ちくま学芸文庫

現代メディアへの予言の書
ハロルド・A・イニス『メディアの文明史』解説

技術革新の進む20世紀半ば。ひとりの経済学者が、今日的なメディア産業批判にも通じる議論を提示する。コミュニケーション・メディアの深奥部には〈バイアス=傾向性〉が潜んでいること、それによって新しい社会の特性が決定づけられ、その時代の人々の思考様式などが変化していくこと。カナダの経済学者ハロルド・A・イニスは、粘土板・パピルスから新聞・ラジオまで、あらゆるメディア媒体の歴史を探査しつつ、ダイナミックな文明史観を描き出してみせた。彼の遠大なメディア論構想とそれが今日もつ意義について、東京大学教授・水越伸先生に解説していただきます。

一九九〇年代に入り、メディア論が一つの学問領域としてかたちを整えて始めてから今日まで、ハロルド・イニスは、幾多の本や論文で取り上げられながら、マクルーハンの前座を務めた人物という程度に言及されるばかりで、ほとんど顧みられることがなかった。本書もまた、メディア論の教科書には必ずといってよいほど登場するにもかかわらず、実際に読んだことのある人は驚くほど少なかったのではないだろうか。

 そうした経緯を思うと、この度、哲学者である久保秀幹が三十数年ぶりに訳文に修正を施し、筑摩書房が文庫本として復刊したことは喜ばしい。この小論では、イニスの人となりや思想、その現代的な意義などについて論じてみたい。

■木材からジャーナリズムへのアプローチ

 ハロルド・アダムス・イニスは、一八九四年、カナダのオンタリオ州アターヴィルという田舎に生まれた。アメリカのテレビドラマシリーズ「大草原の小さな家」はかつて日本でも人気だったが、彼はまさしくあのドラマに描かれたような環境の中で育ったようだ。蒸気船や汽車が往来して人や物資を運び、港や駅のまわりに町ができ、平原が畑に変わる。世紀の変わり目の北米で、イニスは移動メディアがもたらす自然や社会の変化を目の当たりにした。彼の思考様式は、その風土から生涯離れることはなかった、と私はみている。

 一九一三年、イニスはマクマスター大学に入学、その後、シカゴ大学へ移り、一九二〇年に『カナダ太平洋鉄道の歴史』という論文で博士号を取得した。この間に第一次世界大戦に参戦し、戦後は深い心的外傷を負った。シカゴ大学でイニスは、当時プラグマティズムの中心にいたジョージ・ハーバート・ミード、ロバート・エズラ・パークらのコミュニケーション論や、制度派経済学を切り拓いたソーンスタイン・ウェブレンの思想から影響を受けた。

 博士号取得直後、イニスはトロント大学に赴任する。それから死ぬまでの約三〇年、イニスは経済史、経済地理学、政治経済学の分野で高い評価を受けることになった。『カナダにおける毛皮交易』『タラ漁―ある国際経済の歴史』などが、この時期の代表作である。彼は、全国各地を駆けずり回って一次資料をかき集める自らの調査を、「泥まみれの研究」と呼んだ。それによって、それまでイギリスの植民地としての役割しかなかったカナダに、初めて内在的、自律的な経済史が立ち上がった。一九四〇年代、イニスは数々の学術組織や雑誌などを生み出し、カナダ王立協会会長となるなど、同国を代表する知識人となった。

 そんなイニスがコミュニケーションとメディアに興味を持ったのは、彼が毛皮やタラと同様に、製紙業と木材加工業に注目したのがきっかけだった。北米では二〇世紀前半に大衆新聞が発達したが、それは新聞紙の大量生産が可能となったためだった。大衆新聞はカナダの豊かな森林資源に支えられていた。すなわちイニスは、マスメディアとしての新聞に、その物質的基盤である紙と木材からアプローチし、やがてコミュニケーションとメディアに対して文明論的な関心を抱くことになったのである。

 

■未完のプロジェクト「コミュニケーション史」

 一九四〇年代、イニスはコミュニケーションとメディアに関する研究に本格的に取り組み始める。彼は古代帝国から近代国家に至るヨーロッパの文明史を、それぞれの時代に独特の傾向性(バイアス)を持って発達したメディアと、そのメディアによって枠づけられたコミュニケーションの歴史としてとらえ直すことができると考え、「コミュニケーション史」という遠大な研究プロジェクトを構想した。彼はそれまでの経済史家としての確固たる地位を顧みず、果敢に新たな領野を突き進んだ。その成果が、『帝国とコミュニケーション』『コミュニケーションのバイアス(本書タイトルの直訳)』、そして『変わりゆく時間概念』の三部作である。

一九五二年、イニスは癌のため五八歳で亡くなった。今日、人々が彼の名とともに想起するコミュニケーション・メディア研究の業績は、死の直前の数年間に相次いで刊行されたものだった。イニスが経済史を離れてコミュニケーション史に取り組むことを、同僚は誰も支持しなかった。遠大な「コミュニケーション史」プロジェクトは未完に終わった。そのプロジェクトの理論的デッサンのような作品が本書である。

 本書は八本の論考と二つの付録エッセイで構成されている。その多くが講演録を編集したものだ。ここで取り上げられる歴史的なトピックの多くは、前年に出版された『帝国とコミュニケーション』に由来しており、特に重要な「時間を弁護して〔メディアと時間概念の歴史〕」は、最後の著作『変わりゆく時間概念』の序曲となっている。

 多くの読者は、前半の論考だけに注目することだろう。なぜなら後半の論考と付録エッセイは、電磁波の技術論、大学教育など、いかにもバラバラな内容だからだ。しかしイニスがトロント大学で大学運営に関わっていたこと、ラジオやテレビを、かつて紙や木材からジャーナリズムをとらえたように、電磁波技術からとらえようとしたことなどを思い起こしてみよう。するとこれらの論考が、より大きなプロジェクトの一部を成し、いずれは相互に結びつけられるはずだった議論の塊として、見えてくるはずだ。

 久保もいうとおり、イニスは博覧強記で、その文章は難解だ。だがその背景には、余命幾ばくもない中で、ついに未完に終わるだろう大プロジェクトの核心部分を、なんとか書き残そうとした執念があったといえる。

■メディアのバイアスが引き起こす文明の循環

 次にイニスの主要な概念である、バイアス(傾向性)、文明論的循環モデル、知識の独占、声の文化についてみておこう。

 バイアスは英語で日常的に用いられる語で、日本語でも偏見や先入観の意味でカタカナのまま用いることが少なくない。ただしイニスの概念は、それと大きく異なっているわけではないが、そこに収まるものではない。彼はこの言葉を、メディアを構成する物質やシステムが持つ傾向性の意味で用いている。偏見、先入観という意味にはステレオタイプという類似概念があり、こちらは一九二〇年代、アメリカの政治評論家だったウォルター・リップマンが印刷用語を応用して生み出した概念だ。彼は、大衆新聞が大量の情報から特定のものを選択し、大衆に受けるように加工してまき散らす、画一化されたイメージをステレオタイプと呼んだ。

 リップマンのステレオタイプは、メディアの上に記述されたテキストやイメージのあり方に批判的に照準する。一方、イニスのバイアスは、ステレオタイプ化されたテキストやイメージが載る、メディアの物質的、技術的傾向性を指している。久保秀幹はそれらを踏まえ、バイアスに「傾向性」という訳語を与えた。イニスの意向を反映した妥当な訳だといえる。

 文明史をコミュニケーション史としてとらえなおす場合、そのコミュニケーションを支えるメディアの傾向性は、歴史的変化の原動力になり得る。イニスは次のように考える。ある時代に特定の国や社会が繁栄したならば、そこには独特の権力構造、官僚システム、宗教や文化が存在する。それらは特定の傾向性を持つメディアに媒介されたコミュニケーションによって成り立っている。やがて時間が経過し、新たなコミュニケーション・メディアが登場する。それは一般に文明の周縁に姿を現すが、その傾向性に応じたコミュニケーションが発達し、それによって新しいタイプの国や社会が力を持つようになる。やがてそれらは中心へと移動し、既存の国や社会に取って代わり、新たな繁栄をとげる。しかしいずれまた新たなメディアが登場すれば、さらなる交代劇が生じるというのだ。この壮大なメディアの文明論的循環モデルとでも呼ぶべき構図には、実証性の乏しさなどから多くの批判が加えられてきた。死期が迫ったイニスには、かつての「泥まみれの」実証研究をおこなう余力がなかったのである。しかしこのモデルは、これまで大きな時代変化の節目が来るたびに、メディア論的な議論で引用されてきた。

 この文明史観の中で、イニスが知識の独占に焦点をあてていたのは重要であろう。彼は、メディアの傾向性が、知識やコミュニケーションのあり方を特定の様式に枠づけてしまう、そのことを独占的だとした。それは、たんに知識が独占されるという以上の意味を持っている。「まえがき」にある「われわれはなぜ、われわれが耳を傾ける事柄に耳を傾けるのか」という謎めいた問いかけには注意しておこう。「われわれが耳を傾ける事柄」は特定のメディアの傾向性によって枠づけられているためだと、イニスは本書で答えているのだ。

 最後に、文明論的循環の中で、イニスが声の文化(オラリティ)を評価していることを指摘しておく。その評価には、古代的コミュニケーションを復古的に礼賛するきらいがないではない。しかしよく読めば、そこにはミシェル・ド・セルトーがいう密漁のような行為、あるいはウォルター・オングを先取りした声の身体性がもたらすミクロな日常的実践を凝視する、イニスの姿が見えてくる。イニスはマクロな文明論をミクロな社会史で裏打ちする作業を、未完に終わったプロジェクトで進めたかったにちがいない。

■古典なのにほとんど読まれていない経緯

 イニスはメディア論、コミュニケーション論の古典とされながら、マクルーハンに影響を与えた人という程度で、それ以上深く言及されることはない。近年はポール・ヘイヤーやアレキサンダー・ワトソンの伝記的研究があるものの(参考文献参照)、その位置づけは、英語圏でも日本でもあまり変わらない。

 一九五〇年代からおよそ半世紀において、メディアやコミュニケーションの研究といえばマス・コミュニケーション研究を指していた。その大本は、第二次世界大戦後のアメリカに登場した一連の実証的研究にある。マス・コミュニケーション研究は、北米、オーストラリア、東アジアなどの環太平洋地域において、テレビの普及と呼応するように発展した。

 その過程で、カナダでコミュニケーションやメディアの独特な研究に取り組んだ人々、イニス、マーシャル・マクルーハン、エリック・ハヴロックらは周縁化されていった。一九六〇年代半ば過ぎ、マクルーハンが時代の寵児となって世界的に話題となった。日本では評論家の竹村健一が紹介者となって、いわゆるマクルーハン旋風が巻き起こったが、ブームはあっというまに過ぎ去った。大学アカデミズムはマクルーハンを一過性の評論家ととらえ、勘のいいアーティストやデザイナーが八〇年代後半に再召還するまで、等閑視されていた。

 マクルーハンでさえそうであり、イニスはほとんど知られていなかった。二〇〇〇年代に入るとマクルーハンの再評価と本格的な研究が進んだ。文学や芸術の蘊蓄に富んだマクルーハンの著作は人文学の領域で人気となったが、その延長上で物質や政治制度にアプローチするイニスを読んでも、人文学者にその魅力は十分に伝わらなかったことだろう。

■メディア・インフラへの注目とイニスの再評価

 しかし二〇一〇年前後から、英語圏においてイニスの評価が高まってきた。それはメディア論の焦点が、テキストからインフラへと推移してきたためである。

 一九九〇年代にメディア論がマス・コミュニケーション研究とは異なる領域として本格的に登場した背景には、カルチュラル・スタディーズの台頭があった。カルチュラル・スタディーズは、日常生活の中の広告、テレビドラマなどに現れたテキストやイメージとオーディエンスの関係を、質的調査で明らかにする。そのアプローチは現在にいたるまでメディア論の主流である。それらは基本的に、テキスト、イメージをめぐるメディア論だといってよい。

 一方で、インターネットやスマートフォンが地球規模で普及し、自動車や家電が常時ネットに接続され、屋外空間に無数の監視カメラが設置され、オンライン会議やネット通販が当たり前のようになるなかで、テキストやイメージの乗り物となるモノやシステムとしてのメディアへの注目が高まっている。モノやシステムは単なる物理的、工学的な特性を持つだけではなく、政治経済的、文化的な特性をも持っている。それに気づいた世界各地の研究者は、イニスを思い出したのである。たとえば、メディア・インフラストラクチャーをめぐる思想を提唱するジョン・ピーターズや、モノと情報のグローバル・コミュニケーション現象に取り組むデビッド・モーレイの近年の著作は、イニスを召還し、モノやシステム、地理空間、地球環境までを視野に入れた、新たなメディア論の成果といえる。

 くり返しいえば、本書は、イニスが構想した「コミュニケーション史」プロジェクトの素描であり、予言の書とみなして読まざるを得ない。しかしヘイヤーらが指摘したとおり、私たちはイニスの読解に終始するのではなく、イニスを携えて現代メディアがはらむ問題に取り組み、その思想を展開していくべきなのである。

 そのためにも、私はこの本が多くの人々に読まれることを望んでいる。

(みずこし・しん 東京大学大学院教授)

 

□イニス晩年の三部作

Harold A. Innis. Empire and Communications. Dundurn Press, 2007 (First published in1950).

Harold A. Innis. The Bias of Communication. Second Edition. University of Toronto Press, 2008 (First published in 1951).

Harold A. Innis. Changing Concepts of Time. Rowman & Littlefi eld Publishers, Inc., 2004.(First published in 1952).

□参考文献

Paul Heyer. Harold Innis. Rowman & Littlefield Publishers, Inc., 2003.

David Morley. Communications and Mobility : The Migrant, the Mobile Phone, and the Container Box. John Wiley & Sons Ltd., 2017.

John Durham Peters. The Marvelous Clouds : Toward a Philosophy of Elemental Media. The University of Chicago Press, 2015.

Alexander John Watson. Marginal Man : The Dark Vision of Harold Innis. University of Toronto Press, 2006.

2021年11月19日更新

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水越 伸(みずこし しん)

水越 伸

1963年三重県生まれ。1986年筑波大学比較文化学類卒業、1989年東京大学大学院社会学研究科新聞学専修博士課程中途退学。同年より東京大学社会情報研究所助手。現在、東京大学大学院情報学環教授。専攻、メディア論。『21世紀メディア論』(放送大学教育振興会)、『メディア・ビオトープ――メディアの生態系をデザインする』(紀伊國屋書店)、『デジタル・メディア社会』(岩波書店)、『メディアの生成――アメリカ・ラジオの動態史』(同文舘出版)などがある。

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