人生につける薬

第11回 
自分の感情の赴くままに行動することは「自由」か?

物語は小説だけじゃない。私たちの周りにある、生きるために必要なもの。物語とは何だろうか?

ストーリー的苦境から脱する第一歩とは?

「自分は環境を変えるべきである」(must)という不適切な信念(一般論)

 人間は他の動物と違って、目的を持って自分の環境を変えてきました。

 そのせいかどうかはわかりませんが、「自分は自分の意思に従って環境を変えることができるし、そうするべきである」(must)という一般論に、しばしばとらわれてしまいます。

 いわば「コントロール幻想」です。

 「させる」という使役表現や、命令形という動詞の使いかたは、こういった人間の「コントロール幻想」という不適切な信念と関係があります。

 地震は困るので、起こらないようにさせたい。日照りも困るので、雨を降らせたい。
 あいつの発言は不愉快なので、黙らせたい。
 夫婦(恋人)なのだから、自分の気持を、説明しないでもわかってくれるべきだ。
 自分の子どもなのだから、こうなってほしい、いや、なるべきだ。

 こういった思考は、コントロール幻想そのものです。自然現象や他人をコントロール可能な対象とみなしています。勝手に。
 「自分には環境・他者を変える力がある」
 と思いこむ「コントロール幻想」は、
 「できごとには原因がある」
 と思いこむ「因果関係の落としこみ」と同様に、進化の過程で人類が生き延びてくるうえで大いに役に立ったことと思います。

 しかしじっさいには、そういったものは、いつでもコントロールできるとは限らない。

 その当たり前のことが明らかになっただけで、人はネガティヴな反応を示してしまいます。

 人間にはコントロールできる対象とできない対象があります。同じ対象でも、コントロールできるときとできないときがあります。

 たとえ対象が自分が望んだとおりの行動をしたとしても、それはただの偶然か、その対象自体の自発的行動の結果であって、こちらのコントロールの結果ではない、というのがほんとうのところではないでしょうか。

 第2回の、雨乞いのなぞなぞのことを思い出してください。村人は雨乞いの儀式によって雨を降らせた(コントロールした)と信じていますが、はたで見ている僕たちは、雨が降ったのは自然現象であって、雨乞いの結果ではないと考えます。

 たいていのばあい、人間は本来コントロールできる範囲を超えたところまで、自分でコントロールできるはずだと思ってしまっている。

 そうすると、コントロールしようという試みが失敗することが多くなります。

 ストーリー的に言えば、多くのものをコントロールしようとすればするほど、「うまくいかないできごと」(不満の種)の数が増す、ということになるわけです。

 

感情行為直結説と行為選択可能説のストーリー

 emotion(情動)とは、「精神を揺り動かすもの」であり、passion(情念)とは、「受け身」(精神が衝撃を受けること)です。

 passionの形容詞はpassive(受動的な)です。passive modeといえば文法の受動態。

 このように、感情というものは、「私」を外から揺り動かすもの、「私」はそれを「受け身」で体験する存在、というふうにとらえられる傾向があります。

 passive modeの反対はactive mode(能動態)。active(能動的な)の名詞はaction(行動)ですね。

 行動は「自分でやる」ことであり、その反対に、感情は「受ける」もの=自分では選択しようがないもの、というわけです。

 前回
 〈かっとなって刺した〉
 〈かっとなって咄嗟に本件犯行に及んだ〉
 〈かっとなって手を出してしまった〉
 といったストーリー表現を取り上げましたね。
 自分の感情の赴くままに行動した結果、暴力に発展してしまうケースはよくあります。

 そのとき僕はこう書きました。
・〈かっとなって〉の部分は心理的結果
・〈刺した〉〈本件犯行に及んだ〉〈手を出してしまった〉の部分は物理的結果

 このばあいの「物理的結果」は「身体的行為」です(「身体的」・「物理的」、どちらも英語ではphysicalです)。

 〈かっとなって〉という感情(身体が受けたもの)によって、行為が、意志の選択の余地なく、暴力として発動してしまっています。

 これでは、行為(能動的なaction)までもが受け身(受動的なpassion)になってしまっているではありませんか。

 このように、「自分の感情の赴くままに行動する」「感情の反応が行為を決定してしまう」という筋書きを、「感情行為直結説」のストーリーと呼びましょう。

 でもこのストーリー、ほんとうのことでしょうか?

 これとはまったく逆の考えかたも、古来あるのです。

 それを、「行為選択可能説」のストーリーと呼びましょう。

 

ストーリー的な苦境から脱するための智慧

 さきほど、
 〈人間は本来コントロールできる範囲を超えたところまで、自分でコントロールできるはずだと思ってしまっている〉
 と書きましたが、ここにひとつ、例外があります。

 ときとして人間は、ただひとつコントロールできるはずのものを、コントロールできないと勘違いしてしまっていることがあるのです。

 ただひとつコントロールできる(可能性がある)もの、それは自分の選択です。

 他人が僕に親切にするかどうかはコントロールできませんが、僕が他人に親切にするかどうかは自分で選択できるのです。

 

ストア派哲学における「行為選択可能説」

 〈人々を不安にするものは事柄ではなくして、事柄に関する考えである〉(エピクテトス「提要」5、鹿野治助訳)

 ストーリー的因果関係に感情が支配される仕組を、ひとことで言うとこうなります。

 そして、〈事柄〉は自分の管轄外だけれど、〈事柄に関する考え〉は自分の管轄内ですから、後者のほうは制御可能であり、そこさえ制御してしまえば、〈不安〉のない状態で〈事柄〉に対処することができます。

 不安というネガティヴ感情に流されるということは、事態に冷静に対処しないということですから、それで対処がうまくいく確率が高くはなりませんよね。

 

アラン『幸福論』における「行為選択可能説」

 〈小雨が降ってくる。表にいる。傘を広げる。それだけでいい。「また雨か、厭だな!」とか言ったところで、なにかマシなことがあるだろうか。雨滴にも雲にも風にも、なんの影響も与えない〉(アラン『幸福論』第63プロポ[1907]、拙訳)

 外出時の雨は、ときとして厄介です。だからついついストーリー的には、
 「雨だから不快だ」
 となってしまいがちです。けれど、それをいちいち不快がっていたのでは、「雨」プラス「不快」というふたつの厄介ごとを抱えこんでしまいます。雨を自力で止めることはできませんが、不快がる感情を自力で手放すことはできます(なお、それはけっして「我慢」「辛抱」「抑圧」することではありませんが、どう違うのかについてはこの連載の射程を超えるので書きません)。

 

南伝仏教における「行為選択可能説」

 南伝仏教の『相応部経典』7-2「讒謗」、漢訳『雑阿含経』42-8〜9「卑嶷・瞋罵」では、「讒謗」(ざんぼう)という渾名のバーラドヴァージャ姓のバラモンが、同じ姓のバラモンのひとりがゴータマ・ブッダのもとで出家したことを知って(いわば宗旨替えです)怒り、ブッダのもとにどなりこんでくる場面があります。

 批難され怒りを浴びせられたブッダは、しかし自身が怒りでリアクションすることはありません。

 そのときのブッダの合理的でクールな返答は、増谷文雄訳『阿含経典』(ちくま学芸文庫)第2巻のなかの「婆羅門相応」第2篇で読めますが、ここでは小池龍之介さん編訳の『超訳 ブッダの言葉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)第1章第6篇でご紹介しましょう。

 〈君が友人・知人をディナーに招待して、手によりをかけた料理でもてなそうとしたと想像してみよう。
 けれどもあいにく、かれらには用事があり、すぐにそそくさと帰ってしまった。
 すると君のお家のテーブルには、手つかずのまま皿に盛られた料理がどっさり残り、誰もいなくなったあとで、君はたった独りで寂しくそれらを食べるはめになるだろう。
 ちょうどそのように、誰かが君に怒りをぶつけて攻撃してきたとするなら、それは相手が君を、怒りという毒を盛った料理のディナーに招待しているようなもの。
 もしも君が冷静さを保ち、怒らずにすむなら、怒りという名の手料理を受け取らずに帰れるだろう。
 すると怒っている人の心には、君に受け取ってもらえなかった毒料理が手つかずのまま、どっさり残る。
 その人はたった独りで怒りの毒料理を食べて、自滅してくれるだろう〉

 

自分が自分の主人であるために

 自由意志と行動の問題は、古くはキリスト教神学、近代では倫理学や実存主義哲学、近年では神経法学(行動の法的側面にかかわる脳科学)で問題とされてきました。

 果たして人間は、ほんとうの意味で「自由」に行動することができるのか?

 というか、そもそも「ほんとうの自由」というとき、どういう意味で〈ほんとう〉なのか?

 こういった問いは、各分野の専門家にお任せしておきましょう。

 少なくとも、以下のことは言えます。

 「自分の感情の赴くままに行動すること」は、選択がないので「不自由」だということです。

 酒井順子さんに『食欲の奴隷』という本がありましたが、そういう意味で言えば、自分の感情の赴くままに行動する(たとえば、かっとなってなにかしてしまう)のは、感情の奴隷です。

 〈自己こそ自分の主〔あるじ〕である。〔……〕自己をよくととのえたならば、得難き主を得る〉(『ダンマパダ』160、中村元訳)
 〈自分自身の主たり得ぬ者は何人も自由ではない〉(エピクテトス「断片」35、鹿野治助訳)

 ブッダとエピクテトスとがこういったよく似た表現で述べているとおり、自分のストーリーの主語を他者(たとえば「あの人は(世の中は)わかってくれない」)ではなく、一人称単数(「僕はこうする」)にすることが、ストーリー的な苦境から脱する第一歩なのでしょう。