ちくま学芸文庫

空海の真実を求めて

10月刊行のちくま学芸文庫『空海入門――弘仁のモダニスト』(竹内信夫著)から、「ちくま学芸文庫版へのあとがき」を公開します。

『空海入門 ―― 弘仁のモダニスト』と題して本書が、「ちくま新書」に初めて姿を現したのは、1997年、今から20年ほど前のことでした。フランス文学を専門とする大学教員であった私は、その時52歳になっていました。そして、その後も引き続いて、62歳の定年までの残された10年間、フランス語・フランス文学という専門領域において研究と教育を続けました。実際にも、東京大学前期課程(教養学部の1年生と2年生)においては、フランス語履修の学生さんにはフランス語の基礎を、後期課程(専門学部の3年生と4年生を対象とする専門課程)ではフランス文学とフランス思想に関する講義を担当していました。

そのような、フランスの文学や思想を専門領域として学び、フランスにも留学するというごく普通の道筋を経た後に、フランス語・フランス文学・フランス思想を専門とする大学教員になった私が、日本古代の仏教指導者であった空海という歴史的人物に、どうしたわけで関心を持ち、上記の専門領域を踏み越えて、と言うかその正道を踏み外して、課外の自由選択科目として「空海」という日本古代の思想家についてのセミナーを開講したのかということについては、『空海の思想』(ちくま新書)のあとがきに書いたとおりです。

1200年もの時空を隔てる人物に私が関心を持ったことの結果として、本書が読書界に提供され、幸いなことに版を重ねたことは、私自身にとっても、悪質な夢ではないかと思われます。空海をテーマとする私の小著、いささかの自負を込めて言えば「空海の真実」に迫ることを主眼とするこの小著が、版を重ねたことは私にとっても予想外のことだったのです。

そのことは、『空海の思想』のあとがきにも書きました。私が空海という歴史的人物に出会えたのは、『沙門空海』(筑摩叢書)という一冊の本を手にする機会が、私にも偶然に与えられたからです。

日本歴史に実在した空海と、宗派的説話のヒーローとして登場する「弘法大師」という名の架空の人物とを混同してはなりません。元来、「弘法大師」という称号は、延喜21年(921)、つまりは空海の死後に朝廷から与えられた一種の名誉称号でした。空海は承和2年(835)に亡くなっていますから、自分が「弘法大師」という称号を与えられたことを、空海自身は、もちろんのこと知る由もありません。

しかし、その名誉称号は、中世の初め頃に流行した説話物語に登場する主人公の名として流用されました。元来は実在の空海を称揚するための名誉称号であったものが、いつの間にか、中世に流行した「弘法大師物語」の主人公の名となり、いつの間にか、それが実在の空海を凌駕し、吞み込んでゆきました。

しかし、実在の空海と、中世の「弘法大師物語」の主人公と化した「弘法大師」とは、当然のことながら、まったく次元の異なる存在です。説話物語の主人公である「弘法大師」は、例えれば鉄腕アトムと同じ次元に属する、架空のヒーローなのです。人々が夢見るだけのヒーローに過ぎない「鉄腕アトム」が実在しないのと同じように、説話物語に登場する「弘法大師」も実在してはいません。両者ともに、人々の夢想のなかにのみ、言い換えれば幻想のなかにのみ、生き続けている仮空のヒーローなのです。

そうである以上、空海という実在の人物と、中世の人々の夢に託された「弘法大師」とは、まったく次元の異なる存在なのです。現在の「弘法大師」は今なお、その人々の夢を託されて、ただそれらの人々の夢のなかにのみ生き続けています。しかし、空海研究が目指すものは、中世日本人の夢を託された「弘法大師」の研究ではありません。私たちが目指すべき空海研究は、日本の歴史上に実在した空海その人の、宝亀5年(774)に生まれ、承和2年(835)3月21日に亡くなった人物の真実を追究する研究でなければなりません。

ちくま学芸文庫版のあとがきとして、そのことだけを特に記しておきたいと思います。

2016年10月24日更新

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竹内 信夫(たけうち のぶお)

竹内 信夫

1945年大阪に生まれる。1970年、東京大学卒業、同大学院に進学。1973〜76年、パリ第4大学(ソルボンヌ)留学。現在、東京大学名誉教授。専門はフランスの文学・思想。2013年7月空海学会設立、幹事長を務める。著訳書に『空海の思想』(ちくま新書)、『空海 言葉の輝き』(共著、ピエ・ブックス)、M・パンゲ『自死の日本史』(講談社学術文庫)、『新訳ベルクソン全集』(白水社)など。

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