ブラッドランド

声を排して数値が優先される時代に

声を排して数値が優先される時代に

 市井の声の集積が数値として示され、その双方を引き受けて、政治の方向が指し示される。しかしながら、声を薄めて、数値ばかりに力を与えると、やがて市井と政治に断絶が生じる。数値を得たことを自信として蓄えすぎる宰相が、「選挙で信任されたのだから」や「私が総理大臣なんですから」と連呼して、市井の声を塞き止めている現在。同時に、あらゆる現象を数値で把握する風土に慣れすぎてしまった私たちの多くは、この状態をなんだかんだで甘受している。
 本書の著者は「犠牲者の数だけを取りあげると、ひとりひとりの個別性を意識する感性が鈍くなる」と書く。ナチスとソ連の政権がわずか十数年の間に1400万人もの命を強奪した「流血地帯(ブラッドランド)」。ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、ロシア西部で起きた虐殺の仔細を追う本書は時折、なにもかもが「ホロコースト」というキーワードに集約されることを警戒する。悲劇が単一化することで、悲劇の史実が区画整理されてしまう危惧が、長大な一冊に通底している。
 ヒトラーは「戦争とは意志力の戦いだ」と言った。その勇ましい言葉は、個人から意志を剥奪する手法がいかに有効だったかを改めて伝える。ワルシャワ・ゲットーでの作戦が開始されると、まずは飢えに苦しんでいた者を消し、次に孤児、貧者、ホームレス、囚人を消した。幼児、病人、障害者、高齢者もまた、直ちに抹殺された。労働者として辛くも生き長らえた者たちには、「結集して抵抗しようという気持ち」を萎えさせるためにあらゆる選別を行ない、個々を孤立させた。「希望の個人化は共同体にとっては悲劇」なのだ。
 ホロコーストを問う9時間半にもおよぶドキュメンタリー『SHOAH ショア』を撮った映画監督クロード・ランズマンは、ホロコーストについて「どんな神話の場合にも起こることだが、ますます大勢の強靭な批判精神の持ち主たちが、『結局のところ、はたしてあのことは存在したのか』という疑問を提出するに至る」と述べている。歴史を直視するのではなく、いたずらに舐め回す限りにおいて、あれは事実だったのだろうか、という査定がいつしか顔を出し始める。そこで真っ先に修正させられるのは数値だ。ひとつの定説となった数値を疑う働きかけは、史実をまるごと疑う流れを呼び込む。昨年の「吉田証言」報道のように、1つの証言が崩されると、その数値をゼロにするかのような言質が溢れる。
 今年、「明治日本の産業革命遺産」が世界文化遺産登録に相応しいかどうかが議論されている最中、ユネスコの日本代表が、1940年代にいくつかの施設で「意思に反して連れてこられ、厳しい環境の下で働かされた(forced to work under harsh conditions)」と述べた。朝鮮人労働者が強制的に働かされていた事実を「forced to work」という言葉を使って示したわけだが、この発言を受けて岸田文雄外相は、「『forced to work』との表現等は、『強制労働』を意味するものではない」と国内向けに声明を出した。英語力ではなく、外交力として、かなり珍奇に思える。被害と加害の問題は、対する相手に応じて適当に切り替えながら乗り越えられるものではない。しかし、このところの日本の中枢は、独自に切り替えてゴリ押ししてくる癖を持つ。
「スターリンもヒトラーも、政治家生命を全うするまで一貫して自分は被害者だと主張し続けた」という。数値を隠ぺいし、意志だけで自らを正統化させたのだ。本書は大虐殺の変遷を緻密に記しているが、読み手の心象に入り込んでくるのは、おぞましき大虐殺の数値ではなく、時折挟み込まれる意志を持った声である。ウクライナの子供たちがこう歌っていたという。
「スターリンお父さん、見てください/集団農場は天国です/小屋は崩れ、納屋はどれも傾いて/(中略)/牛も豚も残っていない/あるのは、壁に飾ったあなたの写真だけ」。歌は、「ある父親は自分の子を食べてしまいました/共産党員はぼくらを殴って蹴って/シベリアの収容所へ送ります」と続く。ある小学校では共産党幹部に手紙を書き、「助けてください。ぼくたちは飢えで倒れそうです」と訴えたが、上層部はこの手の声を揉み消した。揉み消し、意志を単一化させ、行動を一本化させた。
 宰相の鼻にちょびヒゲを書き込んだり、アベドルフ・ヒットラーと茶化したりするのが痛快とも効果的とも思わないが、先日の国会前デモでは、彼をヒットラーに準える人達が多くいた。確かな危機感が立ちこめている。なにせ麻生太郎副総理は「ナチス政権下のドイツでは、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わってナチス憲法(全権委任法)に変わっていたんですよ。あの手口、学んだらどうかね」とまで発言しているのだから。
 安保法制について、「今こそ、国民の声を聞いて欲しい」との訴えを、政府は「そのうち理解してくれる」と遮った。押し切れるのは、声を無視して、数にすがったからに他ならない。多数決が暴走しない為に法規がある。そして個人の言葉もまた暴走を食い止める。でも今は声を排して数値が優先される。『ブラッドランド』が示すのは、個人が言葉を失っていくプロセスである。自分の言葉が溶かされ、薄まり、やがては行動が収奪されていく歴史だ。
 歴史は常に現在を照射する。「一億総活躍社会」と銘打たれてしまった今現在の心地悪さの正体を探しながら、この苦い歴史に諭されるように大著を堪能した。

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