人生につける薬

第10回
僕たちはなぜ〈かっとなって〉しまうのか?

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

 物理的因果関係と一般論のmust

 ストーリーにおいて、因果関係を言語で表現するときに、原因と結果とを結ぶ接続語句には「(だ)から」「ので」「ため(に)」などがあります。

 〈道内の東側で高気圧が停滞したため、前線の動きが鈍く、長期間にわたって強い雨が降る要因となっている〉(どうしんウェブ、2016年8月2日05:00配信、太字強調は引用者による
 この記事の題は「道内なぜ大雨続く? 高気圧停滞、暖気が流入」というものです〈なぜ〉? という問いにたいして、〈道内の東側で高気圧が停滞したため〉と答えています。

 おさらいになりますが、2016年7月末の北海道内の大雨という個別の事情の理由について、このような記述が成立し、理解されるためには、
 「高気圧が停滞すると、前線の動きが鈍くなるはずである」
 という、蓋然性のmust(「はずである」)が「一般論」として受け入れられていなければなりません。

 A : 道内の東側で高気圧が停滞した(きっかけとなったできごと)

 B : 「高気圧が停滞すると、前線の動きが鈍くなるはずである」(一般論)

 C : 長期間にわたって強い雨が降った(結果)

 こういった人為が介在しない物理的な因果関係であれば、話はシンプルで必然的なのですが、結果に人間の行動が介在している場合の因果関係は、どのようなストーリーになるでしょうか。

 

感情的リアクションにおける因果関係

 人間が外界からの刺戟に対して反応するとき、そこには感情が介在します。

 その最も極端な例では、暴力事件において、衝動に駆られた容疑者が〈かっとなって〉反応してしまうケースがあります。

 2016年、シンガーソングライターをやっていた大学生を、ファン(?)の男性が刺してしまった事件がありました。

〈容疑者は「プレゼントを贈ったが、送り返された。問いただしてもあいまいな答えをされたのでカッとなって刺した」と供述〉(東スポWeb「元刑事の犯罪社会学者が警察の後手対応を批判「警官配置すれば防げた」」[2016年5月23日16:17配信 ])

 〈問いただしてもあいまいな答えをされたのでカッとなって刺した〉(強調は引用者)

 この供述では、〈あいまいな答えをされた〉という「きっかけとなったできごと」と〈カッとなって刺した〉という事実とが〈ので〉で接続されて、因果関係を形成しています。

 〈カッとなって刺した〉の部分はさらに、〈カッとなって〉という心理的結果と、〈刺した〉という物理的結果に分かれています。

 

〈かっとなって〉の諸例

 原因と結果をつなぐ接続語は、省略されることもあります。

 教師が体罰で生徒を死に至らしめてしまった、という事件の公判で、裁判長は下記のように事件をストーリー化しました。

 〈被告人が被害者に対し、スカート丈を校則に合わせるように再度注意したところ、被害者が「わかっちょる」と言うなどしたため、被告人は口答えをされたと思い、かっとなって咄嗟に本件犯行に及んだ〉(藤井誠二『暴力の学校 倒錯の街 福岡・近畿大附属女子高校殺人事件』[朝日文庫]内、陶山博生裁判長の発言)

 また、こういうケースもあります。

 〈中卒で調理の仕事についた子は、先輩に「施設出身者は挨拶もできないのか」と言われ、かっとなって手を出してしまったことがあると話してくれました〉(明智カイト「差別や偏見、逆境に立ち向かう 児童養護施設から社会に巣立つ子どもたちの自立支援を考える」第2回[2016年6月5日11:00配信]内、認定NPO法人ブリッジフォースマイル代表・林恵子さんの発言)

 いずれも文面には出ていませんが、

・〈被害者が「わかっちょる」と言〉った(きっかけとなったできごと)から、〈かっとなって〉(心理的結果)+〈咄嗟に本件犯行に及んだ〉(物理的結果)

・〈先輩に「施設出身者は挨拶もできないのか」と言われ〉た(きっかけとなったできごと)から、〈かっとなって〉(心理的結果)+〈手を出してしまった〉(物理的結果)

 というロジックになっていることに変わりはありません。

 この因果関係は、いかにもストーリー的です。いかにもストーリー的であるということは、説明としてなめらかであるということです。

 しかしこの因果関係は、説明としてはほんとうに必然的なものなのでしょうか?

 

アルバート・エリスの「ABC

 もう少し問いを精密にしてみましょう。

 〈かっとなって〉という感情が行動を作り出しているのはわかります。ではその感情は、「きっかけとなったできごと」から直接生まれているものなのでしょうか?

 〈あいまいな答えをされた〉というできごとは、最初の例で言えば「道内の東側で高気圧が停滞した」というきっかけとなったできごと(A)に相当し、〈カッとなって〉という(心理的結果)+〈刺した〉という(物理的結果)が「長期間にわたって強い雨が降った」(C)という結果に相当するとなると、そのあいだの「一般論」(B)はどういうものなのでしょうか?

 米国の臨床心理学者アルバート・エリスは、人間の感情(心理的結果)はつぎのようにしてうまれると言います。

A:Activating event(きっかけとなったできごと)

B:Belief(信念)

C:Consequence(結果)

 できごとが人にある感情を抱かせるのは、そもそもその人があらかじめある種の信念を持っているからだというのです。同じできごとを前にして、人によってリアクションが違う理由が、ここにあります。人によって抱いている信念が違うからです。

 先述の例で言うならば、このことになるでしょう。

A : 問いただしてもあいまいな答えをされた(きっかけとなったできごと)

B : 「人は問いただされたら、明瞭な答えを出すべき(must)である」(信念)=一般論

C : カッとなっ(て刺し)た(結果)

 こう書くと、
「Bみたいな信念を持っているわけじゃなくて、ただ腹が立つんだ」
と思ってしまうわけですが、しかしエリスによれば、
「持ってないんだったら、Cの反応はしないでしょ? Cのようにリアクションしてしまった以上、あなたは意識していなくてもBだと思ってたわけなんですよ、理屈上」
ということになり、結局言い返せないんですよね。

 あらかじめ持っているBという信念における「べき」(当為・義務・道徳)に、Aは反しています。このことが、Bを抱く者を〈かっと〉させます。このとき、Bを抱く当人がつねにBの信念にしたがって行動しているかどうかは、必ずしも関与しません。

 

無根拠なmustとしての信憑(ビリーフ)

 Bの一般論をごらんください。 たしかに、問われたことにたいしてちゃんと答えるのが理想的でしょう。

 しかしこの「べき」は、現実世界に妥当するでしょうか?

 そもそも、現実世界に妥当する当為(「べき」)などというものは、存在するのでしょうか?

 Bの一般論は、じつのところ、
 「人は私が欲するとおりに行動するべきである」
 というふうに抽象化することができます。

 このように抽象化すると、最初の、シンガーソングライターの女性を刺してしまった人だけでなく、体罰で生徒を死に至らしめてしまった教師も、先輩に「施設出身者は挨拶もできないのか」と言われ、かっとなって手を出してしまった施設出身者も、あるいはまた、今日乗り換え駅のプラットフォームで列に割り込みされて〈かっとなって〉しまった僕も、
 「人は私が欲するとおりに行動するべきである」
 という一般論を抱いているから〈かっとなって〉しまったわけです。

 しかし、人は、僕の欲求を満たすために存在・行動しているわけではありません。

 また僕も、人の欲求を満たすために存在・行動しているわけではありません。

 ですから、人が僕の欲するとおりに行動しないのは、当然のことなのです。

 ここでもまた、ストーリーが人を苦しめています。

 「高気圧が停滞すると、前線の動きが鈍くなるはずである」
 という一般論のmustは蓋然性のmustであり、そこにはそれなりの科学的な必然がありました。かなりの程度、現実世界の実情に妥当しているものだったのです。

 いっぽう、
 「人は私が欲するとおりに行動するべきである」
 という信念(一般論)のmustはどうでしょうか?
 このmustは「義務」「当為」「べき」のmustであり、世界に対していわば命令しているというありかたになります。

 読売ジャイアンツのオーナーで政治家でもあった正力松太郎に「巨人軍は常に紳士たれ」という遺訓がありますが、これも命令形です。「巨人軍は常に紳士であるはずだ」という蓋然性の話ではありません。野球賭博にかかわってしまう選手もいる、という現状には、命令形の内容に合致しません。

 (だからこの遺訓はダメだという意味ではありませんよ。その逆で、理想論というのは、現実とある程度喰い違う可能性がなければ役に立たないのです)

 

感情的リアクションのストーリー化

 「人は私が欲するとおりに行動するべきである」は信念としては不適切であり、現実世界には妥当しません。

 人間はしばしば、このような不適切な一般論を、知らず知らず抱いてしまっています。そしてそのことに、自覚がありません。

 こういう、「不適切な一般論を知らず知らず抱いてしまうこと」を、「人情」と呼んでもいいかもしれません。

 このことの背後には、人間がこのメンタリティで生き残ってきたこと、その人類の群がやがて共同体になっていたこと、言語などを使って「共感」のシステムを形成してきたことなどが関係していると思いますが、そのことを追跡するのは、この連載の射程を遥かに超えた問題となります。

 いまここでは、こういった無根拠で不適切な一般論(must)を僕たちが抱いてしまっているという現状を確認するにとどめておきましょう。

 では、このようなストーリー的な苦境から脱するためには──不適切な信念(一般論)から脱するためには、と言ってもいいですが──どういう手段があるでしょうか?

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