資本主義の〈その先〉に

第14回 資本主義的主体 part3

2 いつの間にかに大分岐

経済史の大分岐

 資本主義の下で、主体は、消えない借金を負っている(かのようにふるまう)。前回、このように論じた。ところで、「借金」を意味するドイツ語Schuldには、濃厚な宗教的含意がある。この語は、「罪」を、犯罪や不法行為とははっきり区別された宗教的な罪を意味しているのだ。Schuldという語は、経済的で極度に実用的な意味(借金)と宗教的で精神的な意味(罪)とを短絡させている(1)。ここから、次のように推測してもよいかもしれない。この短絡のルートが開通したとき、資本主義が誕生したのだ、と。
 資本主義の源泉には、何らかの意味での宗教性がある。その宗教性がどのようにして資本主義に転化するのか。われわれは、このような方針の中で探究してきた。前章では、キリスト教とイスラーム教とを対比した。この二つの世界宗教は、人類の歴史の中に現れた宗教の全体的な見取り図の中では、ごく近しい関係にある。同じ啓示宗教であり、唯一神教である。ユダヤ教を父にもつ、やや年の離れた兄弟のようなものである。
 資本主義の源泉に、宗教に規定されている態度や基本的な発想の違いに関連する何かがあったのではないか、という推測は、ほんとうは、キリスト教とイスラーム教のような似た宗教を対比した場合よりも、キリスト教からもっと遠く離れた宗教的伝統を参照したときに、さらに説得的なものになる。たとえば、経済史の専門家が、「大分岐great divergence」と呼んでいる現象がある。
 大分岐とは、次のような歴史的事実を言う。われわれは、この地球上に、豊かな国と貧しい国があることを知っている。経済的におおむね成功し、その内部には格差などの問題を孕みつつも、全体としては裕福だと言える国と、逆に、ごく一部の富豪がいながら、平均的には貧しい国という、はっきりとした区別がある。そして、「豊かな国」と分類されるグループのメンバーのほとんどが(アメリカ等を含む)広義の西ヨーロッパの国々である。日本は数少ない例外のひとつだが、豊かな国のほとんどが西ヨーロッパの系譜に属している。しかし、この国際的な貧富の差は、古代からずっとあったわけではない。つまり、古代からの長い歴史の過程の中で、国と国との間の格差が少しずつ蓄積されてきたわけではないのだ。ある時期から突然、経済的な格差が拡大した。これを「大分岐」と呼ぶ。「大分岐」が主題化されるとき、西ヨーロッパとの対比で、最も強く意識されているのは、中国である。
 中国はまちがいなく、有史以降の大半の時期に、世界で最も裕福な文明として繁栄していた。しかし、アヘン戦争がよく示しているように、19世紀の中盤には、西ヨーロッパの方が、軍事的にも経済的にも優位になっていた。つまり、このときには、西ヨーロッパと対比したとき、中国は、「貧しい国」の一員になっていたことになる。いったいいつ逆転したのだろうか。どうして逆転したのだろうか(2)
 われわれは、前章で、メディチ家の金融技術について論じたが、ヨーロッパでメディチ家が栄えていた頃の中国に目をむけたらどうだっただろうか。ニーアル・ファーガソンは、15世紀の前半に、ロンドン(イングランド)と南京(中国)を旅したらどう感じるか、という思考実験に読者を誘っている(3)。テムズ川の河畔にはロンドン塔があり、それが、ロンドンで最も目立つ建築物だが、それは、数多くの大広間をもつ紫禁城と比べたら不細工で、何よりもあまりにも小さい(4)。当時の中国、つまり明時代の中国には、すでに、長江と黄河とをつなぐ大運河があったが、そんな大規模な運河はもちろん、ロンドンにはない。テムズ川にかかるロンドン橋は、大運河の両岸をつなぐ宝帯橋と比べたとき、デザインの上でも劣るし、長さも半分程度しかない。当時の南京は、人口50万から100万の大都市で、これに比べるとロンドンは、平均寿命が20歳代の、人口4万人ほどの田舎の町に過ぎない。南京は、緑豊かな運河と瀟洒な遊歩道がある比較的きれいな都市だったが、ロンドンは、ペストやチフス、赤痢、天然痘が流行する、悪臭漂う不潔な町だった。等々。要するに、南京の方がロンドンよりもはるかに文明化されていて、富んでいたのである。

そんなものは要らない!

 いつ逆転が生じたのか。その時点を特定するのは難しく、専門家の見解も分かれている。ただ、それはまことにふしぎな逆転の仕方だった、ということは指摘しておこう。マラソンに喩えると、次のような印象を与える。中国は早い段階から、優勝を争う先頭集団を引っ張っていた。西ヨーロッパは、はるかに後方の集団にあり、誰がみても、とうてい優勝を望めないだろうと思うほど、先頭からの差を拡げられていた。ところが、19世紀の中盤くらいの段階で気づいてみたら、西ヨーロッパの方が先頭集団にいて、中国はかなり後方の集団の中に沈んでいたのだ。両者が並走しながら競っていた時期がなかなか見つからない。特に中国から見れば、びっくりぎょうてんである。はるかに遅れていたはずの者が、まったく気づかぬうちに自分より前を走っているのだから。まるで、西ヨーロッパは、何か「近道」を知っていて、いきなり先頭に躍り出て来た、という印象なのである。
 ともかく、19世紀の初頭には、西ヨーロッパの最も裕福な国は、経済的には中国を抜いていたようだ。当時、中国は清の時代で、政治的には安定していた。政治権力の点では、中国史の上でピークにあった、と言ってもよいほどだ。しかし、経済的には、当時の中国は、イングランドやオランダよりは貧しかった。ある推定によれば、1820年当時の中国人の平均的な収入は、イングランドの日雇い労働者の実質賃金の4割未満である。つまり、かなり貧しい方のイギリス人でも、中国人より生活水準がずっと高かったということになる(5)
 どうして急に逆転されたのか。その当時の、よく知られている印象的なエピソードを紹介しておこう(6)。1792年から93年にかけて、イングランドの外交官ジョージ・マカートニーが、国王ジョージ三世の贈り物をもって、清の宮廷を訪問したことがある。派遣使節は、6000個の荷物を携え、港から北京までの陸路では、苦力3000人、車90台、荷駕篭40台、馬200頭を使ったというから、実に莫大な量だが、より注目すべきはその内容である。ふたつのプラネタリウム、地球儀、望遠鏡、測量道具、化学器具等、当時の最新技術の産物がそこには入っており、中国にはなかったものばかりである。このときのイングランド側の意図は、対中貿易における経常収支の赤字を解消することにあった。ヨーロッパ人は、中国のお茶や絹製品、陶磁器などの贅沢品を欲しがったが、中国側は、「銀貨」以外には受けとらなかったので、ヨーロッパと中国の間の貿易では、ヨーロッパ側の圧倒的な赤字だったのだ。そこで、中国人が欲しい物がヨーロッパにはたくさんあることを知らしめるために、使節が派遣された。
 ところが、清朝の官僚は、イングランドからの贈り物を強く拒否したのだ。その理由は、何か。そんなものは、皇帝にはめずらしくもなければ、貴重でもない、というわけだ。乾隆帝からジョージ三世に宛てられた手紙では、王もイギリス人も「蛮族」と呼ばれている。「わが天子の国はすべてのものを有り余るほど有し」、イングランドとの交易の必要はない、というわけだ(7)
 これは、資本主義経済に内属する者の観点から見れば、まったく驚くべき対応である。ただちに贈り物を受け入れ、積極的に貿易すべきではないか。さらに、自分たちの側でもそれと同じものができないか、場合によってはそれ以上の製品ができないか、研究・開発すべきではないか。中国とイングランドの間に、根本的な世界観の違いが、同じものがまったく異なったものとして見えてしまうような基本的な認知枠組みの違いがあるのだ。このような違いをもたらす要因は、広義の宗教、われわれの生活態度を規定する宗教以外には考えられない(8)(9)

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