妄想古典教室

第一回 おっぱいはエロいのか?

女の美しさはどこにあるか

 では、美しき主人公たる女たちは、いったい何を愛でられているのか。『源氏物語』で光源氏最愛の女性、藤壺は、次のように描写されている。藤壺は、光源氏の父、桐壷帝の后だが、光源氏との密通によって孕ませてしまう。表向きは天皇の皇子として育つので、のちに冷泉天皇として即位し、実の父を知った冷泉帝によって、光源氏は太政天皇に准じる位にのぼり栄華を手に入れるのである。

 藤壺の生んだ子が、自分にそっくりだったのを見た光源氏は密事の露見することをおそろしく思うが、それでもなお藤壺への恋情はやまず、ついに忍び入る。様子のおかしい藤壺を案じた女房たちが入ってくる気配があったので、秘密を知る女房はあわてて光源氏を押し入れのようなところへ隠す。やがて、再び人少なになって静まったころ、光源氏は抜け出して屏風の裏から藤壺の様子を覗き見る。

 

世の中をいたうおぼし悩めるけしきにて、のどかにながめ入り給へる、いみじうらうたげなり。(かむ)ざし、(かしら)つき、御(ぐし)のかかりたるさま、限りなきにほはしさなど、ただかの(たい)の姫君に(たが)ふ所なし。(『源氏物語』「賢木」巻)

 

 光源氏の突然の来襲に驚いた藤壺は、憂い顔で外を眺めている。その様子がとてもかわいらしい(いみじうらうたげ)という。そして、髪の感じ、頭のかたち、髪のこぼれかかる様子、この上ない美しさなどが、光源氏が正妻として迎えた藤壺の姪、紫の上(対の姫君)に瓜二つだという。似ているところとして挙げられているのは、美点なのだから、そこに髪の様子が描写されるということは、髪が女性の美そのものだということになる。

 平安美女たちが髪を長くのばしていて、いやでもまず髪が目についてしまうから愛でているわけでもない。『浜松中納言物語』といって、中国の宮廷とからんだ壮大な輪廻の物語を展開する物語では中国風に髪をアップにした女性をほめている。亡き父が中国の皇子として転生していると知った中納言は中国へ渡り、唐土の帝の后と恋に落ちる。后と関係して子どもを孕ませるのだが、中国の女性の髪型は、鶴岡八幡宮の弁才天像に似て、結い上げているのである。それでもなおこの后の御美しさをいうのに、わざわざ髪に言及している。年の頃は二十歳ぐらい。顔は、細くもなく、ふっくらとしているのでもなく、ほどよい感じである。鼻が高いのだろうか、「中すこし盛りたる心地して」とある。肌の色は白くて、かわいらしく、眉が高貴な感じで、唇は丹を塗ったように赤い。すこしも欠点がなく、魅力があふれ出すようで、髪上げ姿がうるわしい。

 そこで中納言は髪をとおして、日本の女性と思い比べてみている。

 

日本(ひのもと)の人は、ただうち垂れ、額髪も縒りかけなどしたるこそ、わがかたざまに、なつかしくなまめきたることなれ、と思ひ出づるに、うるはしくて、(かむざし)して髪上げられたるも、人がらなりければにや、これこそめでたく、さまことなりけれ、と見るに、ものの()さへ世に知らず聞こゆるに、若き女房七八人ばかり、(あま)(くだ)りけむ乙女(をとめ)の姿かくやと見えて…(『浜松中納言物語』巻第一)

 

 日本の女性は、ただ髪を垂らしていて、額髪をよってつくったりしているものだが、簪をさして髪上げしている姿も、后の人柄のせいだろうかまさに美しいと言っている。女房たちも髪上げ姿なので、それを天女が降りてきたようだと言っている。髪上げ姿といえば、日本では、それこそ吉祥天や弁才天、あるいは天女の像などに見られる姿だからであろう。

 むろん、髪が美しいから、エロティックだというのではなくて、エロティシズムの表現として髪の描写があるということだ。ラジャシュリー・パンディは、「髪は、衣と同様に、とりわけて肉体の美しさとエロティシズムが示される場なのだ」(前掲書)と述べている。つまり、髪あるいは衣は、肉体の美やエロスをいうためのメトニミー(換喩)なのである。

 たとえば、ラジャシュリー・パンディは、『源氏物語』の六条御息所の生霊の問題を挙げている。光源氏の愛を失った六条御息所は、嫉妬と絶望のあまり生霊となって、出産を控えた光源氏の正妻葵の上を襲い、憑り殺してしまう。生霊になるとは、身から魂がふわふわと出ていってしまう状態のことだ。身はたしかに自邸にあるのに、身から離れた魂が、葵の上の病床にいる。葵の上に憑りついた六条御息所は、光源氏を呼びだし、物思いする人の魂はほんとうに身を離れていってしまうようですね(物思ふ人のたましひはげにあくがるるものになむありける)と言って、次の歌を詠む。

 

なげきわび空に乱るるわが魂(たま)をむすびとどめよしたがひのつま

 

話をしているのは葵の上の肉体だが、その声はまさしく六条御息所のものだと光源氏は気づく。夢から覚めた六条御息所は、体中に葵の上のもとで物の怪調伏のために焚かれていた芥子の匂いがまつわりついているのに気づく。

 パンディは、先の歌が、身から離れて彷徨う魂を「身」ではなく、打ち合わせた衣の下前の裾(したがひのつま)に結び留めてほしいといっている点に注目し、衣が身のシネクドキー(提喩)として機能していると指摘している(前掲書、41頁)。古典語の「身」は、肉体という意味でもあり、また自己の意味も含み持つのだが、そうした「身」について語ろうとするときに、表に現れるのは衣なのである。

 したがって、女性美として、髪の美しさをいうのは、つまり肉体の魅力を讃えていることになるのである。もっといえば、肉体への欲望を表現していることになるのだ。その場合の、肉体への欲望は、表現としてはのぼってこないのだから、具体的に肉体のどの部分への欲望かといった議論をすることができない。少なくとも、そこには乳房こそがエロティシズムの源泉であるといえるものはなにもないのである。

 とすると、江島の弁財天像は、股間に隠された秘部を彫り込んだことを暗示するために、乳房を象ったまでであって、しかし、その結果、乳房によって肉体のエロスを表現する方向へ一歩踏み出していった作例なのかもしれない。

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