冷やかな頭と熱した舌

第3回 
いいね!もリツイートもいらなくない?

全国から注目を集める岩手県盛岡市のこだわり書店、さわや書店で数々のベストセラーを店頭から作り出す書店員、松本大介氏が日々の書店業務を通して見えてくる“今”を読み解く!
さわや書店ホームページ開設されました!
http://books-sawaya.co.jp/

 

「人工知能」と「子供の貧困問題」のフェアを組む

 少し前のことになるが、「人間にとって、小説とはなんなのか?」ということを考えさせる本を、間を置かずに2冊読んだ。1冊は売れない小説家と幼なじみの編集者が文学界にケンカを仕掛ける物語。もう1冊は、大きな賞を受賞した芸人が本気で書いた文学論。

 似たようなテーマに、たまたま連続で当たってしまう時というのは、過去の例から考えると、自分のなかで無意識に問いへの答えを欲していることがほとんどだ。だからそういう時は、とことん考えるべき時が来ているのだなと思って、そのテーマについて何かしらの納得いく答えが出るまで、脳主導で考えることを受け入れることにしている。

 直近だと『2045年問題』(松田卓也)、『預言者ピッピ』(地下沢中也)、『AIの衝撃』(小林雅一)といった本を立て続けに読み、さわや書店フェザン店で人工知能をテーマにした売り場を、派手に展開した。店頭の一番目立つところで、上記の3冊に特製パネルをつけて展開し、店内の奥まったところにある「理系の棚」の前の平積みでは、より深い内容の類書を「これでもか」と並べた。
 これらの本を読み漁って得た結論はこうだ。最終的にコンピュータと同化してネット世界で半永久的に意思を存在させ続けること、現状においてはそれが最も魅力的な選択肢なのではないだろうか。例えるなら僕は映画「マトリックス」で疑問を持たずに繋がれている側だ。下手に覚醒して、苦難を選ぶようなヒロイズムは持ち合わせていないし、おそらく気付いたとしても確実に気づかないふりをしてやり過ごすほうを選ぶのだろう。
 さらに少し前には、子供の貧困問題について、ああでもないこうでもないと考えた。そのとき、手にとったのは『貧困の中の子ども』(下野新聞子どもの希望取材班)、『ルポ 子どもの貧困連鎖』(保坂渉、池谷孝司)、『チャイルド・プア』(新井直之)である。まだ無力で、自ら人生を切り開く力を有しない子どもが、経済的なハンデを抱えるルポにとてもショックを受けたのだった。彼らの親たちは僕と年齢的にさして変わらない。まずはこれらの事実を広めようと、子どもの6人に1人が貧困状態にあることを店頭のPOPで訴え、地元ラジオの本紹介コーナーに出演した際にはリスナーの方々へ「いま考えるべき問題がある」と語りかけることで認知を図った。そのかいもあって、1年以上経った現在もずっと売れ続けている。

ボクらの時代――ビックリマン、ミニ四駆、宮沢りえ、オウム事件

 自分が子どもだった時代を思い返してみると、実感はなくともバブルの浮かれた空気を肌で感じていたように思う。世の中には、裕福でなくても将来的には好転するだろうとの楽観がそこかしこに漂っていた。そんな僕らも年を取って現在働き盛りの世代となっているが、社会に出たあたりから「失われた」と言われ続けたことを案外根に持っている。そこには空手形であった「好転するだろう」という成長神話を信じてしまった、己への怒りも少し含まれている。
 「失われ始めた」1990年半ばあたりに社会へと出なければならなかった、現在50歳に届かないぐらいの人たちはまだしも、それよりも上の1980年代を謳歌した世代、かつ戦後の復興の労苦を経験せずに経済的に豊かな時代の波に乗っちゃった世代は、正直に言うと年金を放棄してもいいのではと思ったりもする。話がそれた。
 が、もとには戻さない。
 10代の頃は、変な自意識を持っていて「世代って言葉で一括りにするんじゃねぇよ」と強く思っていたのだが、30歳を過ぎて自分に期待をしなくなったあたりから、世代とは同時にスタートしたマラソン大会なのだなと思いはじめた。同じ時代の空気を吸い、苦しくなった時は同じ景色に目をやって、他の世代とは違う価値観を分かち合ってきた同志。ビックリマンシールを集めるために隣町のスーパーマーケットまで遠征した幼少期、小学校の高学年でミニ四駆を走らせ、思春期に宮沢りえがああなって、高校の時にはオウム事件により宗教への関心と不信とを同時に植えつけられた。時が経過することで、話が合うこと、流行を共に追い、作りだすことはコンテンポラリーが強く作用しているのだと感じる。
 全く同じ経験をする人生があったとして、時代が違えば岐路で下す判断も違ってくるだろう。時代が違った結果、英雄と犯罪者が紙一重になるということにもうなずける。
 Facebookがもとはハーバード大学の限定SNSで、1週間足らずで学生の半数が登録したというのも、世代が限定されていたというところがミソではないだろうか。もし初めから不特定多数に向けてサービスを開始していたら、「1週間でハーバードの学生の半数」というインパクトは生まれなかったし、広がるスピードも緩やかだったのではと思う。

ネットで炎上してからアカウントを削除しても後の祭り

 現代は「共有」「共感」「共変」の「三共」に支配されている時代だ。このうち「共変」については、少し説明が必要だろう。ここでいう共変とは、理系の方々なら頭に思い浮かべたかもしれない、ベクトルの共変性とは異なる。社会心理学で用いられる「共変原理」で、物事が起こった時にその原因として人が納得する(帰属といいます)に至る心の有り様を説明するために、ジョージ・ケリーというおっさんが用いた屁理屈のこと。

 「行為の効果が生じた原因は、その効果が生じたときに存在し、生じなかったときには存在しない」

 つまり、一部の出版社が得意な「超訳」をするなら、

 「ネットで炎上してからアカウントを削除しても後の祭り」

 ということだ。
 分かりやすく言うと、ネットという広い砂漠における、炎上という効果によって一粒の砂として存在を特定されなければ、砂漠そのものであることを続けられたのにね、ということ。でも、背後には必ず火付け役と、うちわを持って扇ぐ人間がいる。そいつらは砂の中にうまく隠れるサソリのような存在だ。おのれのうちにある毒を注入する機会を、手ぐすね引いて待っている。
 話はそれにそれている。それているついでに、もう一つ角を曲がってしまおう。違う道を走って来た同世代ランナーと、出くわすかもしれないという期待を込めて。

安易な「いいね」≒言い値≒井伊ね=「どうでもいいね」

 ネットが情報革命といわれる所以は、情報のスピードがケタ違いに上がったことだ。それに伴い「共有」と「共感」にも反射即応が求められる。決断はつねに重責を伴う。自分の決定が組織に一定の影響を及ぼすというのなら、判断には時間をかけるべきだ。だが、決断にもスピードが求められるようになり、そういった決断の重責から解放されたいという反動なのか、「安易な共感」が精神安定剤代わりとして巷にあふれているのではないか。
 例えば「いいね」や「リツイート」を押そうと指を伸ばした、その先のことを考えているだろうか。同意した主張や事柄について、より踏み込んで考えることに意識的でいないと、自分の考えももたないまま相手の主張に引きずられ、自分も賢くなった気になって思考を停止させる。
 「今日のランチはガパオライスだよ」
 「いいね」
 「癒されにエ○ザイルのライブに行っちゃいました」
 「い、いいね」
 「どうしても欲しくって、いくらでも払うって言って譲ってもらったんです」
 「言い値」
 「今日も赤備えで出兵しちゃいます!」
 「井伊ね」
 僕は、写真がUPされていてもガパオライスを選んだ理由の説明を求めたいし、エ○ザイルのライブで癒されるメカニズムを知りたい。天然ボケにも、明らかなボケにもいちいち反応する大人でありたい。
 明治時代から昭和20年まで用いられたエリートと非エリートの分化は、形を変えて存在する。知識や影響を与える側と、それらを享受する側の存在。速度にばかり気がいって「共有」と「共感」をむやみにまき散らす存在となってしまってはいないだろうか。
 SNSが上記の分化の流れを作りだし、「いいね」に与えられた言葉の幅が拍車をかけた。それをもってザッカバーグを貶めるつもりは勿論ない。他方で、情報を個人が世界に向けて発信できるようになった功績は度し難いものである。ただ「いいね」には重さがない。安易な「いいね=どうでもいいね」と自覚して欲しい。相手が主張するに至った過程に、もっと目を向けて欲しいと思うのだ。

立ち止まって考える、納得いく答えが出るまで

 スマホによって、手のひらの中で人間関係が完結するようになった。血の通わない人間関係では、表情や心の機微は顔を突き合わせているわけではないので、その場その場でいかようにでも取り繕える。だからスマホ画面の向こう側に存在する貧困、そのあえいでる様子は画面からは全くもって立ち上がってはこないだろう。
 話はそれていなかったようだ。
 子どもの貧困に限らず、立ち止まり考える機会を得て欲しいなと思う。「いいね」「リツイート」減少キャンペーン、ついでに「よくないね=炎上」も減少キャンペーン。僕は、子どもの貧困について考えた結果、すべての子どもに対してキューバ並みの、国による手厚い保護が何にもまして最優先になされるべきであると考える。各世代の人生のマラソンのスタートは平等であるべきだと思うから。え、財政? そんなもん、バブル世代の年金から出しておけ。「僕は」そう考える。「いいね」も「リツイート」もいらない。
 もちろんそれらを考えるに至ったきっかけは、冒頭で挙げた本を著すような人(時代のもたらす社会のひずみにいち早く気づいた敏感なオピニオンリーダー)たちが、問題を提起してくれるからこそ、僕のような人間にも伝わる。その結果、特定の世代から批判されるような考えを持つにいたるということも、ままある。僕は批判されるべきであり、批判という装置によってもたらされる効果が、新たな原因を表出させるだろう。

 紙幅が尽きた。本当は尽きてはいないけれど。「人間にとって小説とは何か」ということは、納得できる答えが出てから、また次の機会にでも。

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