PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

ルール人間
奇妙なできごと・3

PR誌「ちくま」10月号より村田沙耶香さんのエッセイを掲載します。

 私は、大学生くらいまでは、「きまりごと」は守らなくてはいけない、という人間だった。夜中に車が一台も通ってなくても、赤信号は絶対に渡らない。駅のホームのゴミ箱に燃えるゴミと燃えないゴミがごっちゃになって捨てられているのを見て、ゴミ箱を開けて勝手に仕分けを始めたこともあった(かえって迷惑行為だったような気もしている)。
「きまりごと」をきちんと守らないと、ちゃんとした人間になることができないように感じていた。強迫観念に近かったように思う。
 洋服の試着室でも、私はルールを真面目に守っていた。男性の試着室にあるかどうかわからないが、女性の試着室にはフェイスカバーが置いてある。今では店員さんに渡されることも多いが、大学生の時によく行っていたお店は、試着室の利用が自由で、カーテンの中に入ると、ぽんと、ティッシュの様なフェイスカバーの箱が置いてあった。
「試着の際には、フェイスカバーを必ずご利用ください」
 試着室の鏡にはこう貼り紙がしてあった。なので、私は必ずフェイスカバーをつけて試着をしていた。フェイスカバーはひらひらとした薄い紙でできていて、それをかぶるとスカートのチャックの位置やジーンズの前と後ろがよくわからなくなってしまう。自分の服を脱ぐときにもフェイスカバーをつけていたので、いつも着替えに時間がかかった。けれど仕方がなかった。そういう「きまり」だと思っていたからだ。
 ある日、私はそのお店で、同い年くらいの女性客が二人、試着室のカーテンを開けたまま、楽しそうにコートを着たり脱いだりしているのを見た。
 フェイスカバーをつけていない! 私は衝撃を受けた。なんてマナーのなっていない人なのだろうと思った。
 しかし次の瞬間、そもそも、なんでフェイスカバーをつけなくてはいけないのだろうか? とはたと考えた。私はそれすらも考えずに、とにかく鏡に貼られている命令に従っていただけだったのだ。
 調べた結果、化粧が洋服につかないためにフェイスカバーをつけなくてはいけないらしい、ということを知った。それならば、パンツやスカートの試着でもかぶっていた私は、むしろ資源を無駄にしていたのでは……とショックを受けた。フェイスカバーはすごく高級そうな紙でできているので、今まで、あれを何枚も無駄遣いしてしまっていたのだと思うと、気が遠くなった。
 とにかくルールを守ればいいというわけではない、と思ったのはこの出来事がきっかけだ。ルールやマナーは大切だが、何も考えずにそれに頼ると、変な人間になってしまう。変なことは悪いことではないので、別になってもいいのだが、ルールに甘えて思考停止することは、楽だけれど危険なことだと、そのときから思うようになったのだ。
 今も、私は車が一台も来なくても、夜中に赤信号を渡るときには躊躇してしまう。上手に人間をやることは難しい。しかし、夜中に赤い光を見つめながらぽつんと立ち尽くしている自分をヘンテコな動物だと思えるようになったことには感謝している。少なくとも、自分が信じるルールで誰かを裁くことをしなくなったことは、自分にとってよい変化だったなあ、と思っている。

(むらた・さやか 小説家)

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