ちくま文庫

きものに向き合う

ちくま文庫『きもの自在』解説

10月刊行のちくま文庫より、鶴見和子さん(聞き手:藤本和子さん)『きもの自在』に収録の、田中優子さんによる解説「きものに向き合う」を公開します。

 本書は、鶴見和子さんが気軽に書いたり話したりなさったものの集なのだと思うが、私には多くの発見があった。大部分は、私自身が着物の生活の中で感じ、考えてきたことと重なっていた。しかし同時に、はっとするようなことがいくつもあった。

 たとえばアニミズムのことである。二〇一六年の今日、これからはIoT(インターネット・オブ・シングス)の時代だ、と言われている。インターネットがあらゆる「もの」に入り込み、その結果、もの同士が情報レベルでつながっていく社会である。かつてこれを聞いたとき私の脳裏に浮かんだのは、アニミズムだった。すべてのものが命をもち、時には百鬼夜行の「つくも神」のように、この世の道具類が夜になると行列を作って歩き出す。日本人は自然とものとの間を截然と区別することはなく、ものを自然から引き出し、自然はものの母体であり、従ってものの中にはそれがやってきた故郷である自然物の生命が生きていて、さらに、生命同士はつながり合っているのだから、ものは人の魂の入れ物にさえなる、と考えてきたのである。

 だからといって原始的なわけでもない。なぜなら日本の染織の技術は江戸時代に、極めて高いレベルにまで上りつめたからである。ロボットがそうであるように、布は高度な技術とアニミズムとの、両面をその中に持っていた。

 布が運び続けてきた「自然」は「命」でも「神」でも「魂」でもあった。それが形としては織り方や色や文様や刺繡になった。鶴見和子は本書の中で、「きものの中に魂がこもるという思想」が「日本の演劇のなかに連綿として流れつづけている」と、能を事例にして述べている。魂がこもった布に包まれた者は、その魂に憑依され、その魂の持ち主になるのだ。

 この話から、あることに気づかされた。歌舞伎の発生も、同じことだったのではないだろうか? 歌舞伎の発生は、出雲の阿国が男の傾かぶき者「名古屋山三」の格好をして舞台に上がることから始まったのである。その後、歌舞伎は遊女たちに受け渡され、男装の芸能として継続した。そこで私は、死者が舞台に上がること(生と死の交感)と、女性が男装をしたこと(トランス・ジェンダー)が、歌舞伎にとっては重要な要素であると考えていた。

 しかし本書で気がついたことは、きものが魂のメディアだったことだ。阿国は名古屋山三の衣をつけることで、山三に「なった」のではないか。内戦の時代に死んで行った多くの男たちに自ら憑依され、女がかぶき者の生を生きることで歌舞伎は生まれたのかも知れない。私はそれを「男装」と表現してきたが、布に宿った魂を受け継いだのだとすると、歌舞伎は男装の芸能ではなく憑依の芸能である。そして衣という魂の入れ物から始まった、ということになる。

 布は魂の「入れ物」であるが、同時に異文化の出会う「場所」でもあった。そもそもきもののスタイルは漢民族の衣装に由来する。布の技術と文様はペルシャ、中国朝鮮からやってきて、十六世紀になるとヨーロッパの襞やズボンやチョッキ(ジュバン)が入り、江戸時代になるとインドの縞木綿や更紗が加わった。日本の古代から伝承されてきた文様や意匠や襲の色目など、異なる時代の文化も出会う。糸取り、染め、織り、刺繡などさまざまな職能が組み合わされる。布はそのような場所なのである。鶴見和子は、創造性とは、結び付かないと思われていたものを結び合わせて新しいものを創り出すことだ、と書いている。きものは、アジア諸国からヨーロッパ諸国に至るまで、海外のさまざまなものを取り入れて育ってきた、編集と創造の舞台なのである。

 そうであるなら、着る個人は伝統を墨守するのではなく、自らその編集と創造をおこなってもよい。鶴見和子によるその組み合わせの面白さは、本書のきものや帯の写真で堪能できる。私自身も「きものはアジアの衣装」と思っており、やはりサリーの生地できものを仕立て、インドネシアの布と日本の布を組み合わせて、きものをデザインしてもらった。中国の少数民族やラオス、ミャンマー、ベトナム、インドで布を集めてきた。きものへの愛着とは布への愛着であり、それを『布のちから』という本にまとめた。布はそれ自身でパワーを持っており、それは人間が自然に寄せる深く強い憧憬に由来する。

 このようにきものは創造の場所なのだが、面白いことに、対談では「つくづく抑圧的な衣装だと感じてしまいます」という現代の一般的なきもの観を、対談者の言葉として掲載した。「抑圧」の対極には「自由」がある。この対談では鶴見の考えている「自由」が、見事に引き出されている。鶴見はきものを「自由の象徴」であると語る。ご両親が、子供に考えを押しつけるのではなく選ばせる、という教育方針をとっていた結果、「朝から晩まで自分で判断しながら暮らしていました」という日常を送り、「自由とは自律することだとわたしは考えています」という自由観をもつようになったという。きものは「自分で自分を律」することによって着るものであり、きものを着ている理由も「自在に生きるため」なのである。

 この自在感は、きものを特別な日に着る生活ではなく、日常や仕事で着る生活を送っていると、自然にわかってくる。

 流行を追わない。留袖はもっていない。祖母や父母の着物や帯をそのまま、あるいは仕立て直して使っている。身分不相応なものを買わない。死ぬまで着られそうなものが多い。きものは消耗品であって骨董品ではないから、お金をかけない。自分で組み合わせる。このような多くの点を、私は著者・鶴見和子と共有している。しかし、ほとんどの点で、とてもかなわない。それは鶴見和子が、日本舞踊によって鍛えられた身体によって、きものを完全に日常化したことだ。それに比べれば私は半分しか日常化し得ていない。ガンディーにとって一枚の木綿の布が、ただの衣類ではなく生き方と思想の表現だったように、この時代にきものを着続けることは生き方と思想の表現である。

 京都の高齢者施設で対談をしたとき、車いすの鶴見さんは、自分で着られるように改造したきものに、鮮やかなアジアのチョッキを着ていらした。最期まで貫いたその生き方を思い起こすとき、きものへの向き合い方が、また深くなる。

 

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