はじめての哲学的思考

最終回 哲学対話をはじめよう

 「哲学対話」が、静かなブームになって久しい。小中学校などでも、「哲学対話」や「子ども(のための)哲学」と呼ばれる実践が、国内外で急速に広がりつつある。

 それはとてもいいことだと思う。この200年あまり、哲学は一部の専門家たちに独占されて、あまりにむずかしくなりすぎた。でもこの連載で繰り返し述べてきたように、哲学が2500年以上にわたって積み上げてきたさまざまな考え方は、現代を生きる僕たちに、本当はとことん役に立つものであるはずなのだ。
 ただし、これまでの連載でも述べてきたように、哲学的思考にはちょっとしたコツがある。「一般化のワナ」に陥らないとか(第5回)、「問い方のマジック」にひっかからないとか(第6回)、相手を言い負かすためのむなしい「帰謬法」を使わないとか(第7回)、いくつか知っておくべきコツがある。
 なまじ“哲学的”な対話をしてしまうと、非建設的な議論に終始して、僕たちはかえって対話への希望を失ってしまうことがある。実際、僕は日本をはじめ、アメリカやヨーロッパでの「哲学対話」の実践を時々見に行くのだけど、参加者が……と言うよりもファシリテーター(進行役)が、もうちょっとこれらのコツを知っていれば、より実りのある対話になるのになぁと思うことがしばしばある。

 そこで今回は、多くの中高生や大学生、また社会人の人たちと、僕がこれまでに行ってきた「哲学対話」の方法を、いくつかお伝えすることにしたいと思う。もしご興味があれば、関心のある人たちで集まってやってみたり、読者の中に学校の先生がいらしたなら、希望する生徒たちと実践したりしていただければ嬉しく思う。

価値観・感受性の交換

「哲学対話」のひとつめの、そして最も初歩的な方法は、「価値観・感受性の交換対話」と僕が呼んでいるものだ。これについては前回も少しお話しした。大人がやっても意義深いけど、小中学生でも比較的簡単にできる哲学対話だ。
 具体的には、小説やマンガ、映画、音楽などの、いわば“批評”のことと考えてもらえればいいだろう。
 もっとも、批評と言うと、作品の構成や時代背景、あるいは作者の思想の分析などを思い浮かべる人もいるだろうけど、ここで言う批評はそういったものじゃない。
 その作品の、何が自分の心を打ったのか、あるいは打たなかったのか、そのことをお互いに言葉にして交換し合うのだ。
 この対話には、大きく3つの哲学的な意義がある。
 1つは、「自分自身をより深く知る」という点において。
 この連載の第3回でも言ったように、「汝自らを知れ」はソクラテス以来の哲学の最重要テーマだ。
 でも、僕たちはそもそもどうすれば、自分自身のことを深く知ることができるんだろう? 
 その一番の方法は、自分の価値観や感受性を見つめ、そしてそれを人と交わし合うことによってだと僕は思う。「価値観・感受性の交換対話」は、自分はいったい何者なのかを深く内省させてくれる、つまり深い“自己了解”をもたらしてくれるものなのだ。

 2つめの意義は、上に述べた“自己了解”に加えて、“他者了解”もまた深まるということにある。そしてそれは、“他者尊重”の土台を築くということでもある。
 対話をつづける中で、僕たちは、人それぞれ価値観や感受性が大きく異なっていることを肌で感じる。そしてそのちがいの理由を、対話を通して深く探り合う。
 自分の考えや感じ方は、誰にでも共感されるわけじゃない。当たり前のことだ。でも、そのことをとことん自覚して、自分とは考えのちがった人を尊重できるようになるためには、そうした多様な人たちとのコミュニケーションの経験を積む必要があるのだ。
「価値観・感受性の交換対話」は、そのためのひとつの貴重な経験になるはずだ。

 とは言っても、何でもかんでも「人それぞれ」を言い立てるだけの議論は、哲学対話の名に値しないと僕は考えている。何度も言ってきたように、哲学の本領は、異なる意見の持ち主たちが、何らかの“共通了解”を見出し合う点にこそあるからだ。
「価値感・感受性の交換対話」の3つめの意義は、まさにこの点にこそある。
 それが本当にすぐれた作品であったなら、僕たちは多くの場合、「この作品はたしかにここがすぐれている」という“共通了解”にたどり着くことができる。それはまさに、その作品の“よさ”の「本質」を見出し合うことにほかならない。
 もちろん、万人が感動する作品なんてないだろう。でも、これはぜひ読者のみなさんに経験していただきたいと思うのだけど、それが本当にすぐれた作品である場合、その作品について言葉を交わしているうちに、その“よさ”の本質が浮かび上がってくることがある。人それぞれ好き嫌いはある。でも、たしかにこの点については作品の力を評価しないわけにはいかないと納得し合えるような、そんな本質にたどり着くことがあるのだ。(逆に言うと、一般に名作と言われている作品も、上のような批評をしているうちに、「あれ、これは言うほどの名作じゃないんじゃないか?」と気づくこともある。)

 手塚治虫の『火の鳥』は名作だ。宮崎駿の『となりのトトロ』はすぐれたアニメだ。どれだけ読むのに疲れたとしても、ドストエフスキーの『罪と罰』はホンモノの文学だ。
 これらはいったい、どのような意味において名作なのか? どんなふうにすぐれているのか? なぜホンモノと言えるのか? 要するに、なぜ、そしてどんなふうに僕の心を打つのだろうか? 哲学対話では、そうしたことを誰もが納得できるような言葉に紡いでいくのだ。

『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』

 若干余談ながら、僕の愛する映画に『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』という作品がある。男性から女性への性転換手術に失敗し、股間に怒りの1インチ(アングリーインチ)を残してしまったロックミュージシャン、ヘドウィグの物語だ。
 そのハチャメチャな舞台設定、奇抜なファッション、同性愛、ケバケバしいグラム・ロックの世界……。たぶん、好き嫌いがおそろしく分かれる映画だと思う。
 でも僕は、この作品の“よさ”をちゃんと言葉にできるし、そしてその言葉は、この作品が嫌いな人にも、「なるほど、たしかにその点はすぐれていると言えるね」と、納得してもらえるはずだと信じている。
 男でも女でもない、あるいは男でも女でもあるヘドウィグは、愛をどうやって見つければいいのか分からない。どう求めればいいのか分からない。
「それは男なの? 女なの? 美しい人? セックスは? セックス……それは、切り裂かれた二人をもう一度一つにつなごうとする行為なの?」
 ヘドウィグは作中でそうつぶやく。
“今こことは違う世界”を、ヘドウィグはいつも夢見ずにはいられない。映画の中で彼女は歌う。
「お化粧をして、テープをかけて、棚からカツラを取り出しかぶる。すると突然、わたしは女優ファラ・フォーセットになるの。目が覚めて、また元の自分に戻ってしまうまで」
「ウィッグ・イン・ア・ボックス(Wig in a Box)」という、とても美しい曲だ。
 彼女はたしかに“フツー”の人じゃない。いわば“異形”の人だ。でもそんな彼女の中には、だからこそ、どんな人間にもある“満たされなさ”と、それゆえに内に育まれた“憧れ”がある。『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』は、こんなにも切ない、人間のある普遍性を、見事に表現することに成功した作品なのだ。

 何年か前、大学生たちと、この『ヘドウィグ』について哲学対話(批評)をしたことがあった。案の定、この映画の世界観がまったく理解できないという人も何人かいた。でも上のような話をすると、「たしかにその点についてはすぐれた映画と言えるかもしれない」と、彼らも納得してくれた。
 繰り返すけど、「価値観や感受性の交換対話」は、ただ「人それぞれ」を言い立てるものじゃない。さまざまな感じ方や考え方があってなお、何らかの“共通了解”を見出そうとすること。それが哲学対話の本領なのだ。
「対話する」ことの希望は、まさにここにこそあると僕は考えている。

共通了解志向型対話(超ディベート)

 哲学対話の2つめの方法は、第7回でその方法をくわしく書いた「共通了解志向型対話」(超ディベート)だ。
 これについては、以前に紹介しているのでここでは繰り返さない。ただ、今一度ひと言だけ言っておくとするなら、これもまた、やはり“共通了解”を見出し合うための哲学対話だということだ。
 競技ディベートのように、「あちらとこちら、どちらが論理的に説得的か」と問うて勝敗を決するのではなく、「あちらもこちらも、どちらも納得できる第3のアイデアを考え合う」こと。そんな“共通了解”を力強く見出し合うことにこそ、この哲学対話の意義はあるのだ。

本質観取

 哲学対話の3つめの方法は、「本質観取」とか「本質洞察」とか呼ばれているものだ。そして僕の考えでは、この「本質観取」こそ、哲学的思考の“奥義”の中の“奥義”と言うべきものだ。
 連載第3回で言ったように、科学は、観察や実験を通して“事実”のメカニズムを明らかにする。それに対して、哲学は独自の方法で物事の“本質”を洞察する。
 その独自の方法こそ、「本質観取」と呼ばれるものだ。その意味で、「哲学する」とは「本質観取する」こととほとんど同義だと言っていい。
「本質観取」というのは、以前にも紹介した、20世紀ドイツの哲学者フッサールが創始した現象学の用語だ。でも、現象学が登場するよりずっと前から、歴史上の哲学者たちの哲学には、必ずこのすぐれた本質観取があった。
 プラトンによる「恋」の本質観取、ルソーによる「不幸」と「幸福」の本質観取、ヘーゲルによる「自由」の本質観取、フッサールによる「知覚」の本質観取、ハイデガーによる「人間」の本質観取、バタイユによる「エロティシズム」の本質観取……。どれも目をみはるほどの本質観取だ。

 もっとも、本質観取は誰かによってその方法が十分体系化されているようなものじゃない。フッサールも、その方法についてちょっとは書いているけど、あんまりちゃんとしたものにはなっていない。
 上に挙げた哲学者たちは、いわば名人芸のように本質観取を行ってきたのだ。その意味で、すぐれた本質観取は、哲学的天才にしかできないものと言えるかもしれない。
 でも、その名人芸のコツを、僕たちはいくらか言葉にすることができる。そして僕の考えでは、そのコツをつかんだ上で何人かで「対話」をすれば、哲学的天才たちに勝るとも劣らない、見事な本質観取をやり遂げることもできるのだ。

 本質観取のテーマは、たとえば幸福、友情、不安、希望、教育、芸術、美、恋、愛といった、さまざまな意味や価値にまつわる概念だ。椅子やテレビなどの本質観取は、できないこともないだろうけど、やってもあまり意味はないだろう。
 概念の“本質”が明らかになれば、それをめぐるさまざまな問題もまた力強く解き明かしていくことができる。たとえば「幸福」の本質が分かれば、僕たちはどうすれば幸福を手に入れられるかが分かる。「よい教育」の本質が分かれば、じゃあどうすればそんな教育を実践していけるかもまた、力強く考えていけるようになる。
 だからこそ「本質観取」は、哲学的思考の中で最も重要な、いわば哲学的思考の“本質”と言うべきものなのだ。

 と、そんなわけでその具体的な方法について論じたいのだけど、本連載は残念ながら今回が最終回。
 何だかあざとい感じがしてためらわれるのだけど、続きはこの連載が書籍化されてのお楽しみ、ということにさせていただければと思う。これまでの連載は、大幅な修正と倍量加筆の上、本になる予定です。
 その本では、恋や嫉妬や不安や愛の本質など、さまざまな実例を挙げながら、どうすれば力強い本質観取をしていくことができるか、具体的に紹介したいと考えている。ぜひ、この続きをそちらでお楽しみいただければ幸いだ。

 半年間におよぶ連載、多くの方にお読みいただき本当にありがとうございました。「人気記事」欄に、驚くべきことにこの「はじめての哲学的思考」はいつもランクインしていて、1位から5位までのすべてに同時にランクインしたこともしばしばありました。驚くと同時に、哲学に関心を持たれている方の多さを、改めて感じることができました。
 このささやかな連載が、読者の皆さんの哲学への好奇心を少しでも満たし、またお役に立つことができたなら。
 哲学を愛する者として、こんなに嬉しいことはありません。

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