ちくま学芸文庫

思考の次元、文章の次元
『思考のための文章読本』序

9月刊行のちくま学芸文庫『思考のための文章読本』(花村太郎著)から、「序」の一部を紹介します。


 この本には実用的な課題がある。読み、書き、考えるための話題(なにを)や手法(いかに)を提供すること、できれば、それをツール(道具)として使えるような文章読本をつくりたいという課題だ。例文を読みながら、眼からうろこが落ちるような箇所にであい、発想が変わる。見方・考え方がかわる。
 そして同時に、思考や文章について、考えを深めることにもなりうるような、そうした、実用と探求との二段がまえのアンソロジーのような文章読本を構想した。
 文章を通して思考をきたえるような試みをしてみたい、とは以前からの願いだった。というのも、学校で言語表現・文章表現を教えていていつも感じるもどかしさがあったからだ。文章にとどまっていて、決してその向こう側には出て行こうとしないような、世界に対する関心があふれでてこないような、文章内で自己完結する読み書きのレッスンに疑問
があった。
 考えることは危険なスリルにみちた行為でもあるのだから、安全処理のされた文章を読んでも思考のレッスンにはならない。ここに選んだテクストはどれも、明確な狙いをもち、論敵や読者を想定して、世界に挑もうとした文章だ。また、読み、書き、考えるためのものである以上、テクストの採用範囲は、戦後日本の「言葉の宇宙」のなかだけに限るわけにもいかない。
 
 ところで、ぼくらが文章を読んでいるときには、それが言葉で書かれていることなど意識しないで読んでいる。そのとき言葉は空気のように透明な存在である。ところが、文章を言葉や文字の行列として意識したとたんに、読みは中断され、言葉がぼくらの目の前に不透明な壁としてあらわれる。これは当たり前のようでいて、やはり不思議な現象だ。
 思考しているときには言葉はかき消え、言葉に注目すると思考がすり抜けてしまう。読書のなかでは、思考と言葉は同時にとらえることのできない、なにやら不確定の関係にある二つの事柄のようだ。
 『思考のための文章読本』では、例文を目の前にして、思考と言葉の世界で生じるこうした不思議な現象のなかに身をおいて、考えてみたいと思った。

思考の次元、文章の次元

 そこで、はじめに、この例文で切りとろうとしたものがどんな次元に属し、どんな意味をもつのか、簡単に考えておきたい。
 ここで扱おうとする「文章」は、言語と文体との中間領域に属するものだといってよい。また、「思考」とは、論理と思想とのあいだにひろがる広大な領域をさすものとして想定されている。
 文章は、言語学や文法学の対象として読むことができるし、そこに使われた語り口・言い回しの数々を調べあげることもできるし、さらにまた、書簡の文章に典型的なように、その文章に筆者の人柄を味わうこともできる。
 実際に例文を引いて検討してみてもよい。

福沢全集の緒言に、彼の自作の率直な解説を読む者は、西洋文物の一般的解説が、いかに個人的な実際経験に触発されて書かれたかを見て驚くであろう。彼の文は、到るところで、現わすまいとした自己を現わしている。「福翁自伝」が、日本人が書いた自伝中の傑作であるのは、強い己れを持ちながら、己れを現わさんとする虚栄が、まるでないところから来ていると思う。世人は、福沢の俗文に、福沢の魅力ある己れを嗅いでいた。嗅ぐという経験は確実だったが、嗅ぐという言葉は曖昧だった。それは今日とても変りはあるまい。だが、曖昧な言葉しかなければ、その経験自体まで曖昧なものと見なしたがる、そういう病気は、今日の知識人の方が重くなったであろう。(小林秀雄「福沢諭吉」)

 

宣長は、漢意によって、国文を読んではならぬ、と教えた。そんな事なら、宣長の本文を読まぬ人でも知っているが、本文には、本文の文脈の動きがある。漢意を通して国文を見るな、と繰返し、くどくどと、彼が語るのを聞いていると、いくら繰返し言っても足りはしない、聞き手のもう解ったという言葉など信用出来はしない、そういう彼の心持ちが納得出来てくる。此のくどさこそ、この学者の良心に、確信に、要するに、この人の人格に繫がるものだという事が見えて来る。徂徠も、今言を以って、古言を視るなとくどく教えたが、これも、説いて説き尽せぬ教えであった事に変りはあるまい。その自覚の深さが、彼の豪さに繫がる。(同「徂徠」)

 論じている対象は違うけれども、ぼくらは、このふたつの文章に共通する思考のスタイルとでもいうべきものを抽出することができる。それは、書かれたもの(言葉)には書いた人(作者)の個性(人格・思想)があらわれている、読むとは言葉を通して作者の人格(内面)にふれることだ、とする思想、さらに言えば、経験は確実だが言葉は曖昧で信用できぬ、という思考である。言葉は、だから、それを通じて経験を知るための媒体にすぎぬ、したがって、作品の言葉は作家の人格に触れるための媒体、それもきわめて曖昧で不完全な媒体、ということになる。それならその不完全な言葉以外にたよるものをもたない読者・批評家は、どうやって作家に到りつくのか。――直感だ、言葉の不完全なぶんを直感が補わねばならない、私たちが一番鍛えねばならない思考とは、この直感の力だ、という小林秀雄の批評の方法の大枠を、ぼくらは、ここにあげたわずかな文章断片から看取することができる(小林秀雄の思想をこのように読みとることについては異論が予想されるけれど、少なくともここでは、ありうる読みのひとつとして了解してほしい)。
 つまり、どの文章にも働いている筆者の独自な思考、といえばこれは「思想」と呼びうるものだが、――その独自な思考をあらわす独特の言い回し、すなわち「文体」、とまあ、このようにある文章を問題にすることは、今まで、思想史や文学研究の分野で行われてきた。
 ところが、この本で問題にしようとする文章は、これとはややレベルが異なる。
 「思想」はそれを考えだした人間とともにほろぶものだ、思想はしょせん「文体」の問題にすぎない、と小林秀雄はいうのだけれど、ここではちょうどその対極に立って、思想や文体は流行によって滅びることがあっても、「思考」と文章は滅びることがない、というのが本書の眼目である。
 というのも、たしかにこの小林秀雄の書いたものは、小林秀雄という希有の思考の持ち主の書いた独特の文章、つまり個性ある文体には違いない。しかし、それが日本語で書かれているという一般的な事実(つまり言語学でいうラングのレベル)にまでは引きもどさないにしても、小林の思想を、「言葉は実際でないのに、言葉を実際だと錯覚してすませる風潮がつよい、言葉と実体とを区別して考えよ」、という主張にまで抽象ないし還元してみれば、これはもはや、個性的な思想でも文体でもない。
 さらにこれをもっと一般化して定式化すれば、「AをBと混同するな・区別せよ」、または、「AとBとは違うものなのにAをあたかもBであるかのように思い込む「迷妄」が生じている、この度しがたい迷妄・転倒を排さなくてはならない」、というパターンになりそうな、この種の思考法なら、ぐっと身近になり普段ぼくらも使っているかも知れない。
「AをBと混同するな・区別せよ」、という言い回しは論理ともとれないことはないけれども、論理学で扱うどの命題にもはいっていない。「AはAである」という同一律や「Aは非Aではない」という排中律をくみあわせて使っているとはいえるかもしれないが、しかし論理学でいう推論ないし判断をはるかに超えたところでこの命令文の思考は成立している。だいいちここでは命令と主張がひとつの価値判断として提出されている。論理学の命題は、判断の主体には無関心なのであるから、主観的な価値判断は避けねばならない。もっとはっきりいえば、真偽の論理計算の思考には、命令だの判断の強調だのは手に負えないのだ。
 このように、「論理」とくらべると、この「思考」は主体をもち、価値判断がでてきて、より具体的な思考レベルに近づいているのだが、「思想」と比べるとずっと抽象的である。というのも、思想とは、小林も言うように、ある主体の、ある時におこなう一回かぎりの思考の遂行でなければならないからだ。同じことをくりかえす場合は、もはや計算であって思想ではない。小林秀雄は「思想」の作者だが、それをくりかえすだけのものは亜流といわれる。思想のこの一回性・一個性にたいして、本書が扱う思考法は反復可能なエレメントであり、それらを用いて読者自身が、一回的な思考、すなわちまた別の、新しい、思想という出来事を遂行するという関係にたつ。
 この種の語り口・言い回しのパターンを扱う学は、広い意味では従来のレトリックと呼んでいいだろう。この種のレトリックのなかで、ある時代やある集団に共通して使われるパターンは、思考の考古学の素材になるし、思考の戦略を知るための徴標の役目を果たすこともできる。つまりこれはやや特殊な共有財なのであって、これの利用はその人の所属する時代や集団を微妙にあるいは露骨に表示することにもなる。多かれ少なかれぼくらは時代や集団の影響をこうむりつつ考えているわけなのだから、思考というときにはこのレベルがいちばんヴィヴィッドで面白いのだ。
 フランスの批評家ロラン・バルトはこれを「エクリチュール」と呼んで、言葉のなかに隠されている神話やイデオロギーを暴くときの手がかりとした(『零度のエクリチュール』)。
 また、美術で言うモチーフとか、ローベルト・クルツィウスがあつめ系譜づけようとした「トポス」や折口信夫が「譚」(「貴種流離譚」等)と名づけて束ねる物語のパターンや、G・レイコフとM・ジョンソンとが集めて解読しようとした「ルート・メタファー」なども、抽象化の度合い、扱うスケールは様々ではあるけれども、ラングとスタイルとの中間にあり、ここでいうエクリチュールと接している。いずれも、ラングとスタイルとのあいだにある広大なディスクールの領野で、ある形態的な手がかりをさがして、神話的思考、イデオロギーを解読しようとした先人達である。ぼくの場合には、概念的な思考を影で支えている形象的な思考(イメージの思考)を、パターンとしてとり出したいというところに最も関心がある。
 文体は作家の身体性に近い私有財だからその借用は瓢窃か模倣といって非難されるが、日本語(ラング)という共有財の使用それ自体には縄張り問題は生じない。レトリックの使用は先ほど述べたような、私有と共有との中間的な性格――「党派性」とバルトはいうのだが――を帯びるわけだ。
 要するに本書は、文章のかたちで思考をとりだそうとするわけだけれども、その切り口は、ラング(言語)―エクリチュール―スタイル(文体)、論理―思考―思想、のうちのそれぞれまんなかのレベルに主に狙いを定めている。図式的にいえば、これは結果的にそのような整理になったにすぎないのだが、この三項図式に、一般―特殊―個別、の三概念を対応させてみると、本書の方法及び対象がわかりやすいかも知れない。
 そんなわけで、例文の解説は、レトリックの解説と似ている面もある。しかし、思い違いをしてはいけないのだが、レトリックは複合的な現象なのである。だから、例文をとりだして、これは何の技法、などというように、一義的に分類・レッテル貼りするのは無理・無謀というものだ。例文について、そこにいくつもの思想的なテーマや表現技法上の諸問題が隠され含まれていることを発掘・指摘・吟味するほうがよい。
 しかも、まだ名づけられていない方法を、あるいは、送り手の思考の戦略を発見することのほうがはるかにやりがいのある仕事だろう。
(この続きは本書でお楽しみください)

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