ちくま学芸文庫

「道徳」の課題
アレントが提起するもの

自らのユダヤ人体験を通して全体主義を分析し、思考の停止が〈道徳〉をいかに破壊するかを明らかにしたハンナ・アレント。その著書『責任と判断』を気鋭の社会学者が読む!

 本書ハンナ・アレント『責任と判断』を精読している間に、例の相模原障害者施設殺傷事件が起きた。周知のように、ナチスはユダヤ人だけではなく障害者も約二〇万人殺している。事件は、ヒトラーの歪んだ優生思想を彷彿とさせるとの声もある。だがこの事件で表現された「悪の凶暴さ」は、かの有名な『イエルサレムのアイヒマン』で論じられた「悪の凡庸さ」に比べ、分かりやすく、陳腐ですらある。

ハインリヒ・ヒムラーはアウシュビッツ強制収容所建設に際し、「生産的に処分せよ」とのおぞましくも示唆的な言葉を残したが、今日この国で私たちは、個々人が進んで経済的生産性と政治的従順さを発揮すべしとの気運のただ中にあることを考えた。

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 社会保障費抑制と、より重度な障害者のサービス受給のための自己負担増という趨勢の中、「一億総活躍社会」とは、「役立つもの」への「総駆り立て体制(Gestell)」と、ハイデガーが『技術論』で呼んだものを彷彿とさせる。

 また、文部科学省は新学習指導要領で、高校「公民」は、「現代社会」を廃して「公共」を新科目として設置するとの方針を示している。生徒が「政治的主体となること」「法的主体となること」「倫理的な主体となること」等を眼目とするというが、これらは民主主義の大いなる桎梏や、全体主義との相克をもっと慎重に検証せねばならない領域ではないのか。

 思想的根拠を欠きながら、「主体性」という名の従順さばかりを求められるのであれば、今日の政府の姿勢は、まさしくアレントが生涯をかけて提起してきた重要な課題を、丸ごと骨抜きにしてしまっているのではないか。

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 一般に、個人が善悪を判断する前提は、「道徳」に求められる。だが、アレントは本書でこの「[普遍的なものであるはずの]道徳性が突然、その語源的な意味で、すなわち[たんに場所によって異なるものにすぎない]習俗や習慣の全体を示す言葉であるモーレースとしての意味で、理解されるようになったかのよう」だと指摘する。

 「わたしたちは道徳的な規則や基準を示すために、ラテン語の語源[モーレース]に由来する道徳性という語と、ギリシア語の語源[エートス]に由来する倫理という語を使ってき」たが、道徳が「たんなる慣例や習慣を意味するにすぎないことが明らかになるとは、なんとも奇妙で、恐ろしいこと」ではないのか、と(「道徳哲学のいくつかの問題」より)

 卑近なことで恐縮だが、昔学部生のころ、倫理の語源エートスとは「心の習慣」を意味するギリシア語と聴き、そんな就寝時に着るものを浴衣からパジャマにする程度に変更可能なものに、西欧思想の善悪の判断はゆだねられているのか……? と素朴に疑問に思ったのを思い出した。

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 アレントの思想に通底するのは、他者へと向かう能動的な態度と、他者経験の具体性の追究といえよう。『人間の条件』の中で、公共性における他者経験や共通世界の重要性を論じ、本書ではカントの定言命法の原理以上にその発現に注目し、悪とは「わたしたちから言葉を奪う恐怖に陥れるもの」と思考の基盤すら収奪される可能性を指摘する。

 なるほど、「道徳」「判断」そして「責任」のような語は、アレントにとって「扉」にすぎないのだろう。それは、開き、通過し、示されることにより初めて機能を発揮する……そんな感慨とともに、本書を閉じた。

(みなした・きりう 詩人/社会学者)

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