資本主義の〈その先〉に

第22回 資本主義の思弁的同一性 part2

2 幸福の神義論への反転

 

急激な反転

 

 幸福の神義論やそれに規定されている社会建設に注目しているのは、ここに、急激な逆説的転回を見なくてはならないからだ。どんな転回か。苦難の神義論の極限から幸福の神義論の極限への反転である。

 幸福の神義論の方だけを見ていると、その背後にある逆説を見落とすことになる。幸福の神義論は、ごく自然な発想に基づいており、人を特定の教義や行動に導くには都合のよい論理になっている。それは、善きこと、教義に従ったことをなせば、必ず幸福や快楽によって報われる、と説く。そして、逆に、ある人が恵まれており、幸福であるということは、その人が宗教的に見て正しく、善きことを行ってきたことの結果であり、またその証拠である、とも説く。

 これこそ、人を信仰に導く、唯一の論法であるようにすら思えてくる。もし教義に則って生活したり、神を信じたりしても、それが幸福によって報われることがないのならば、どうして、人はその教義に従い、神を信仰するのか。人を信仰に導きたければ、その信仰をもてば報われ、幸福になる、と説かないわけにはいかないのではあるまいか。実際、ほとんどの宗教が、幸福の神義論の範疇に含まれる。

 たとえば、仏教の因果応報の思想も、幸福の神義論の一種である。善業は善果によって報われる、と説くからである。もっとも、仏教やインド思想の場合には、善果(幸福な結果)が出るのは、今生とは限らない。輪廻転生を通じてこそ、因果応報は貫かれるのであって、善果の大半は転生した後の生、つまり後生において獲得される。輪廻転生という設定については、むしろ、次のように考えるほうが妥当かもしれない。「幸福の神義論」の論理をどうしても保持するためにこそ、輪廻転生が前提に置かれることになったのだ、と。輪廻転生があれば、一見、因果応報が否定されているような現象についても、前世や後世まで含むより包括的な視野の中で、因果応報が維持されていると言うことができるからだ(7)

 このように、幸福の神義論は、自然に思いつく――あるいは思いたくなる――着想なので、これがアメリカにおいて流行しているのを見たとき、ここに、ひねりのない、素朴な思想を見てしまう。ごく当たり前の感性が作用していると考えてしまう。それを、少しばかり大げさな「ご利益宗教」のようなものと見てしまうのだ。

 あるいはまた、アメリカにユートピアが流行した理由についても、ごく平板な説明を与えてしまう。たとえば、新大陸の大半が人跡未踏の処女地であって(8)、文明がおよんでいない自由な空間だったから、ユートピアが盛んに建設されたのだろう、等と。だが、これは、「アメリカ合衆国」という社会が未曾有の繁栄を得た後から振り返ったことで生ずる、遠近法的な錯覚である。そこに、繁栄が約束された土地がたくさん余っていたように見えてしまうのだ。

 こうした説明が不十分なのは、次のように問い返してみるとすぐにわかる。それならば、どうして、ラテン・アメリカでは同じことが起きなかったのか。どうして、ラテン・アメリカには、合衆国にあるような、多数のユートピア的構想が現れなかったのか。どうして、ラテン・アメリカは、「幸福の神義論」に導かれた「成功」を――合衆国のようには――享受することがなかったのか。

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 結局、それは、中南米に入植した者と北米のニューイングランドを拠点にして入植地を広げていった者との、何らかの性格の違いに原因を求めるほかない。最も重要なポイントは、後者は、主として、厳格なプロテスタント、いわゆるピューリタンだった、ということである。この事実をあらためて見直したとき、われわれは、アメリカの「幸福の神義論」の背景に隠れている、不可解な逆説に気づくことになる。

 なぜならば、プロテスタンティズム、とりわけその究極の純粋型である予定説(のカルヴァニスム)は、苦難の神義論の徹底した形態だからである。それは、論理的に考えて最も純化された、苦難の神義論であろう。苦難の神義論が直面している問いは、どうして善き人、正しき人が(ときに)不幸になるのか、神が創った世界に、どうしてこのような意味での悪が存在しているのか、ということである。この問いを、幸福の神義論に妥協することで解消することなく、問いとしてキープするところに、プロテスタンティズムが生まれた、と言ってもよい。

 カトリックには、幸福の神義論の残滓がはっきりとある。たとえば、贖宥状を買うとか、告解の制度とかが、それである。カトリックにおいては、それらのことが、善行としてカウントされ、救済の確率を高めるものと解釈された。周知のように、ルターは、これを厳しく批判した。苦難の神義論のより徹底したヴァージョンが、つまりルター派をこえて純化したヴァージョンこそが、前章で検討した予定説にほかならない。

 予定説へと収束していくプロテスタンティズムの観念の背後には、神の無能性への不安がある、という仮説を提起しておいた(連載19回)。神の無能性の地上における反映が、理不尽な不幸や不合理な(と見える)悪である。予定説は、神の無能性を全能性へと反転させる、驚くべき論理である。予定説に依拠すれば、神の無能性の証拠に見えることは、ことごとく否定され、むしろ、それを神の全能性の証拠として扱うことができる。

 要するに、ピューリタンは、極限までつきつめられた苦難の神義論である。だが、ピューリタニズムを「建国」の精神とし、今日まで維持しているアメリカ社会で、逆に、幸福の神義論によってこそ、人々の態度や基本的な行動が規定されているように見える。われわれは、一見、素朴に見える、アメリカの「幸福の神義論」の背後に、このような屈折を見なくてはならない。それは、苦難の神義論に媒介された、幸福の神義論なのだ。

 問題は、どうして、苦難の神義論が、正反対の幸福の神義論へと反転したのか、である。一方の極限から他方の極限へのこの短絡的な移行を説明すること、これが、資本主義の精神への転回を理解する上での鍵となる。

 

(1) 森本あんり『反知性主義』新潮選書、2015年、19-20頁。

(2) 「伝説」では、ウィンスロップは、「アーベラ号」の船上で、上陸を目前にひかえた人々を励まし、説教したことになっている。しかし、近年の実証研究で、イギリスの港町サウザンプトンで説教はなされたことが明らかになった。どちらにせよ、情況は劇的である。森本、前掲書、22頁。

(3) 倉塚平『ユートピアと性――オナイダ・コミュニティの複合婚実験』中公文庫、2015年、第1章。

(4) Robert S. Fogarty ed. Dictionary of American Communal and Utopian History, Greenwood, 1980. 

(5) Robert Nozik, Anarchy, State and Utopia, Basic Books, 1974.

(6)だが、そうだとすると、この数十年間の新しいユートピアの建設?―実際の社会の建設だけではなく想像力の上での生産も含む―?の目立った減少は、「アメリカ」に象徴される現代社会の、非常に深いレベルでの変容の徴候である、と考えなくてはなるまい。フレドリック・ジェイムソンは、少なくとも、想像力あふれるフィクションについては、アーネスト・カレンバックの『エコトピア』(1975)とともにユートピア生産は終わった、と言いたいくらいだ、と述べている。この小説が出たのは、レーガンの就任の数年前である。ジェイムソンが、1980年代のレーガン=サッチャーの時代の「規制緩和」が、ユートピアの息の根を止めたのではないか、と推測していることも興味深い(Fredric Jameson, An American Utopia, Verso, 2016)。そうだとすると、レーガンの語っていることは、最後のユートピアであり、(意識することなく)ユートピアを終わらせたユートピアだということになる。このユートピア生産の停止ということは、われわれの考察にとっても重要なことなので、ここに銘記しておくが、これが主題になるのは先のことである。

(7) 仏教に関していえば、究極の善果は、もちろん、覚りであり、輪廻転生そのものからの離脱である。

(8) もちろん、これは、ネイティヴ・アメリカンを人間のうちにカウントしていないことの結果である。

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