱う以上は他人の存在が不可欠で、あなたは言葉と言葉のあわいをまさぐりながら、他人と分かち合うことができる言葉を探す営みを今日も続けています。

だから、言葉を習得することは、他人の視点から見てみるということであり、他人の視点に無理やりにでも合わせてみるということです。さらに、それは社会の中に自分の身を投げ打って、社会の秩序の中に自分を組み込もうとすることでもあります。ということは、私たちは言葉を扱うことを通して、他人や社会(=自分が属する言語共同体)の価値観を承認し続ける存在であるとさえ言えるでしょう。

自分の思考や経験を「言葉の問題」として捉える

だからこの意味において、あなたは「自分の言葉」や「自分の思考」を安易に信じてはいけません。「言葉を通して思考する自分」こそが「自分」なのだと思うのは危ないのです。

なぜなら、それを信じてしまうと「言葉を通して思考する自分」はすでに他人に乗っ取られていることがわからなくなってしまうし、同時に、自分が発する言葉のひとつひとつが既存の価値観を反復しているという事実に気づかなくなるからです。これは、個として自分独特の生き方をしたいと望む私たちを脅(おびや)かす事態です。(ちなみに、この観点から、外国語の習得は、異なる言語のもとでは世界を認識する枠組みと価値観が一旦キャンセルされてしまう(注2)ことを深く味わうことができるという意味においてこそ重要だと言えます。)

さらに踏み込んで言えば、私たちの「経験」というのは思考の枠組みのひとつです。だから、あなたの経験は、あなたが使用する言葉によって規定されています。もっと正確に言えば、言葉はあなたの具体的経験そのものであり、経験は言葉のうちにあります。ということは、あなたは「自分の経験」さえ易々(やすやす)と信じることはできないわけです。

つまり、ここであなたの命運を握っているたったひとつの事柄は、あなたが自分の思考や経験は煎(せん)じ詰めれば言葉の問題であることを深く認識することができるかということです。それは、哲学者の千葉雅也さんの言葉を借りれば、「言葉を言葉として意識している自分であるか」(注3)ということでもあります。

これが、自分の思考や経験をメタで客観視するためのポイントであり、そのことが世界に対してレジスタンスを行うあなたの根っこに無ければ、あらゆる抵抗は他の経験と一緒くたになって雲散霧消(うんさんむしょう)してしまうでしょう。

それにしても、自分の言葉で話すというのは並大抵(なみたいてい)のことではないと私は思います。でも、自分独特の生き方というのは、「自分の言葉」で生きていくことの言い換えであり、それを抜きに語ることはできません。だから、何としてでも持久戦でつかみ取りたい、つかみ取ることが難しくても、何とか自分の中でホールドし続けたい課題です。

関連書籍

鳥羽和久

おやときどきこども

ナナロク社

¥1,760

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入

鳥羽 和久

親子の手帖 増補版

鳥影社

¥1,540

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入