オトナノオンナ

第7回 ヲトメノイノリ(中編)

おとなびた幼稚園児がいる、少女のような老婆がいる……。さまざまな年代の女性の仕事、生活、恋愛、を丁寧に追いながらそれぞれの「オトナノオンナ」を描く、一話読み切り小説。 

 

 さて、ここから千住のぐうたらピアニスト小川ゆりこ先生と、佃煮やのおかみさん、橋本潮子さんの猛稽古となるわけでございますが、そのまえに、潮子さんの悲願「乙女の祈り」、ちょっと調べてまいりました。
 作曲なさったのは、テクラ・ボンダジェフスカ=バラノフスカさん、ポーランドの女流作曲家・ピアニストでございまして、1834年、ポーランドのお生まれです。このころ日本は、天保5年、江戸幕府は11代将軍家斉の時代です。「乙女の祈り」は、1856年に首都ワルシャワで初版、1859 年にフランスのパリで出版されるや、爆発的な人気となりました。その後、楽譜は初心者用のピアノ練習曲として、世界中に広まりました。ボンダジャフスカさんは、その後も同様のサロン風のピアノ曲を30 曲あまり発表されましたが、現在演奏されているのはこの曲きりとのこと。お気の毒に病弱な方だったようで、1861 年、27歳の若さでお亡くなりになられています。
 その生涯にも、若くして世をさった潮子さんの姉のおもかげが、重なるようでございまして……。
 ゆりこ先生、棚からうすっぺらい紙を出してまいりました。いつものがさつはなりをひそめ、ピアノのふたをそーっとあけます。
「弾いてみますから、きいててください」
 本人は寝起きにパジャマのぼさぼさ頭でございますが、そこはさすがにかつてのコンクール連勝の猛者でございますから、楽譜をひろげて、みぎにぐるり、ひだりにぐるり、左右にぼきぼきと首をまわすと、きつねに憑かれたように目もすわる。
 たーん、ったたーん、ったたーん、ったたーん、ったたーん、ったーん、ったたーん、ったたーん、ドゥルルルン、ドゥラララーン。
 みなさまにもおなじみの、前奏でございます。両手の親指と小指で黒鍵白鍵あいまぜながら、変ホ長調の1オクターブ、軽やかに1音ずつ下がってくるごとに、さーっと空気が洗われていく。千住のちいさなピアノ教室は、さながらバラが咲き誇るベルサイユのプチ・トリアノン。髪をポンパドールに結いあげた貴婦人たちのほほえみ、くすくす笑いとお菓子の甘い香りにつつまれるようでございます。
 潮子さんは、胸のまえで手を組み、目にいっぱい涙をためて、一挙一動も逃すまいとまばたきを忘れて見つめております。ゆりこさんのほうは、まじめに弾くのはもう何年ぶりかのことでございますし、事情をきけば、一音たりともおろそかにはできません。おのずと額に汗のにじむ、迫真の演奏となっていく。ぐうたら娘が久しぶりにまともに弾いておりますので、母親は、安堵のため息。
 タララたたた、たたた、たた、た、た、た、た、ドゥルルルルーン。
 最後の全音符を弾ききり、ペダルの余韻が静かに消えてまいります。
 これが、乙女の祈りです、どうですか。ふりむき、潮子さんに楽譜をさしだします。
「ご覧になっていておわかりと思いますが、この曲の難所は、やはりこの手のオクターブです。あと、腕の交差もやっかいです。曲の半分以上、手はひろげっぱなし。これは、はじめてピアノにさわる方には、かなりむずかしいと思います。おかみさん、いえ潮子さんは、お手もちいさめですよね。そこで、どうでしょう。もし、この曲だけ弾けるようになればいいなら、オクターブをはずして弾けるように音階も弾きやすくかえて、編曲してしまいましょう」
 わが子ながら、それは名案。母親が口をはさもうとしたところ、おかみさんは、きっぱり断ります。
「いいえ、先生。それでは姉の供養になりません。姉も、手をずっとひろげるから大変なのよと申しておりました。ですが、大変だけど、指をはずさないできれいに弾けると、ほんとうに嬉しいの、それはそれは幸せそうな顔でほほえんでおりました。初心者のくせに、生意気を申し上げますが、どうしても、姉のその気もちをくみたいのでございます」
「そうですか……。わかりました。それでこそ、老舗のおかみさんですね。そのお覚悟でしたら、こちらも手加減はいたしません。幸い、手が小さいころにこの曲を習ってましたから、鍛え方は心得ています」
 あんたまさか、あれを……、母親がいいかけると、黙ってて。娘が遮ります。
「それでは、ただいまからは、年の差については無礼講にさせていただきます。母さんも、レッスンには口をはさまないで、邪魔してないで、あっちにいってて」
 心配顔の母親をぎゅうっと廊下に追いだしまして、ゆりこ先生は、潮子さんに手足の指のマッサージ、ストレッチ方法から教え始めました。右と左のじゃんけんやら、ハンカチを足の指でつかむやら。
「体操はこんなものです。マッサージは、朝晩欠かさないで下さい。あとは毎日、オクターブでおさえてピアノのはしからはしまでを十往復、これは左右交互にやって、最後に両手を一緒にやってください」
「わかりました」
 それからふたりは額をくっつけて、音符の種類、読み方の講義になりましたが、なにせ御歳七十六の生徒さんですから、お子さんのように頭がまっさらではございません。潮子さん、いただいた楽譜をしきりに指でなぞったり、はじいております。
「潮子さん、どうしました。ちいさな音符がくっついてますから、見づらいでしょうか、拡大コピーをしておきましょう」
 おかみさんは鼻にずりさがった眼鏡をなおしながら、いえいえ大丈夫です、そうしてくすくす笑いはじめました。
「ゆりこ先生、長年の習いっていうのは、おそろしいものでございますねえ。ドレミ、と数えているつもりが、音符がそろばんの玉に見えてきてつい、ひい、ふう、み、とはじいてしまいました。それにしても、おたまじゃくしは、いろんな種類がございますねえ。四分、八分、点がついたり、飾りがついたり、いっこうに蛙にならないみたいで。」
「ははは、たしかに。この曲は、三連符も六連符もあって、その先のお寺の池みたいなもんです。まあ、そういうおたまじゃくしを飼いならす練習をかねてるんですけど、やっかいな大行進ですよねえ」
「先生、この楽譜のひとますは、ええと」
「一小節、です」
「はい、この小節って、三枚で、全部でいかほどございますか」
「ええと、いくつかなあ」
 ゆりこ先生も長年弾いてまいりましたが、すぐには答えられません。そこで、これも勉強です、いっしょに数えましょう。CDをかけて、ふたりでひとーつ、ふたーつと、楽譜を指さしていきます。反復記号というのもありまして、一部くりかえしがあったりと、ゆきつもどりつ数えてまいります。そうして、タタタ、タタタ、タ、タタ、タタ、タ、ドゥララッラーン。
「あれ、なんと」
「これは、また」
 ふたりは、目をまるくして顔を見あわせます。
 乙女の祈り、全百八小節、お釈迦さまのおっしゃる、人間の煩悩の数とぴたりおなじでございました。
「先生」
「はい」
「おわかりのことと存じますが、不器用な息子と孫のおおもとでございますし、頭もかちかちになっております。いっぺんにこの曲をおさらいするのは、とうてい無理なこととわかりました」
「やっぱり、しんどいですよねえ」
「はい……。ですが、この楽譜におじけづいてあきらめたのでは、末っ子の甘えんぼうと、あちらで姉どころか、親兄弟、舅姑、渡ったばかりの主人にも叱られてしまいます。さいわい、嫁ぎましてから舅に連れられて剣道を習っておりました。舅にも道場の先生にも、やると決めたことは毎日つづけなくてはいけないと教わりまして、舅が亡くなって、先生も亡くなられてからも、毎日竹刀の素振り二百回はかかさず続けております」
 両手のひらをひろげると、たしかにかたーい、豆があります。
「はあ、潮子さん、ずーっとお店にいるように見えてましたが、ものすごく多才なんですねえ」
「いえいえ、めっそうもありません。まわりにいわれて、やったことばかりで、なにひとつ役にたっておりませんが、長く続けることは苦になりません。あさりしじみの殻むきなんて、一日中むいても飽きません。おそらく、そのしつこさが、佃煮やにむいていたんだと思います。」
 そこで、先生。潮子さんは、ひざ詰め談判とゆりこさんに迫ります。
「先生、毎日、一小節だけ、たたきこんでいただけませんでしょうか。毎日かならず、前の日のおさらいをしてつなげてから、お稽古にまいります」
「といいますと、のべで、百八日かかる算段で」
 はい。
「そのあいだ、一日も休まずに」
 先生にご苦労をおかけするのは、ほんとうに申し訳ないことですが。おかみさんは、またふかぶかと頭をさげる。
 さて、困りました。なんといっても練習嫌いということでは、東京どころか海外にも名のとどろいている演奏家でございます。うーむ、うなりつつ譜面をにらみ、なにか思いついたようで、にやり笑う。きゅうに猫なで声で、小首をかしげます。
「あのですね、潮子さん。この楽符、ここと、ここと、ええと、全部で六か所、反復記号がついています。このくり返しのところは、ご自宅でおさらいをなさると、復習にもなってとってもいいのではないかと。どうでしょう」
「いえいえ先生、とんでもない。僭越ながら、本当のお稽古は、その反復のところこそ叩きこんでいただかなくては。おなじ音だからとおなじことをくり返したのでは、退屈な演奏になるでしょう、そこが人間の心の落とし穴、むずかしいところでしょう。百八ますにこめた乙女のこころもち、ひとつでもおろそかにしたら供養になりません」
 えらい、よくいった。
 ばーんと部屋の扉があきました。まったくもって、そのとおりですわ。廊下できいておりましたまつ子さんが、つんのめるように入ってまいりました。
「おかみさん、よくぞおっしゃってくださいました。まあ、なんとありがたい。この特別レッスン、まさに神様仏様の思し召しですわ。毎日一小節、すばらしい。煩悩を滅却していけば、煩悩まみれのぼんくら娘の頭にも、ごーんと除夜の鐘が鳴るってものですわよ。どうぞ、びしびしと鍛えてやってくださいませね」
「いえいえ、鍛えていただくのはこちらでございます。それでは、先生、さっそく本日の、第一小節、よろしくご伝授、お願い申し上げます」
 楽譜を捧げ持ちまして、潮子さん、またふかぶかと頭をさげました。

 さて、ところかわりまして、こちらは佃煮やの佃甚。
 下町めぐりに居酒屋散歩、街道ぞいのにぎやかな店みせをのぞき、そぞろ歩きで大川へ。かつては、松尾芭蕉がここから奥の細道へと船出したという、千住大橋のたもとでございます。さすがに創業二八〇年、老舗中の老舗、店がまえも昔ながらの木造、建物ごと佃煮にしちまったような、つやつや、てりてりの飴色でございます。のれんをくぐりますと、ふぁーんと醤油のいい香り、ぱりっと白衣を着て帳場にいるのは、番頭さんと、若旦那。おくでおおきなお尻がちらり見えかくれ、これがどうやら若女将。
 店先のほうにもどってまいりますと、ガラスの棚のうえ、秤をまんなかに据えておりまして、大鉢がずらりとならべてあります。あさり、しじみ、はぜ、小エビ、お豆、なつかしいイナゴは、いまでは高級品でございます。いいですねえ、昆布の山椒煮なんかで、きゅっと一杯。
 棚のむこうには、やっぱり白衣のおばあさん、なにが気に入らないのか、眉を八文字によせて、はしからはしまでをつついては戻り、つついては戻り、ゆらゆら動いております。
 ……おかみさん、おかみさん。
 番頭さんの声もきこえない、まったく、こころここにあらず。とうとうしびれをきらした若旦那がたちあがり、おおきな声で呼びまして。
「母さん、酒井さんが呼んでますよっ」
「あら、ごめんなさい、なんだったかしら」
「はい、いま商店街の敬老部、マルトヨクリーニングの旦那さんからお電話ありまして、忘年会の余興の相談は、明日の3時からでいいですかとのことで」
「あら、3時はだめよ、うかがえません。お稽古の時間だもの。酒井さんも、いい加減に覚えてくださいな。あと84日間は、3時から5時までは留守をします。カレンダーにもしっかり書いてあるでしょう」
「ああ、そうでしたね、ついうっかり、申し訳ありませんでした」
「いいんですよ、酒井さん、あなたが謝ることはありません。店のいちばん忙しい時間に、お百度参りなんてするひとのほうがいけないんです。まったく、年寄りの冷や水なんて、許すんじゃなかった」
「鮎太郎、そんなこといったって、仕方ないじゃありませんか。お忙しい先生に、無理にお願いしているんですから」
「母さんは、先生先生っていいますけどね。そのえらい先生っていうのは、あの飲んだくれで、なまけもののゆりこじゃないですか。わたしは、むかしっからあいつのことは、よーく知ってるんです。きのうだって、配達のまえに見かけましたよ、あいつときたら、母さんが帰ってくるよりはやく、スーパー・ナイスのまえで缶チューハイあけて、焼き鳥の串にぎりしめてやがりましたよ。ほんとうにみっともないったらありゃしない。わたしは大橋小学校、大橋中学校の同窓会長として、はずかしいやら情けないやら、目をふせて車を遠まわりさせて帰って来たんです。ゆりこのおかげで、ガソリンの無駄遣いまでさせられた」
「ゆりこ先生は、芸術家なんだから、あんたみたいな凡人にはわからない苦悩があるのよ。飲んだくれを装っていても、きっとこころのなかでは、ベートーヴェンみたいな顔して生きてらっしゃるのよ」
「あいつのどこがベートーベンですか。いや、ぜんぜん装ってませんって、あれがあいつの真の姿ですって」
「ちょっと、鮎太郎、それ以上は許しませんよ。まったくなんです、自分の子どもがお世話になって、母親までお世話になっている先生を悪くいうなんて、お門違いもはなはなだしい。小言をいうのは、あんたの娘のエビ子でしょう。まったく練習もしないで、ぼけーっとお稽古にいくもんだから、恥ずかしくって肩身がせまいのよ。毎日おわびを申し上げるこっちの身にもなってちょうだい」
 娘の名まえをきいては黙っていられません。奥からどーんと若女将さんが出てまいりました。
「お母さん、お言葉を返すようですけど、かわいそうに、エビ子は、ピアノをおばあちゃんにとられて練習できないって、泣いておりましたわ」
「嘘をおいいなさい、ピアノが弾けなくたって、電子キーボードがあるじゃないの。幸か不幸か、あの子はまだバイエルなんだから、あれでじゅうぶんですよ」
「ですけどお母さん、あのお部屋には仏壇があって、亡くなったご先祖さまの写真がずらーっとならんでます。怖くて弾けないっていっています。」
「まあ、あなた、鯉子さん、なんてばちあたりなことを」
ちょっと小言をいうはずが、嫁と姑のくちげんかが燃えあがる。息子の鮎太郎は尻ごみしつつ、嫁の肩を持っておかないと、あとでどんな仕打ちを受けるかわかりません。
「とにかく、その手。それだけは、店ではやめてくださいよ、朝から晩までとんとんとんとん叩かれると、店の人間も気が散ってしかたない」
 潮子さんの手を見ますと、親指と小指のあいだに、小枝をわたして、ぐるぐるとくくりつけておりました。
「なにいってるの、これはね、指をひろげるためのオクターブ養成ギプスなんですよ。先生が、焼き鳥やさんの串をながめるうちに、思いついた秘密兵器なんだから、はずすわけにはいきません」
「それから、商品棚の目もりも、みっともないったらない」
「これは、鍵盤のかわりよ。お客様をぼんやり待ってるより、忙しそうに見えてずーっといいじゃないの。なんなの、あなたたち、よってたかって、ひとを悪者にして、ほんの三か月ほどのことに目くじらたてて。それがこの店を継ぐ人間の器ですか。あなたたちがそんなに文句をいうなら、こちらはいつ引退しても結構なのよ。酒井さんも、店のみんなもしっかりやってくれるんだし、あとは、帳簿とごひいきさまの挨拶まわり。あなたたちが面倒でやっていないことをやればいいだけの話です。ご近所の同い年のひとは、もうみなさんご隠居ですよ。お父さんなんて、もうお墓でぐうぐう寝ていて、うらやましいぐらいですよ。まったく鮎太郎は外面ばっかりいいいんだから、なにが同窓会長よ、いつまでも若旦那って呼ばれて、なさけない。鯉子さんも、わたしが店にいなかったら、ママ友とのランチカラオケ、お断りするようになるのよ。それでかまわないんですね」
 四十もなかばの若夫婦は、ぐうの音も出ない、番頭さんはおろおろ、店のものたちも心配顔でなりゆきを見ております。そこに、ただいまー。孫娘のエビ子が、ランドセルをしょって帰ってまいりました。
「あら、エビちゃん、おかえり。いいところに帰ってきてくれた」
「なあに、おばあちゃん。お小遣いくれるの」
「そうね、正直にお返事したら、あげましょう。あんた、きょうは何時から黒いほうのピアノ弾くの」
「えー、ピアノか―。うーんとねえ、それは想定外の質問だなあ。えーとねえ。これから遊びに行くことにしちゃったんだ。だから、遊んで帰ってきて、そうなると、ごはん食べるでしょう、テレビも見ないといけないし、ゲームもきりをつけないといけないし、お風呂やさんにもいくしなあ」
「あらあら、忙しいわねえ。じゃあ、おばあちゃんがそのあいだに、エビちゃんのかわりに黒いピアノ弾いといてあげようか。あんたは、お風呂から帰ったら、ゆっくりやればいいわよ。あのお部屋は、防音がばっちりになったんだし。」
「え、ほんと、やった、おばあちゃんは、ママと違って話がわかるわ。え、ほんとにお小遣いくれるの、ありがとう。この世でいちばん好きなのは、おばあちゃん。おばあちゃんが天国にいっても、ちゃんとお墓参りいくから、安心して寝てていいよ」
 親ゆずりでなにより遊ぶのが大好きな孫娘、ランドセルを放り投げて駆けだしていきました。
 ……なあ、エビ子には、ピアノは無理じゃないかな。
 ……ええ、お稽古、やめさせます。
 夫婦は小声で話しておりますと、おかみさんは意気揚々と時計をみあげます。
「エビ子のことは、あなたたちで決めてちょうだい。あら、もうこんな時間。それじゃあ、みなさん、お稽古にいかせていただきますよ」

 いっぽう、こちら小川家では母親のまつ子さんがそろそろゆりこを起こそうと、階段にやってまいりました。腰に手をあて、大声で。
 ……こらーっ、ゆりこーっ、起きろーっ、降りてこーいっ。
「ちょっと、やめてよ、みっともない。たてこもり犯がいるって、ご近所さんが思ったらどうするのよ」
「ああ、びっくりした。起きてるんならちゃんと挨拶ぐらいしに来なさいよ、そんなふうにひとのうしろにのそっと立ったりして。お父さんなら、ショックで死んじゃうわよ」
 ゆりこ、いつものようにいい返しません。うかぬ顔で廊下のおくへ、扉をあけると、ふらふらとピアノのまえに立つ。ふたをあけて、ぽーんと鍵盤をひとつ。
「どうしたの、おなかでもこわしたの。あんたが自分で起きてくるなんて、洗濯とりこもう。雨が降ってくる。あと30分もしたら潮子さんがお見えになるんだから、お茶漬けでも食べときなさいっていおうと思ったけど……。いやだ。まさか、二日酔いじゃないでしょうねえ」
「違うわよ。まったくほんとうに、母さんは会長やめてから元気がありあまって、うらやましいわ」
「えぇえぇ、おかげさまで、わたくし小川まつ子七十歳、この元気を買われて、この十月一日から、敬老会婦人部長を務めさせていただくことになりましたよ」
「うわ、まじで。みっともない」
「なによ、敬老会では新入りの婦人部長は初めてなんだから、大変名誉なことじゃないの」
「まあ、そういわれれば、そうかもね。ピアニストだって、母さんくらいの押し出しがなかったら、名誉どころかこんなになっちゃうもんだもの」
「ゆりこ、あんたは自分が好きでだらけてるんでしょう。それを親のせいにしないでちょうだい」
 いいかえしてくると身構えていますと、ほんとにそうよねえ。ゆりこ、ぽろりと涙をこぼします。
「ちょっと、ほんとに具合悪いのね、こまったわねえ。うしろのヤブキタじゃない、ヤマキタ先生のところにいってきなさい。潮子さんとはまだ幾十日もあるんでしょう、休めないんだからね」
「あと、74日……。」
 あんなヤブ医者じゃ、なおんないのよっ。なにを思ったか、両手で、ばーんとピアノをたたきました。
「だって、潮子さん、すごいんだもん。ぜんぜん、なんにも弾けないのに、もう自分の音楽がしっかりわかってるの。こっちは三十年もかかって、外国までいってもつかめなかったのに。最初の一小節でぞーっとした。逃げ出したくなった。うまいとか、下手とかじゃなくて、この音しかないっていう音。やさしくて、きれいで、強くて。なんでだろうなんでだろうって、あせっているうちに、毎日毎日、ものすごくゆっくり弾くんだけど、一小節ずつ、それが増えていく。毎日毎日部屋のなかにこころのきれいな象が増えていくみたい。ユリコのピアノは唄わない、ユリコには音楽がないって外国にいってまでずっといわれて、でも弾くしかなくて。そんなふうにやってきた人間が、あんなひと教えていいのかって、もう苦しくなってきた。」
 黒いグランドピアノに、ぼさぼさの、ぐじゃぐじゃがうつっています。中学生のときにコンクールで優勝して、親戚一同から買っていただいた、ゆりこの親友といっていいピアノです。
「潮子さんが弾いてると、このピアノ、よろこぶ。はじめてみたいに機嫌よく、うたってる。ピアノが音を出したくて、待ちかねている。さすがに、おちこんだ」
 パジャマ姿ではなみずたらして泣く娘、母親のほうも、めずらしく口をはさまず、じっときき終える。そうでしょう。そうでしょう。深くうなずく。
「そんなの、あたりまえでしょう。いいとしして、ほんとに寝ぼけたこといって。潮子さんっていうひとはね、ずうーっと真剣に、生きるべき道を歩いてきたひとですよ。その道が、いまではしっかり、まっすぐに見えて、ふりかえるときが来ているの。あんたみたいに、芸術だ表現だってかっこいいこといって、目の前のやるべきことから逃げてばっかりの弱虫じゃないの。いいですか、自分の音楽を作るっていうのは、自分のまんまでしょうがないけど、それでもやるしかないって腹をくくることでしょう。あんたは、ショパンでもベートーベンでもないんだから、焼き鳥の串しごいて、缶チューハイぷしゅーとあけてごくご飲んで幸せなら、その幸せを心底わからなくちゃいけない。ひとに教えられることがあるなら、まず自分に嘘偽りなく生きていなきゃ、伝わらない。お父さんもお母さんも、いままでのゆりこなんて、透明人間みたいなもんだって思ってます。潮子さんは、あんたにとっては、大先生よ。教えてるんじゃなくて、教えていただいてるの。楽譜なぞっておしまいなんて思ってたら、今度という今度は許しませんよ。」
 まつ子さん、うなだれる娘に、このときとばかりいいたいことをいってすっきりいたしました。そうすると、ふと楽譜に目がいきます。
「ねえ、おかみさんのピアノ、そんなにすごい」
「すごいなんてもんじゃない。あれこそ、真の乙女の祈り」
「それって、素人がきいてもわかるものかしら」
「そんなの、じぶんできいてみればいいじゃない」
そうなのね……。つっとうしろの壁にいって、暦をめくります。
「108日目っていうのは、ええと、あら12月14日、討ち入りの日なのねえ」
 よーし、わかった。これで、決まりだ。
「ゆりこ、なにがなんでも、遅くても12月27日には、乙女の祈りを仕上げてちょうだい、28日の敬老会忘年会の余興、おかみさんに弾いてもらいましょう、真の乙女の祈り」
「ちょっと待ってよ、まだ半分も終わってないし、どうなることやらわからない。後半は前半の何倍も大変になるし」
「そんなの、あのひとの情熱に、あんたが死ぬ気でこたえたら実現することでしょう」
「手はなんとかなっても、足のペダルはまだ手つかず、足つかずなんだもの」
「そんなのは、どうにでもなるじゃない。潮子さんはね、ミシン踏むのも上手だから、なんとかなるわよ。そうだ、足もとで黒衣でだれかしゃがめばいい……、ほらあの子、孫のエビ子ちゃん。あの子ちっちゃいから、黒い服着せてしゃがませて、ペダル押させればわからないわよ」
「そんな無茶苦茶な、そんなんじゃ供養にならないっていったのは母さんじゃない」
 そうこうするうちに、呼び鈴が鳴りました。
 玄関で、ごめんくださいましと、おかみさんの声です。
「まあまあ、おかみさん、潮子さんお待ちしておりましたわよー」
 敬老会婦人部長は、廊下をだだーっと駆けていく。
 その足音を、ゆりこはぼう然と見送っておりました。
                                    (続く)
 

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