人生につける薬

第12回
ストーリーは実存的な問いに答えようとする。

「なぜ?」vs一般論

 

「なぜ?」と物語的な心。

 ドイツ出身の古典学者ヴァルター・ブルケルトは、
〈まさに「なぜ」という疑問が物語を要求する〉
とか、
〈人は不思議な行動にぶつかると、「どうしてそんなことをするのか教えてくれ」と問う〉
 と述べています(『人はなぜ神を創りだすのか』松浦俊輔訳、青土社)。物語は「なぜ?」に牽引されるのです。

 愛する大事な人を失ってしまう。
 重い病の宣告を受けてしまう。
 財産を一瞬にして失ってしまう。
 失恋してしまう。

 こういうことは、世界中に毎日たくさん起こっているでしょう(←一般論)。

 でもほかでもないあなたが、大事な人を失ってしまったら? 重い病の宣告を受けてしまったら? 財産を一瞬にして失ってしまったら?

 あなたも、僕も、もしかしたら「なぜ?」と問うのかもしれません。それを知ったからといって、事態が改善することはないと理性ではわかっているのに。

 そこでうっかり、第9回で述べた「公正世界という誤謬」にハマってしまうと、
「こんな目に遭うということは、その罰にふさわしいなにか落度が私にあるのだろう」
「私のどこがいけなかったんだろうか?」(←この時点でもう私が悪いこと前提)
 となってしまい、自分のあれが悪かったとか、前世のおこないがとか、そういうストーリーになってしまうこともあります。

 

なぜ私が?

 こういった「なぜ?」にたいして、冷静な「一般論」を根拠として、
「あなたの家族は交通標識を無視してしまったのです」
「あなたの荒んだ生活習慣とストレスは尋常なものではありませんでした」
「詐欺にたいするあなたの構えが悪かったのです。セキュリティの問題です」
などと答えてもらったとしたら、どうでしょうか?
 あなたの求めていた答えはそれではないでしょう。

 病気も死も破産も失恋も、世界のどこかで日々繰り返しだれかの身に起こっている現象である。──と、このように言うとき、それらのできごとはいわば「タイプ」「種」として「一般論」的にとらえられています。

 どんなに賢明で、どんなに家族思いで、どんなに善人で、どんなに信心深くても、不本意な目にあってしまうことがある。

 善行や財産といったプラス要因をいくら並べ立てたところで、そういう突発的な不幸の連発を避けることはできません。

 これくらいのこと、私たちは理性ではわかっているのです。一般論とは、「そういうこともあるよね」というものになってしまいがちです。

 そういう一般論をいくら承知していても、人間は大きな苦難にあったときに、「なぜ?」と問う。その「なぜ?」は、
 「なぜこのできごとが起こったのか?」
 という通常の問いでは必ずしもありません。ではなくて、
 「なぜ私がこういう苦難に遭うのか?」
 という、尋常ではない問いかただったりします。

 こういうものを、実存的な問い、と言ってもいいでしょう。この実存的な問いに、ストーリーは無理やり答えようとします。

 

理由ではなく、意味が知りたい

 フランス出身の文化人類学者パスカル・ボイヤー(ボワイエ)は、ある種のできごとは、通常の因果関係の点からはそう簡単には答えられない質問を自然に発生させるといいます。つまり、「なぜ(ほかのだれかではなくて)私が?」という問いです。

 ボイヤーによれば、私たちは、できごとを見てそこから直接疑問を生じさせるのではなくて、そういったできごとを、特定のアングルからすでに考察しつつあるときにのみ、通常の因果関係の点からはそう簡単には答えられない質問を発生させるというのです。

 ボイヤーいわく、
〈人間の心は、物語的心あるいは文学的心である〉。
〈まわりの出来事を、いかに些細なことであれ、因果的な物語──つまり個々のできごとが別の出来事の結果であり、あとに続く出来事への道を開くような連鎖──によって表象しようとする〉
(『神はなぜいるのか?』鈴木光太郎+中村潔訳、NTT出版《叢書コムニス》。人間はどういうつもりで神という概念を作り出してしまうのか。進化心理学や認知科学、霊長類学などさまざまな角度から、この問いを解き明かす本がたくさん出ていますが、本書はとりわけ読んでいて楽しく、また示唆的な本です)。

 あなたはこのとき〈なぜ?〉と問うてはいますが、ほんとは、理由が知りたいのではなく、意味が知りたいのではないでしょうか?

 もちろん、意味を「外づけ」できるのは小説や漫画のようなばあいであって、現実の世界、とくに自分の人生については、意味を「外づけ」することはできません。

 そういうことを、これもまた頭ではわかっていても、ほかでもない自分の人生に大きくかかわるようなできごとこそ、なんとかしてその意味を知りたいと思うのが人情です。

 ほかでもない「私」が、いまこの人を失ったこと、いまこの病の宣告を受けたこと、いま破産したこと、そういったことはあくまで個別の、一回性のできごとです。「だれか」でもなく、「だれでも」でもなく、「この私」という実存的な問題なのです。

 ストーリーの秘密はここにあるような気がします。

(余談ですが、僕はじつは「できごとに〈意味〉などない」と子どものころから思って生きてきました。しかしどうやら、「できごとに〈意味〉などない」という決めつけ自体が、ひとつの「意味づけ」にすぎないと感じるようになりました。この話はややこしいのでここでは深追いしませんけど)

 

ストーリーは「もうおしまいだ……」から始まる

 第7回で、「できごと=事件」は大なり小なり「非常」のものである、といったことを書きました。ストーリーにおいて、「平常」は「地」(背景)、「非常」は「図」(意識の志向対象)だと考えられます(例外もあります)。

 幸福の欠如は、ストーリーの出発点に置かれることが多い、それ自体が「特筆すべき事態」なのです。

 第3回で、「ストーリー」の出発点は、主人公が不本意な状況であるということが多い、と書いたのはこういうことです。主人公が、たとえばシンデレラのように、不本意な事態を変えようと動く「問題─解決(の試み)」によって、筋が動きはじめます。

 過去、何度か不本意な目にあったり、挫折してなにかを諦めなければならなくなったりしたときに、
「もうおしまいだ……」
 と思ったものでした。でもそれはひょっとしたら間違いで、不本意な危機的状況こそが、自分のストーリーをはじめるべき時期だったのかもしれません。

 

うみのみずはなぜからい

 「なぜ私が?」という実存的な問いを広げていくと、「なぜ私の町が?」「なぜ私の国が?」「なぜ私の星が?」「なぜ私の宇宙が?」という問に変わっていきます。

『うみのみずはなぜからい』という話は何度も絵本になっています。

 願ったものを無尽蔵に吐き出す魔法の碾き臼を手に入れた人物が、舟の上でこの臼に塩を所望し、それに応えて臼は塩を延々と産み出しつづけるが、この人物が塩の生成を止める手だてを知らなかったため塩の重みで舟が転覆し(あるいは塩生成中の臼を海に落とし)たために、いまでも海底で臼が塩を作り出し続けている、という説明でした。

(ちなみにこれは典型的な「魔法使いの弟子」パターンのストーリーでもあります。メアリ・シェリーの『フランケンシュタイン』、田山花袋の私小説『蒲団』、バーナード・ショー原案の映画『マイ・フェア・レディ』、アーサー・C・クラーク原作の映画『2001年宇宙の旅』と、さまざまなコンテンツがこのパターンを踏んでいますし、原子力発電について語るときには多くの論者がこのパターンを採用します)

 英国の批評家フランク・カーモウドによれば、素朴な読者が物語(=ナラティヴ。ストーリーが表現された結果の姿)に求めるものは、
〈ひとつはしかるべき論理一貫性、そしてもう一つは「なぜと問う」必要をなくしてくれる権威である〉(「秘密と物語のシークエンス」林完枝訳、W・J・T・ミッチェル編『物語について』所収、平凡社《テオリア叢書》)

 子どもも、小説の素朴な読者も、神話時代の人間も、そして大なり小なり人間というものは、〈「なぜと問う」必要をなくしてくれる権威〉を求めがちです。答がほしいのです。困ったものですが、それが人情というものかもしれません。

 

宇宙論と存在論

 オランダの文芸学者アンドレ・ヨレスは、以下のように書いています。

〈人は大空を眺め、昼には太陽が、夜には月が常に繰り返し空を照らすのを観察した。観察は驚きとなり、驚きは問いとなった。
 そうした昼と夜の光は、〔……〕時とその周期において何を私たちに意味するのだろうか。誰が、それらをそこにすえたのだろうか。世界がそれらに照らされる前は、〔……〕時が分割される前は、どのようであったのだろうか。
さてそこで、問う者に答えが与えられる。〔……〕その答えは決定的であり、断固たるものなのである。〔……〕
 このような方法で、問いと答えから、人間にとって世界が創り出される所──そこに私たちが神話と名付けたい形式が始まるのである〉
(『メールヒェンの起源 ドイツの伝承民話』高橋由美子訳。引用者の責任で改行を加えた)

 神話は宇宙論的な問いにたいする答えだというのです。

 ロシアの記号学者ウラディーミル・N・トポロフも、宇宙論のテクストの注目すべき特徴として、まず、
〈テクストが、問いに対する答え(あるいは、一連の答え)として組み立てられる〉
 ことを挙げています(「宇宙論から歴史記述へ」北岡誠司訳)。

『創世記』をはじめとする世界じゅうの創生神話・宇宙生成論は、
「どういったいきさつで、この世界は在るのか」
「なぜ僕たち(=人)は生きているのか」
 といった問いに、各自のやりかたで答えようとしています。

 また古代のインドやギリシア以降、宗教や哲学では、
「なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか」
 という究極の問が問われてきました。とくに哲学では、ストーリー的でない方法でこの問に答えようとする例もあります。

 この「平常」が存在すること自体が、最大の驚きといえば驚きなのです。

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