些事にこだわり

「知恵の輪熊」の可愛らしさは誰にもわかるまい

蓮實重彥さんの短期集中連載時評「些事にこだわり」第4回を「ちくま」11月号より転載します。東京または全国各地で、ハクビシンや猿、猪や熊などさまざまに出没する野生動物たち。しかしいかなる動物にもまして魅惑的なのは、幼児のおぼえちがいから生まれた「知恵の輪熊」なのでした――。

 いまからかなり前の二十世紀の終わり頃だったと思うのだが、妻と二人で遅い夕食のテーブルを囲んでいると、ふと何やら気配を察して思わず瞳をあげ、隣家をへだてるコンクリートの壁が見える小さな窓に視線を送る。すると、何やら大型の――明らかに猫ではない――動物がこちらをじっと窺っているではないか。その不気味に輝く瞳と目があうと、相手は動こうともせずにじっとこちらを見すえている。このあたりにはあまり目にしたこともないのに、あれは間違いなく狸か狢だと確信し、妻に目を向けてみよとうながすと、あっと口にするなり、フォークを持つ手をとめてしまう。その瞬間、その得体の知れぬ不気味な動物は視界からあっさり消えていたのだが、見ただろというと、見た見たと彼女は息をつめるようにして応じる。あれは、いったい何だったのか。
 首都ではまあ郊外といってよかろう世田谷区に暮らしてから八十年余をこえているが、犬や猫ならともかく、見たこともない動物があたりを跋扈しているのかと思うと、わたくしども夫婦は何とも不気味な思いに囚われたものだ。あとでわざわざ交番まで出かけて事情を説明すると、ああ、ハクビシンでしょう、このあたりにはよくでるんですよと警官は笑いながらとりあおうともしない。どうやら、「白鼻芯」と書く外来種の食肉動物らしい。
 ちょうどその頃だったと思うが、都心からかなり離れた地域に位置しているさる研究施設まで交渉に行かねばならなくなったことがある。面倒だなあと舌打ちしながら厄介な仕事をすませ、迎えの車の後部座席に深々と身を落ちつけると、運転手がカーブを切ろうとしたとき、ほんの一瞬だけ見えた目の前の深い溝の奥に二匹の狸が身を隠し、こちらを窺っている姿をはっきりと目にした。ああ、狸だと口にすると、こんなところにそんな野生動物など住んでいるはずもないではないかと同行者はいいはって譲らない。だって、ここは東京都だとはいえ、かつては草木に覆われた武蔵野と呼ばれるにふさわしい大地だったのだから、狸や狐が一匹や二匹いたって一向に不思議ではないと口にすると、じゃあそういうことにしておきましょうと同行者は信じる様子もなく答えたのだった。そのときの狸の親子――だと思う――の視線が、塀の上のハクビシンのそれとよく似ていたので、こちらとしては、思わずそう確信するほかはなかったのである。
 ところで、問題のハクビシンだが、ごく最近ではその駆除業者の広告が郵便受けにもよく入っていたりするから、その被害はかなりのものらしい。区役所にもハクビシン119番というものがあるとのことで、この動物は、どうやら住み心地がよいらしく、世田谷区にすっかり棲みついてしまったらしい。屋根裏などに巣を作り、よからぬ病原菌をまき散らしてもいるから、これはきわめて有害な動物と判断されているという。どうやらわが令和日本の首都は、その種の外来種の動物にはことのほか寛容らしい。それが外来の人間男女となると、必ずしもそうではなさそうなのだが……。
 他方、在来種のニホンザルにとって、わが世田谷区はその通過点にすぎないようだ。彼、あるいは彼女は、河川の多い地区から二十三区をぐるりと横まわりして、杉並区からやってきて大田区へと抜けて行くものばかりだ。電線の上を器用に飛び歩いて見あげる人間どもを睥睨し、あっという間に物影に姿をくらましてしまうその活動ぶりの俊敏さを目にすると、棲みついてくれればそれなりに面白そうだと無責任に思ったりしたものだが、どうやらそれは羽田空港の格納庫内であっさり捕獲されてしまったらしい。世田谷区で人目を惹いたものと同じ個体だとは、断言しえないそうなのだが。

 つい最近のことだが、北海道は札幌の市街地にいきなり羆が姿を見せて人を襲ったという。その巨大な羆は、学校の校庭をのんびりうろついていたかと思うと、いきなり柵を乗り越えて空港にまで侵入し、航空機の運航までストップさせてしまったという。もちろん、それはテレビの画面で見たものにすぎず、はたして札幌だったかどうかさえ確言しえないのだが、有刺鉄線が張りめぐらされた高い柵を難儀しながら乗り越えて滑走路に入ろうとしているその大きな姿を見て、思わず声にはならない笑いがこみあげてくる。だが、必死に人の流れを危険な野獣から遠ざけようとしている警官たちの真剣な仕事ぶりを目にすれば、笑ってばかりはいられないと思わず考えを改めた。
 こうした羆を市街地へと呼びよせているのは、どうやら人間たちの無邪気な善意らしい。都市に緑をというかけ声で空き地という空き地を律儀に植林したことで、野生動物の隠れる場所が異常に増えたかと思うと、石狩川に鮭をというスローガンで、子供たちに稚魚を大量に放流させた結果、確かに鮭は札幌市あたりまで見られるようになったとのことである。実際、射殺された羆の胃の中には、明らかに鮭を食べた形跡が残されていたという。どうやら、そんなことはこれまでにはなかったようだ。
 そうした無邪気な善意に似たものとして、福島県の放射能汚染地域の野生動物たちの増殖があることはいうまでもない。確かに、その土地は、東京電力の原子力発電施設の存在で潤っていたともいうが、電源が失われるという発電所ではおよそ考えられない事故の結果、津波の影響もあってその四号機が水素爆発したという事件は、その十年後のいまも記憶に新しい。その結果、住民が暮らす権利を剥奪された汚染した土地に、いまでは牛や馬を始めとして、猪、狸、狐、猿等々、野生動物どもがわがもの顔で跋扈しており、これもテレビでみたものにすぎないが、放置された民家をものともせずにあたりを徘徊するさまは、壮観というほかはない。それに加えて、この愚かな疫病の蔓延にともなってのことらしいが、中国では象の群れが市街地を跋扈しているかと思うと、モスクワではライオンまでが出没し、それが大統領令によるものだというフェイク・ニュースまで流された次第だ。
 こうした事態は、いうまでもなく、令和日本の某政権政党の総裁選などより遥かに重要な事態だというべきだろう。世田谷区でさんざん耳目を騒がせておきながら、羽田空港であっさり捕まってしまったらしい猿が、立候補直後は優勢と思われた某氏を思わせるなどとは、間違ってもいわぬつもりだ。また、野生動物とは異なり人間にはことのほか忠実な番犬ともいうべき某氏が、いくら干されていても、最終的には番犬にふさわしく与党の総裁になってしまった、などともいわずにおく。だが、いずれにせよ、首相になるためには、羆や月の輪熊に似た候補者など遠ざけられるしかなかったのは確かだと思う。

 しかし、熊には、羆であれ月の輪熊であれ、そのまごうかたなき獰猛さにもかかわらず、どこかしら見かけの滑稽感が漂っている。ところが、そう思っていたところ、北九州市では、今日もまた凶暴な猿が出没して、高齢の女性を背後から襲ったという。こちらは、どうも笑っている場合ではなかろうと思う。猿には、熊の漂わす親しみやすい滑稽感が不在だからだろうか。それにしても、どうして羆や猿は、二十一世紀の令和日本で、かくもしばしば人を襲うのか。
 とはいえ、どのように野生の動物と共存するのが人類にふさわしい姿勢かといった問題を真摯に思考するといったことに、わたくしはいっさい興味がない。熊や猿がいきなり目の前に現れたらどうなるかと聞かれれば、個人的にはただただ狼狽えるしかあるまいと答えるだけだ。
 もっとも、羆の生息地は北海道に限られており、本州から九州にかけて住んでいるのは月の輪熊だと教えられたのは、小学校に入る以前のことだったと記憶している。そのとき、七歳前後だったはずの幼児は、「月の輪熊」をなぜか「知恵の輪熊」と思いこんでしまった結果、さかんに知恵の輪を操っている器用で聡明な小熊のイメージが頭の中に形成されてしまった。もちろん、本州に棲息しているのは「月の輪熊」であって「知恵の輪熊」ではないと理解してからも、知恵の輪を前にして考えこんだりしている小熊のイメージだけは忘れがたく、できれば仲良くしたいなどと思いもしたものだ。
 実際、人間と仲のよい熊をヒーローとした物語は、ディズニーのアニメーション映画『くまのプーさん』(Winnie The Pooh, 2011)を始め、ポール・キングPaul King監督の『パディントン』(Paddington, 2014、続編、続々編も作られている)などなど、一応は可愛らしいと判断されうる熊をヒーローとした物語は絶えることがない。前者はA・A・ミルンAlan Alexander Milne、後者はマイケル・ボンドMichael Bondという、それぞれイギリスの作家の第一次世界大戦直後、第二次世界大戦直後にかかれた児童文学をもとに作られた映像作品だが、そこでは熊の凶暴性にはまったく触れられてはいない。だからといって、大英帝国の作家たちが描く熊の特性をめぐっては、無用な誤解を招きかねないから注意が必要だなどと、無粋なことはいわずにおく。
 ただ、八十年前のわたくし自身が誤解から想い描いた「知恵の輪熊」なるものの可愛らしさは、格別のものだった。かりに、どこかの誰かが「知恵の輪熊」をヒーローにした映画を作りたいと申し出たとしても、その版権だけは、価格の如何にかかわらず、誰に譲渡する気にもなれない。

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