ちくま文庫

江戸の食文化の集大成
ちくま文庫『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』 はじめに

9月のちくま文庫『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』より「はじめに」を公開します。和歌山藩の勤番侍・酒井伴四郎が残した几帳面な日記から、当時の江戸の「食」を紙上再現!

 「鮨は江戸に限る。しかも安い!」(『江戸自慢』)
 幕末の江戸を生きたある医師は、このような言葉を残しています。当時の江戸では、鮨は元より天ぷらやうなぎの蒲焼をはじめとして、美味しいものをいたる所で手軽に食べることが出来ました。
 この幕末という時代は、二百六十年かけて育まれてきた江戸の食文化が豊かな実りを見せる一方、新しい時代への変化も見られます。例えば牛鍋は明治の文明開化を代表する食べ物ですが、豚をはじめ肉食は、幕末にはすでに武士や庶民の間で相当広まっていたのです。
 本書では、幕末江戸の人々がどのような料理を作り、またどのように外食を楽しんでいたのかをご紹介いたします。その狂言回しとして、一人の下級武士に登場してもらいました。その人の名は酒井伴四郎(さかい・ばんしろう)、紀州和歌山藩の下級武士です。
 彼は、桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺された約三か月後、江戸藩邸勤務を命ぜられています。何かと騒がしい世相の江戸に、家族を和歌山に残しての単身赴任でした。伴四郎はマメな性格で、日々の出来事を事細かに日記に記しています。そこには、はじめての江戸生活の驚きが素直につづられ、仕事や藩士同士の付き合いなど、彼の日常
生活が生き生きと描かれています。また、日々の食事や江戸の名物、そばや鍋物などの外食についても、かなり細かく書かれているのです。
 彼ら江戸勤番の下級武士の食事は自炊、いかに安く美味しい料理を作るかという工夫が凝らされています。彼らの食生活は、当時の江戸の人々と、さほど変わりはないようで、伴四郎の食生活を通して、幕末江戸の庶民の食生活も見えてきます。
 食生活だけでなく、勤番武士達の楽しみについても、なるべく触れるようにしました。例えば湯屋の二階で、仲間や湯屋の主人たちと深夜までくり広げられた宴会。また、横浜への小旅行では、さながら異国といった風情を楽しんでいます。そして、浅草や愛宕山など名所見物にも精を出しています。異人見物などは、いかにも幕末らしい話です。しかし、伴四郎の日記からは、当時の政治状況に対する彼の意見はあまり見えてきません。伴四郎なりに感慨や思いはあったのでしょうが、なにやら難しい政治向きのことは、どこ吹く風というようにも見受けられます。
 では、伴四郎と一緒に、幕末の江戸を味わっていただきたいと思います。

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