ちくま学芸文庫

ことばが意味をもてるのはなぜか

哲学的思考への最強の入門書!!

9月刊行のちくま学芸文庫 『規則と意味のパラドックス』(飯田隆 著)から、冒頭の一部をご紹介します。

ひとがふだんしている推論の多くは帰納法である
 この本の主題にとっては回り道のようにみえるかもしれないが、「グルー」の話から始めよう。この言葉は、たぶん英語の単語と言ってよい。ただし、接着剤のことを意味する「glue」ではなくて、「grue」と綴る。この言葉を作ったのは、ネルソン・グッドマンというアメリカの哲学者だが、かれがそうした理由は、帰納法と呼ばれる推論の本性に関してひとつの謎をかけるためである。
 帰納法というのは何もおおげさなものではない。ひとがふだんしている推論の大部分は、帰納法だと言っても言い過ぎではない。朝起きて家を出るまでの私の行動を考えてみても、そこに何らかの推論がかかわっているとすれば、その多くは帰納法に分類される種類の推論である。たとえば、顔を洗おうとして水栓を右に回すのは、これまで水栓を右に回せば水が出たから今度も同様にすれば水が出るだろうと考えてのことだろうし、電車の時刻に合わせて家を出るのも、電車はこれまで時刻表通りに駅に来たから、今度もまた時刻表通りに駅に来るだろうと考えるからである。
 つまり、これまでこうだったから、今度もこうだろうと推論するのが、帰納法である。もちろん、こうした推論はいつも信頼できるとは限らない。たとえば、今朝は断水だということを私が忘れていたとしたならば、水栓を右に回しても水は出ないだろうし、事故で電車が遅れることもある。だが、これまでいつも水栓を右に回せば水が出たということは、今度も水栓を右に回せば水が出ると考えるよい理由となるということは、だれも疑わないだろう。
 水道や電車以上に信頼できるとわれわれが考えているものは、自然が示す規則性である。手から離したボールが落ちること、水に熱を加え続ければ沸騰すること、さらには、昼と夜の交代、われわれを含めた生物が生まれ成長し死ぬこと、その他数え切れないほどさまざまな規則性があることをわれわれは知っている。実際、こうした規則性がなければ、水道にせよ電車にせよ、ひとが作ったものが意図されたように動いてくれると考える理由はない。
 われわれの回りの自然を観察していて気がつく規則性のひとつに、ものの色がある。光の加減や距離でわれわれに見える色はさまざまに異なりうるが、多くのものはある決まった色をもっているようにみえる。ひまわりの花は黄色く、彼岸花は赤い。キュウリは緑色で、熟したトマトは赤い。こうしたことをわれわれが知っているのは、必ずしも帰納法によるのではないかもしれない。つまり、「これまで見たことのあるひまわりの花はみんな黄色だった、だから、まだ見たことのないひまわりの花も含めて、ひまわりの花はみんな黄色い」といった具合に推論して、「ひまわりの花は黄色い」と思っているのではないかもしれない。むしろありそうなのは、子供のときに何とはなしに「ひまわりの花は黄色い」ということを「常識」として覚えたということだろう。だが、そういう経路をたどらずに、いま述べたような帰納法によって「ひまわりの花は黄色い」という結論に達するということも、まったく考えられないわけではあるまい。たとえば、ひまわりがまだ発見されてまもない新種の植物だというような状況では、そのように進むしかないだろう。
 さて、この帰納法は、つぎのような推論である。

  前提 これまで見たことのあるひまわりの花はみんな黄色だった。
  結論 まだ見たことのないひまわりの花もみんな黄色だろう。

この推論は、「演繹的推論」と呼ばれるつぎのような推論

  前提 ひまわりの花はみんな黄色である
  結論 このひまわりの花も黄色である

とちがって、前提が正しいならば結論も必ず正しいといった性格のものではない。これまで見たことのあるひまわりの花がみんな黄色であっても、つぎに観察されるひまわりの花が黄色でないということを想像することは十分にできる。しかしながら、これまで見たことのあるひまわりの花がみんな黄色だったということは、つぎに観察されるひまわりの花が黄色であると考えるよい理由になるとわれわれは考えている。帰納法という推論は、その前提が正しいとき、演繹的推論とはちがって、その結論の正しさを完全に保証してくれるわけではない。だが、それは、結論の正しさを信じるべき十分な理由を提供してくれるとみなされている。
 「グルー」という言葉を作ったグッドマンが帰納法の例に取ったのは、つぎのような推論である。

  前提 これまでに観察されたことのあるエメラルドはみんなグリーンだった。
  結論 まだ観察されたことのないエメラルドもみんなグリーンだろう。

エメラルドというのは、ひまわりやトマトほど身近だというわけではないし、なぜ「緑色」と言わないで「グリーン」と言うのかと不審に思うひともいるだろう。前者に関してはとりあえずいまのところ、グッドマンが挙げた例がエメラルドで、それ以後の議論でもこの例が必ず使われるからだと答えておこう。後者については、読み進めてもらえればわかるはずである。いずれにせよ、ここでは、ひまわりの花についてであれ、エメラルドについてであれ、いま挙げたような推論は、十分に合理的な推論と一般にみなされているということを確認しておけばよい。

「グルー」が登場する
 さて、「グルー」が登場するのはここである。この言葉の意味は、こう説明される。

何かがグルー(grue)であるとは、その何かがこれまでに観察されたことがありグリーン(green)であるか、あるいは、その何かがまだ観察されたことがなくブルー(blue)であることである。

だが、こう説明されても、すぐには何のことだかわからないだろう。グルーであるようなものとは、われわれの常識から言って、とても不思議なものだからである。
 いま仮にグルーである宝石があったとして、それを「グルー・ストーン」と名付けよう。さらに、その宝石は地球上にしか存在せず、そのうちの半分がこれまでに人の目に触れ、残りの半分は、まだ地中に埋蔵されたままで、これから掘り出されるのを待っているとしよう。グルー・ストーンがグルーであるということは、この世に存在するすべてのグルー・ストーンのうち、これまでに人の目に触れた半分はすべてグリーンであるのに対して、これから掘り出される残りの半分はすべてブルーであることを意味する。
 グルー・ストーンは人の目に触れれば色が変わるということではない。これから掘り出されるはずのグルー・ストーンは地中ではブルーであるが、掘り出されたときにはグリーンになるということではない。そもそも光の届かない地中でブルーであるというのは意味をなさないと言うひとがいるかもしれないが、必ずしもそんなことはない。何かがブルーであるというのは、太陽光のもとで適正な距離からといった標準的な環境のもとで正常な視覚の持ち主によって見られた場合にブルーに見えるということであり、また、この意味での物体の色というのは、その表面がどのような物理的性質をもっているかによって決まるから、地中に存在しているものについて、もしもそれが太陽光のもとで見られたならばブルーであると言うことには、十分意味を認めることができる。地表に出ることによってそのものの表面に何らかの化学変化が起こると考えれば、地中にあるままの状態で観察されたならばブルーであるはずなのに、地表ではグリーンにしか見えないという想定を維持することができる。
 話の行きがかり上、つい、色が変わるという可能性にこだわってしまったが、そうする必要はじつはなかった。そもそも最初に言ったように、グルーであるものとは、その色がグリーンからブルーに変わるようなもののことではないと考えてよいからである。だから、グルー・ストーンはまったく変色することがないと仮定しよう(エメラルドのような宝石を例に取る理由のひとつは、この点にある)。これまでに掘り出されたグルー・ストーンはすべて、ずっとグリーンであり、まだ掘り出されていないグルー・ストーンはすべて、ずっとブルーだと考えるのである。これまでに掘り出されているかどうかということと、それがグリーンかブルーかということが、とても不思議なことだが、偶然にもぴったり対応しているだけのことである。
 グルーという概念のわかりにくさは、グルー・ストーンのような物質の考えにくさと同じである。たとえば、同じ種類の植物なのに、その花に赤いものと黄色いものの二種類があるとするならば、その違いは、その植物自身がもっている他の性質に由来するとわれわれは考える。もしも、これまで観察されたその花はすべて赤なのに、まだ観察されていないその花はすべて黄色だというような仮説が出されたとしても、われわれはその仮説をそのまま受け入れることはできない。これまでとこれからとのあいだでの何らかの環境の変化が直接的に植物に変化をもたらすとか、あるいは、そうした環境の変化が観察者との相互作用を通じて間接的に植物に変化をもたらすといった別の仮説が与えられない限り、こうした仮説が相手にされることは決してない。
 だが、そうした仮説を事実上われわれが相手にしないということと、そのことに正当な理由があるということとは、いちおう別のことである。哲学者とは、ひとが事実上していることをそのままにしておけないひとたちのことである。ひとが事実上していることには、事実上そうしているという理由以外にないという結論に至る結果になるだけだとしても、それ以外の理由がないかといちおう探してみるのが、哲学者の性癖である。だから、グルー・ストーンのような物質が存在するという仮説をまともに取り上げてみるということになる。そのとき判明する意外な事実は、この仮説が、合理的な推論方式としてわれわれが認めているはずの帰納法によって支持されることである。

 

                        ⇒つづきは本書でお楽しみください

2016年9月12日更新

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飯田隆(いいだたかし)

飯田隆

1948年北海道生まれ。主に言語と論理にかかわる問題を扱ってきた哲学者。熊本大学、千葉大学、慶應義塾大学で教え、現在日本大学文理学部教授。慶應義塾大学名誉教授。科学基礎論学会理事長と日本哲学会会長を務めた。著書に『言語哲学大全』Ⅰ‐Ⅳ(勁草書房)、『ウィトゲンシュタイン』(講談社)、編著に『ウィトゲンシュタイン以後』(東京大学出版会)、『ウィトゲンシュタイン読本』(法政大学出版局)、『哲学の歴史11――論理・数学・言語』(中央公論新社)など多数。

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