piece of resistance

6 犬

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 さらさらと秋の陽が注いでいる。歩美が尻に敷いたハンカチがめくれあがるたび、足元のルイは鼻をひくつかせ、「呼んだ?」とでもいうように風上を見やる。若犬の好奇心につやめく瞳。里親会がはじまった二時間前からずっと、となりのマロンにじゃれついたり、とんぼを追いかけたりと忙しい。
「わんちゃん、まだ若いんですか」
 ふいに頭上から声がし、日傘をさした品のいい婦人がルイの前で膝を折った。
「生後四ヶ月の犬です。まだ子犬ですね」
「じゃあ、まだまだ遊びたいざかり? 留守番の多い家じゃ、むずかしいかしらね」
「うーん。そうかもしれませんね」
「もう少し、落ちついたわんちゃんのほうがいいかしら」
「ええ、あっちに、成犬もたくさん来てますよ」
 指で示した先へと向かう婦人の背中に、良縁を待ちくたびれている十三歳の秋田犬をぜひにと、歩美は願のこもったまなざしを送る。
  捨て犬を保護して新しい飼い主を探す。歩美がこの活動を始めてはや十年が過ぎる。かつては複数の犬を抱えてがむしゃらにやっていた時期もあったが、それでは経済的にも体力的にも持たないと悟り、近頃は一度に一頭ずつ、無理のない範囲で続けている。
 月に二度、河川敷で催す里親会で出会いに恵まれなくても、焦らずに次を待てるようになった。

「わんちゃん、かわいいですね」
 続いてルイに目をとめたのは、五、六歳の女の子を連れた母親だった。
「このわんちゃん、柴犬かしら」
「いいえ、雑種です。生後四ヶ月の子犬です」
「男の子?」
「はい、雄です。物怖じしないタイプですよ」
 人間を見れば尾を振って甘えるルイは、里親希望者からのウケがいい有利な性格だ。が、そのぶん、なんの変哲もない茶色い雑種という不利も背負っている。
「ママ、あたし、こっちのほうがいい」
 歩美と母親が話をしているあいだ、横のマロンをじっと見ていた女の子が言った。
「この子のほうがかわいい」
 マロンは四歳になる栗毛色のミニチュアダックスフント。胴長の愛らしいルックスと、底抜けに明るい社交性を備えている。
「だめよ、そんな失礼を言っちゃ」
 ルイを気遣いながらも、母親の視線もまたマロンへ移っている。どうぞ、というふうに歩美がほほえんで見せると、バツが悪そうにルイを離れ、マロンの前へ移動した。
 昔ならばこんなことにも傷ついていたかもしれないが、今の歩美はなんとも思わない。
 ルイでもいい。マロンでも、ほかの犬でもいい。幸せをつかむ犬がいればいい。
 今回の会にはしめて十五頭が縁を求めて参加していた。保護主の注意のもとで彼らは皆おとなしくしているが、やはりそこには一種独特の「群れ」の匂いが籠もっている。河川敷を行き交う中には興味を示して寄ってくる人もいれば、露骨に避けていく人もいる。時には「行政の許可を取っているのか」と詰めよられることも、「助けるべきは犬よりシリア難民だろう」と怒声を浴びることもある。どんな言葉も歩美は黙って聞いている。
 何であれ、長く続けていれば大方のことが受け入れ可能になっていく。年月は諦念という良性の垢を人間に贈ってくれる。
 ただし、そんな歩美にも、いまだ受け入れがたいものがあった。

「あらあら、かわいいわんちゃんねえ」
 今度の声は少々枯れていた。全身に貴金属を光らせた老婦人がルイの顔を覗きこむ。
「このわんちゃん、おいくつ?」
「生後四ヶ月の子犬です」
「もっと大きくなるのかしら」
「雑種なので読めないんですけど、せいぜい十二、三キロ止まりじゃないかと」
「うちのマンション、わんちゃんは十キロまでって制限があるのよね」
「でしたら、もっと小柄な犬のほうが……」
「でも愛嬌あるじゃない、このわんちゃん」
「ええ、とっても気質のいい犬ですけど、大きくならない保証はありませんので」
「こういうね、普通の、いかにもわんちゃんっていうわんちゃんが好きなのよ、私」
「たしかに、犬の中の犬というか、いかにも犬な犬ですけど、体重制限を考えると……」
 粘った末にルイをあきらめた老婦人が去ると、となりで聞いていたマロンの保護主、志保が日に焼けた顔をにやつかせた。
「歩美も、かたくなだねえ」
 気づかれたか、と歩美は頬を赤らめた。
「気を遣ってくれてるのはわかるんだけど、私、どうしても苦手なの、わんちゃんって呼び方。人間は『人』で間に合っているんだから、犬も『犬』で十分じゃない?」
 過ぎゆく時がいかなる諦念をもたらそうとも、つまらないこだわりだけは意外と最後まで手放せない。気恥ずかしさを隠すように、歩美は眠たげなルイの背をなでた。秋の陽を溜めた毛に指先がぬくもる。ウォンウォンとはしゃぐ犬たちの声が水色の空に溶けていく。

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