資本主義の〈その先〉に

第20回 資本主義的主体 part9

8 事前と事後

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行動的禁欲

 ヴェーバーによれば、プロテスタンティズム、とりわけカルヴァン派の予定説は、ある種の禁欲を可能にし、それが資本主義の精神へとつながった。だが、ここで疑問がもたれるだろう。禁欲を命じたり、あるいは好ましいとすることは、何も、キリスト教のプロテスタンティズムに限られた特徴ではあるまい。禁欲に高い価値をおく宗教はほかにもたくさんある。プロテスタントのそれは、何が特別なのか。たとえば、仏教の出家者も多くの戒律を与えられ、禁欲を求められる。釈尊は極端な苦行を無意味だとしたが、それでも、厳しい修行、苦行に勤しむ僧は多く、その禁欲の程度はすさまじい。こうした禁欲と、プロテスタンティズムの禁欲には何か違いがあるのか。

 ヴェーバーは、プロテスタントの禁欲を特徴づけるために、しばしば、「行動的」という形容詞を用いている。「aktive Askese(行動的禁欲)」と。この形容詞は、禁欲に対してとりわけ熱心だというような趣旨の、内容のない強調を意味しているわけではない。次のように考えるとよい。誰にも日常の生活がある。労働したり、食事をしたり、友人と交流したり、家族と過ごしたり、またセックスしたりする。仏教の禁欲は、この日常の生活を否定するところに目的がある。まるで日常の生活のそれとは異なる時間があり、つまり並行世界や(現実以外の)可能世界のようなものがあり、そこへと向かうための処方として禁欲があるかのようである。

 プロテスタントの禁欲は、これとは違う。その禁欲は、日常の生活の時間とともにある。それは、日常の生活過程の時間のすべてを支配する禁欲であり、労働や食事や社交や家族生活や性生活とともにあり、それらを律し、その意味ではそれらを肯定する禁欲である。「行動的」という形容詞は、プロテスタントの禁欲のこうした特徴を指し示している。

 ここで、かつて述べたこと、つまりプロテスタントの禁欲は、世俗生活の否定の否定だということを(第17回参照)、思い起こしてほしい。カトリックの修道院生活は、仏教の出家に似て、世俗の時間を否定している。が、それは、仏教の出家者の共同体(サンガ)とは違い、日常と別種の時間の中にはいることを目指しているのではなく、修道院にもう一つの日常の時間を、労働を含むもう一つの日常の時間を形成する。この修道院の生活を、本来の日常の方にとりもどし、日常の時間の中に浸透させれば、行動的禁欲が得られる。

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 ここで問うべきは、どうして、プロテスタントにおいて、このようなタイプの禁欲が生まれたのかである。その理由は、前回の考察が与えてくれる。もう一度、あのゲーム、ニューカムのパラドクスをもたらすあのゲームをふりかえってみよう。このゲームの最大の工夫は、予見者Vの導入にあった。予見者Vがいると言われると、たいていの人は、このゲームの出発点において謎として提示される、暗箱Bの中身(0円か10億円か)が予見の対象ではないかと考えたくなるが、そうではなかった。予見者Vが、中身を自分で決めるのだから。彼が予見するのは、行為主体であるあなたの選択(H1H2)である。ただし、この行為についての予見(予想)と箱Bの中身の決定との間には、相関関係がある。

 予見者Vが神に対応する。プロテスタント(カルヴァン派)とは、予見者Vの予見が的中するように行動する者のことである。では、信者は、予見者=神Vが何を予見しているかを知っているのか。もちろん、知らない。にもかかわらず、彼または彼女は、あたかもそれを知っているかのように丶丶丶丶丶ふるまうのだ。

 どのように知っているのか。信者はまず、最後の審判において、自分が救済される側に属している、と仮定するのだった(自分が呪われ、地獄に行くことになっていると仮定して、なお信仰を維持することができるだろうか)。ゲームでは、このような仮定をおけば、自動的に、予見者Vの予見の内容が決定され、行為主体(あなた)=信者の選択肢も決まる。救済とは、箱B10億円が入っていることなのだから、予見者Vは、行為主体の選択肢としてH1を予見していたことになり、それゆえ、あなたは、その予見が当たっていたことになるように、実際にH1を選択するのだ。

 では、現実においては、H1H2かという選択に対応することは何か。もちろん、それは、信者の人生そのものである。神は、あなたの人生の最初から最後まで、その過程のすべてを予見――というか予定――している。神は、その予見(予定)しているあなたの人生との関係で、(神の観点から見て)あなたにふさわしい判決をくだしているはずだ(神の国か地獄か)。あなたは、神の予見(予定)が成り立つように行動する。結局、それは、行動的禁欲という形態をとらざるをえない。神は、あなたの人生の中の一部を予見しているわけではなく――たとえばあなたが教会に財産を寄進するかどうかとか、教会に毎週通うかどうかとかだけを予見しているわけではなく――人生の全過程を予見しているからである。

 したがって、別の角度から見れば、次のようになるはずだ。到達されるべき究極の結果=目標がある。それは、宗教的な救済である。その結果=目標が実現するように、生活の細部までをも点検し、あらゆる情熱とエネルギーを傾ける。毎週教会に通っているから大丈夫だろう、贖宥状を買ったから大丈夫だろう、ということには絶対にならない。生活のすべてが、最終的な結果=目標の実現に適合的なものになるように、無意味なことは排され、余分な欲望を禁じられる。つまりは、行動的禁欲である。

 

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