ちくま新書

日本人は震災といかに向き合ってきたか

ちくま新書『日本震災史』の冒頭を公開いたします。昔から日本を襲ってきた地震にいかに立ち向かってきたのか? ぜひご覧くださいませ

東日本大震災から五年を経て

 東北地方太平洋沖地震が二〇一一年三月一一日に発生してから、すでに五年を経た。今年三月には東日本大震災五周年を記念して、各地でさまざまな催しが行われた。なかでも被災地ではこの五年の間になにが失われ、どこまで復興したのかを巡って、これまでの歩みを振り返り、これからどう進むのかを問いかける展示や集会などが開催され、冊子や写真集が刊行された。阪神・淡路大震災(一九九五年)以来、新潟県中越地震(二〇〇四年)など大きな災害の回顧、あるいは復興を跡づける試みがこれまでも行われてきた。
 そのなかで、この東日本大震災を経て、今回新しく登場してきた言葉があることに気づいた。アーカイブという言葉である。
 この用語は文書を保管する場所、文書庫などを意味する言葉として、歴史系の研究者の間では一〇年ほど前からたびたび使われてきていたが、私自身にはあまり馴染みがない用語であった。わざわざ外来語を使わなくても、資料でよいのではないかと思っていたのである。そこでアーカイブという言葉を登場させた意図はいったい何だろうという思いが湧き、「震災アーカイブ」をタイトルに掲げる展示会場に行ってみた。
 その結果、この災害で一挙に増えた津波襲来の様子を捉える個人写真などを含め、震災を伝える写真、ビラ、出版物、映像、要するにあらゆる記録を包括する言葉として、アーカイブという用語を新しく登場させて、この災害を社会が共有する情報として位置づけようということだとわかってきた。ここで、「新しく」という意味は、昨今のメディア環境の急速な発展を踏まえて、集めた情報(データ)をインターネットなどを通じて社会に公開、還元して、役立てるということである。資料を見る必要が生じた場合も、これまでのように、資料所蔵先に赴いて三拝九拝して見せてもらう必要はなくなる。
 インターネットは今や私たちの日常生活で欠かせないメディアの重要な軸となった。インターネットを活用すれば、社会が広く共有するこのメディアによって、災害に関わる情報を公開、活用して、防災に役立てることもできる。また、それに連動して開発される3Dのような新しいメディアの活用も同時に社会が共有するものになるということらしい。東日本大震災で得たあらゆる知識や知恵を社会が共有し活用する、その道筋のひとつとして、今のところは、情報を提供する側から、アーカイブという言葉には大いなる期待が込められていると感じた。

震災デジタル・アーカイブ

 二〇一六年の三月下旬、東日本大震災五周年の催し物のひとつとして公開されていた多
賀城(たがじょう)市の3Dデジタルアーカイブによる津波跡を辿る街歩きツアーに参加した(ポスター参照)。多賀城市は、三・一一の震災で市内の建物が倒壊、死者一八八人を出す被害を受けた。住宅の被害は全壊、一部損壊を含め一万一八五一世帯(津波によるもの五一四〇世帯、地震によるもの六四九四世帯)であった。この被害の痕跡を街を歩いて、3Dカメラに収めた震災発生当時の映像と重ね合わせ、被害の様子を再現してみるという試みである。復興が進展している箇所もあり、当時の様子はほとんどその痕跡を地上に残さなくなっている。
津波襲来時、避難所に提供された民間の建物など、今はすべてその痕跡が消え、残るのは、デジタル画像が捉えたものでしかない。それらを歩きながら確認してみようというわけだ。こうした試みは、莫大な費用がかかるものの、研究機関や企業と協同して調査を行うことで、震災当時の姿をデジタル上とはいえ、保存して、市民の記憶に留めることができる企画だという。多賀城市がいち早くこの企画を立ち上げ、また、史都多賀城防災・減災デジタルアーカイブ「たがじょう見聞憶(けんぶんおく)」を市のHPに公開した。それも「千年先へ」というかなりはったりを効かせた表現だが、それは、東日本大震災が起きるまで、社会が忘れかけていた貞観(じょうがん)津波のことを想起してのことだろうと推測した。
 五年前の東北地方太平洋沖地震の発生で、一〇〇〇年以上前の貞観地震(八六九年)による津波によって多賀城下に一〇〇〇人もの死者が出たという記録がにわかに思い起こされた。地震学者に限らず、行政としても、貞観地震の被害を検証して、行政現場に活用していれば、少なくとも被害に関する構えはできていたのではないかという反省があったのではないかと推測する。一〇〇〇年以上前とは海岸線も地上の建物の強度も集住する人口規模も、要するにあらゆる点で比較にならないほどの変化を遂げている。しかし、東日本大震災では、東北の海岸一帯で一〇〇〇人といわずその二〇倍近い人の命が失われたのである。この災害をきっかけに、忘れ去られていた過去の災害を再び忘れることがないように、社会の記憶として留めておこうという強い意志が込められていると思われた。
 さて、そこで、古代史などにはまったくの素人の私であるが、まず、貞観地震を記録する『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』の記録から、古代社会は災害が起きるとどのような対応をしたのかということから考えてみようと思った。もちろん、こうした極めて限られた古代の記録だけでは、津波の規模や被害の範囲を知ることは難しい。
 しかし、津波の場合には、津波が運んできた砂や礫(れき)の堆積を調べる津波堆積(たいせき)学という分野で開拓された成果も大きい。また発掘による遺跡、遺構から津波の痕跡を追跡することも可能である。地形復元によって、古代の海岸線を推定することも必要だ。歴史学からは史料を使いながら、さらに地震学からは、過去の津波の記録から繰り返す津波のタイプを推定することも可能である。要するにあらゆる分野の学術的成果を結集して、M(マグニチュード)9という過去最大の地震災害の分析がこの五年の間に進められてきた。その全貌を追うことは私の能力の限りを尽くしてもできない。だが少なくとも、被害から人々が立ち直るために、何がなされたのかを歴史資料から見ていくことはできるだろうと考えた。

災害と大名手伝普請

 日本は六国史(りっこくし)以来の記録の国でもある。すべてとはいえないが、文字による災害の被害記録は多く残されている。特に江戸時代以降は、災害の被害記録に基づいて救済が施されるといった制度も整い始めるので、まずはその被害を届け出る資料が一段と増える。しかしながら、大規模な災害で、特別な救済が施されたり、支援が各方面から注ぎ込まれるような場合を別にすれば、復旧や復興についての記録は意外に少ない。私たちの祖先は、災害に見舞われ、日常的に努力を積み重ねて元の生活を回復させたとしても、そうした労苦を伴う日常を書き留めるほどの余裕のある生活をしていた人々はそう多くはないのである。
 では、道路や河川あるいは田畑への用水路など、個々人の力を超える社会基盤材の修復は、どういう風になされたのだろうか。少なくとも、江戸時代までは、どのような大工事であっても、基本的にはマンパワーに頼るしかなかった。そこで、こうした社会において、インフラの復旧作業がどういう方法で遂行されたのかを考えてみることにした。災害復旧で大量の資金と人力が必要な場合には、江戸時代では大名手伝普請(だいみょうてつだいふしん)という方法をもって災害からの復旧が行われるケースが多かった。ただ、徳川幕府が直接支配する地に建てられた城郭にも、大名手伝普請によって多くの大名から普請に必要な金と人が動員されたが、初期は災害修復ではなく、都市建設が目的であったから、ここでは対象外とする。
 一七世紀末までの溜池(ためいけ)、用水路の設置などによる開墾面積は、徳川幕府が開かれた頃の総石高一八〇〇万石、耕地面積一五〇万町歩に対して、元禄年間には石高にして約一・五倍、耕地面積にして二〇〇パーセントの増加を示したといわれる(古島、一九七五)。これに見合った都市での物流の増加、それらを消費する人々の存在、村落での農業経営の技術的発展、農家持続への知恵の継承、村の組織の再編など、著しい社会的進展がみられた。しかし一方では、予測できない災害が発生すると、脆弱な地盤に開発された新田(しんでん)などは大きな被害を蒙(こうむ)ることになり、損壊を受けた社会基盤の回復が必要となった。
 一八世紀初頭の地震、津波、噴火の巨大災害の連続発生は、江戸幕府に新たな試練を与えた。そもそも、江戸幕府財政には、災害に備える財政の仕組みが構築されていなかった。だから、いわば臨時的な課税、あるいは臨時的に外部からの資金を調達する方法しかなかったのである。多額の資金を要する災害復旧には、初期の都市建設に動員した大名手伝普請を災害時にも援用したというのがそもそもの発端であったとみられる。
 それ以降、災害が発生すると、大名から資金と労働力を調達して河川の修復をさせることが常態となる。そのあり方は大名への過重な負担を強いるため、時代が下るにしたがい変化して、河川流域の領国が一定度の負担をする国役普請(くにやくぶしん)という方式も編み出された。これによって、幕府の財政負担の軽減が図られることになる。
 江戸時代における災害と復興という課題を、資金とマンパワーの動員方法という観点からみると、大名手伝普請は江戸時代的あり方として位置づける必要があると考えられる。これまで、大名手伝普請はそうした積極的役割で位置づけられることはほとんどなかったといってよい。むしろ、大名経済を破綻に導く要因として、また、国元の領民への過重な負担を強いるものとしての視点から位置づけられる場合が多かった。確かにその通りではあるが、災害復興という視点からみれば、災害地への莫大な資金と人力の投下によって、一種震災バブルのような状態を出現させたのである。
 もちろん、飢饉、火災、風水害などの比較的常習的な災害では、被害を受けた人々に対して、封建領主としての政治理念に基づいて御救米(おすくいまい)を与えるなどの救恤(きゅうじゅつ)は行われてきた。
 その歴史を無視するわけではない。こうした災害では、領主の「顔」がみえる政治行為として位置づけられていたこともすでに検証されている(菊池、一九九七)。しかし、大規模な普請を伴うような災害復旧は、そうした領民の救恤とは異なる政治的発想のもとに進める必要があった。幕府の権威も権力も相対的に弱体化するにしたがい、大名手伝普請も時代とともにその形態を変化させる。やがて、幕末には、外国からの開港要求への対応、海岸防備などに追われた幕府政治は、内なる災害への配慮が疎(おろそ)かになり、民間自らが主体になって、地震や津波などの突発的な自然災害だけでなく、日常的に頻発する災害に対応する実力を蓄えていく。
 そして、近代日本は、西洋技術の積極的導入によって交通網、建築構造物などを体系的に変えていこうとした矢先、地震国であることを自覚せざるを得ない大災害に見舞われる。この問題群を克服する道筋をつけるために、技術や学術研究方面の開発に着手しはじめる。マンパワーを主力とした社会が、近代技術の開発によって災害と向き合う方法を見出すことができたのだろうか。技術的に解決できることで、社会は災害を克服して復興できるようになったのかどうか、いまだ、結論が得られたわけでない。
 以上が、本書で災害復旧・復興に注目して、震災史を見直してみようとした理由である。


本書の構成

 本書で試みようとしたのは、災害そのものというよりは、災害の復旧・復興過程に焦点を当てて歴史災害を振り返り、時代を通じて、人々が災害からどのような立ち直りを果たしていくのかを見定めるということである。各時代の一般的に知られている大小の災害を平均的に取り上げることが本書の意図ではなく、予測されざる突発的に発生する自然災害に直面して、社会がどのようにその復旧・復興を果たそうとしたのか、その象徴的な事象がみられる災害を取り上げた。
 第一章の古代・中世は、この時代についての研究書をほとんど読んでこなかった筆者には、もっとも手ごわい対象ではある。しかし、近世、近代の災害復興のあり方を歴史的に位置づけるためには、避けて通れないと考えた。そこで、まず、序章としての位置づけではあるが、古代・中世の大災害、特に九世紀の災害が頻発するなかで、貞観地震(八六九年)の記録や富士山貞観噴火(八六四年)の記録に注目する。救済の事実が事細かくわかるわけではないが、古代の朝廷は災害をどう捉えていたのか、古代史の専門家によって説かれた事実を踏まえて、その姿を確認しておきたい。さらに、比較検討の問題を踏まえ、中世の災害としては、一五世紀から一六世紀末に至る富士山麓にある寺院で書き続けられた記録(『妙法寺記(みょうほうじき)』・『勝山記(かつやまき)』)から、この時期の日常的な「飢渇(けかち)」の実態を考える。
 第二章・第三章では、江戸時代の災害の復旧や復興はどのように果たされたのかを、大名手伝普請という江戸時代特有の災害復興のあり方から考える。本書を執筆する中心的論題はすでに前項で述べた通りであるので、本文をみていただくことにしたい。
 第四章では、徳川幕府の権力が揺らぎ始め、大名手伝普請といった政治的強制が効かなくなる段階の幕末に、むしろ、民間の力がまさってくる実態をみることにしたい。
 第五章では、明治以降、関東大震災までをみていく。明治維新当初はあまり大災害が発生していなかったことが維新政府の政治的安定のためには救いであったものの、明治二〇年代には、噴火、地震、津波が連続して発生する時期を迎える。近代化途上の明治政府がこれらの災害をどう乗り切ろうとしたのか、さらに、その二七年後に発生した関東地震で壊滅した帝都東京の復興の課題はどう果たされ、被災者一五〇万の人々はどう処遇されたのかを簡単にみておきたい。併せて、災害からの回復だけでなく、さらに大きく復興・発展するという、この時代ならでは膨張思考が各地へ及ぼした影響も少なくない。この時期までにみられる発展思考は、まさに日本近代そのものであったことも災害の復興を通して看取できる。
 今、わたしたちは自然災害が起こす大規模な地変だけでなく、そのことによって強いられる被災者の重く苦しい現実を目の当たりにしている。五年を経過した東日本大震災にしても、今年二〇一六年四月におきた熊本地震にしても、そしてまた、今後起きることへの危惧の大きい災害に対しても、被災地の人々と同じように、行く末の姿が確かめられず、大きな不安を抱えている。
 そうした現状にいて、過去を振り返ることでなにかすぐに答えがみつかるわけでもない。それは、確かにその通りなのだ。しかし、丹念に歴史を追うと、時代を超えて、人々が直面した苦悩のなかには、現代の私たちが抱える問題とそれほど違ってはいないのではないかと思わせるものも時に見出されるのである。人々がそうした苦悩とともに、いかに災害から立ち直ってきたのか、その歩みを本書を通じてみていきたい。