はじめての哲学的思考

第11回 生きづらさを乗り越える

 前回は、哲学的思考の最大の“奥義”「欲望相関性の原理」を応用して、どうすれば信念の対立を克服することができるのか、その考え方の筋道をご紹介した。
 今回は、この原理を応用して、前回とはがらりとちがったもうひとつの問題について考えてみよう。
 僕たちはどうすれば、“生きづらさ”や“不幸”“絶望”などの、いわゆる実存的問題を乗り越えることができるのか?
「欲望相関性の原理」は、この問題にもまた絶大な威力を発揮するのだ。

欲望を知ることで、自分と折り合う

 世界は欲望の色を帯びている。ということは、つまり僕たちの生きづらさや不安、怒りなんかも、その理由の根本には、僕たちの何らかの欲望があるということだ。

 たとえば、僕にひどく嫌いな人がいたとしてみよう。その人のことを思うと、夜も眠れないくらい憎々しい気持ちになる。そうして何だか、自分がすり減っていくような気さえしてしまう。
 そんな時、僕たちは往々にして、その人は“客観的”に人間としての問題がある奴なんだと考えてしまうことがある。そうしてその“客観的”な理由を、あれこれ見つけ出そうとしてしまう。
 でも、これまで繰り返し言ってきたように、“客観的”な悪人なんていない。別の人からみれば、その人は思いやりのあるやさしい人かもしれないのだ。
 僕がその人をイヤな奴だと“確信”している理由は、本当は僕の内側にある。僕の何らかの“欲望”が、その人を悪人だと確信させているのだ。
 その“欲望”に目を閉ざしたまま、あるはずのない相手の客観的な問題を見つけ出そうとしているかぎり、僕は結局、やり場のない憤りや不安や焦燥感にさいなまれつづけることになるだろう。
 だから僕たちは、そんな時、自分の奥底の欲望に思いをいたしてみる必要がある。

 もしかしたら、僕は本当はその人みたいになりたいのかもしれない。才能があって、お金もあって、みんなの人気者で……そんなあの人に、ルサンチマン(妬み・そねみ)を抱いているのかもしれない。
 と、もしそんなふうに自分の欲望に思いいたったとすれば、それだけで、僕たちはやり場のない怒りや不安とちょっとは折り合いをつけられるようになる。自分の感情の正体を知れば、それを制御することも可能になるのだ。
 たとえば、その人とできるだけ距離をとって、自分のルサンチマンを発動させないようにすることだってできるかもしれない。あるいは、むしろこれを、自分の成長のためのいい刺激にしてしまうことだってできるかもしれない。

 欲望を知ることで、自分と折り合う。これが、さまざまな実存的な悩みや生きづらさを克服するための、「欲望相関性の原理」のひとつの応用の仕方なのだ。

欲望を変える

 その「折り合いのつけ方」のひとつを、18世紀の哲学者ジャン=ジャック・ルソーの洞察から想を得て、以下にちょっとご紹介してみたい。
 よく言う話なのだけど、ルソーはその著書『エミール』の中で、不幸の本質を次のように言い表している。すなわち、「不幸とは欲望と能力のギャップである」。
 とてもすぐれた洞察だと思う。
 この連載の第1回でも言ったように、哲学は、物事の、あるいは問題の“本質”を洞察することで、その問題を力強く解決するための“考え方”(原理)を提示する営みだ。
 ルソーは不幸の“本質”を洞察した。とすれば僕たちは、この“本質”を手がかりに、不幸から抜け出すための方法もまた考えていけるようになる。

 お金持ちになりたい。でも、どうがんばってもその見込みはない。
 あの人に愛されたい。たまらなく愛されたい。でも、どうしても振り向いてくれない。
 不幸や絶望は、そんな激しい欲望が叶わないところにやってくる。
 そんな時、僕たちはいったいどうすればいいのだろうか?
 不幸の本質が欲望と能力のギャップにあるのだとすれば、この不幸から逃れるための道は原理的に3つある。
 1つは、言うまでもなく「能力を上げる」こと。努力に努力を重ねて、お金持ちになる能力を身につける。愛される能力を身につける。それが一番望ましい道だろう。
 でも、それは口で言うほど簡単なことじゃない。
 そこで2つ目の道は、「欲望を下げる」こととなる。そんなに望ましいことではないかもしれないけど、欲望と能力のギャップがなくなれば、ひとまず不幸からは逃れることができる。
 そして最後に、もしかしたらこれこそが、不幸から逃れるための一番役に立つ考え方なんじゃないかという道がある。

 「欲望を変える」という道がそれだ。

 お金持ちへの欲望を、たとえば家族といっしょにすごす欲望へと変える。
 愛してやまない人を、どこか心の奥にしまって、また別の人を見つける。
 もちろん、それはひどくむずかしいことだ。でも、実は人間は、どんなに激しい欲望でも、意外に簡単に変えてしまうことができるものなのだ。
 僕自身、10代の頃は「ミュージシャンか、しからずんば死を」みたいなことを言うくらい音楽に入れ込んでいたのだけど、結局もちろん挫折して、ひどいウツに陥ったことがあった。
 でも、その後哲学に出会って、かつてのそんな欲望はすっかり変わってしまった。もし今も音楽への欲望を捨て切れずにいたら、僕はずっと絶望の淵をさまよい続けていたことだろう。
 この話が第5回で紹介した「一般化のワナ」に陥っていないことを願うけど、だから僕は、今こんなことを強く感じている。
 欲望は変わる、これは僕たち人間の希望なのだ、と。

 もちろん僕は、いついかなる時も欲望を変えよと言っているわけじゃない。苦しくて苦しくて仕方がない時、僕たちには「欲望を変える」という選択肢もあると言っているだけだ。
 欲望の泥沼にはまったままもがきつづけるのは、ひどく苦しい。でも僕たちには、それまでの欲望とはまた別の欲望を豊かに生きる道だってあるのだ。
 このことを自覚しているだけで、人生との向き合い方はきっと格段にちがってくるはずだ(以上の話は、拙著『子どもの頃から哲学者――世界一おもしろい、哲学を使った「絶望からの脱出」!』にもくわしく書いた。参考にしていただけると幸いだ)。

欲望が分からない

 さて、ところが現代の僕たちには、近代人ルソーには思いもつかなかったもうひとつの不幸の本質がある。
 自分の欲望が、そもそも何なのかが分からないという苦しみだ。
 フランス革命前夜のルソーの時代、人びとは、絶対王政の社会の中で「自由に生きられない苦しみ」にもがいていた。
 ひるがえって今、政治的自由や生き方の自由なんかを一応は手に入れた現代の僕たちは、むしろ「やりたいことが分からない」苦しみにもがいている。何をやろうがあなたの自由だ、どう生きたってかまわない、そう言われれば言われるほど、自分がどう生きれば幸せなのか分からない、そんな不幸を僕たちは抱えることになったのだ。

 世界は欲望の色を帯びている。だから、もし僕たちが欲望をほとんど持たなかったなら、世界からは彩りが失われてしまう。
 好きな人ができた時、僕たちの世界は彩り豊かに華やぎ出す。本好きの人にとって、書店は胸躍らせる宝の山だ。起業家の目には、周囲の人も、最新テクノロジーも、時事問題も、あらゆることが何かのチャンスのように映っているにちがいない。
 でも、好きな人も、好きなことも、やりたいことも、何もなかったとしたら……。本屋はただの紙束置き場、周囲の人はしゃべる人形、といったくらいにしか、僕たちが思うことはないだろう。
 もっとも、そんな色のない世界が大して苦しいことじゃなかったら、それは何の問題でもないだろう。むしろ仏教が説くように、過度の欲望を抑え、世界から彩りを消し去り“空(くう)”の世界に生きるのは、高度な悟りの境地と言えなくもない。
 でも、前述したように、もしも自分の欲望が分からないことが苦しいことであるならば、僕たちはやっぱり、何らかの仕方で欲望を見つけ出し、世界に彩りを与える必要がある。

欲望を見つける

 そんな時、僕は学生たちなんかに、次の2つの方法をアドバイスすることがある。
 1つは、価値観や感受性を刺激するものにたくさん触れること、そしてその経験を、人と交換し合うことだ。
 映画や小説、音楽など、自分の価値観や感受性を刺激するものに触れて、自分はどんな作品に心動かされるんだろうということを見つめてみる。そしてそれを、人と交換し合う。
 そうすることで、僕たちは、自分はいったいどういう人間で、何を求め、どのように生きたいと思っているのかが、徐々に分かってくることがある。人とはちょっとちがう感受性に気づいたり、どんな人と共感し合えるのかを知ったりする。
 迂遠な道のりのように思えるかもしれない。でも長い目で見れば、こうした経験を重ねることで、僕たちは自分の欲望を見つめ、これを育てていくことができるはずなのだ。

 一方、何を見ても聞いても、心が動かされないということが時にある。映画も音楽も、全然心に響かない。そんな時も、人生にはしばしば訪れる。
 ひどいウツに陥った時とか、失恋した時とか、大きな夢が崩れ去った時なんかがそうだ。
 そんな時、僕たちの欲望はすべて砕け散り、世界はのっぺらぼうのように味気のないものになる。
 前に何度か、僕たちは「事実の世界」を生きている前に「意味の世界」をこそ生きているというお話をした(第3回)。
 ウツや失恋や挫折においては、この「意味の世界」が壊れ去ってしまうのだ。

 そんな時に僕が推奨しているのは、「キッチン掃除メソッド」と呼んでいるものだ。
 とりあえず、キッチン(トイレなんかでもよい)を掃除してみる。するとそこには、不思議なことにちょっとした“意味”の世界が現れる。
 掃除によって、僕は世界にほんのわずかな“意味”を与えたのだ。
 何を大げさなふざけたことを、と思われるかもしれないけど、ウツや失恋や挫折に苦しんでいる人は、ダマされたと思ってぜひ試してもらえたらと思う。僕自身で実証済みの、意外にあなどれない方法なのだ(再び、「一般化のワナ」にひっかかっていないことを願うけど)。
 何の欲望もないまま、ただ無心でキッチンを掃除していると、いつのまにか目に見えてキッチンが綺麗になっていたことに気づく。その時僕は、僕の存在が、このキッチンの世界に“意味”を与えたことを知る。
 そうして与えた小さな“意味”は、僕が自分にとっての「意味の世界」をもう一度結わえ直していく最初の結び目になる。
 僕と世界はつながっている。そんなかすかな実感がやってくる。
 その実感は、最初は弱々しく、でもじわりじわりと、僕たちのさまざまな欲望を再び起動させることになる。次はあれをやってみようかな、あれもちょっと面白そうだな……。そんなふうに、欲望の触手が少しずつ伸びていくのだ。
 こうして世界は、再び豊かな彩りを取り戻すのだ。

 以上、「欲望相関性の原理」を応用した、生きづらさや絶望の乗り越え方についてお話ししてきた。
 そのほかにも、この原理は実はあらゆる問題に応用可能だ。前回と今回ご紹介したような、日常的・実存的な問題だけでなく、自然科学や社会科学、さらには哲学上のさまざまな難問も、この原理を底に敷けば解けてしまうものがたくさんある。拙著『「自由」はいかに可能か』にはその例をいくつも載せているので、ご興味のある方にはご参照いただければ幸いだ。

 さて、この連載も、残すところあと1回となった。
 最終回では、これまでにお話ししてきた「哲学的思考」をフル活用した、実践的な「哲学対話」の方法についてご紹介したい。
 実りある哲学的な対話とはどういうものか。最後にお伝えできればと思う。
 

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