ちくま新書

これからの生き方を見直すための考え方

なぜいま農本主義なのか? その考えに引き付けられる。ちくま新書『農本主義のすすめ』の冒頭を公開いたします。

 田んぼで草とりの手を休めて腰を伸ばすと、精霊(ショウリョウ)とんぼ(赤とんぼ)の群れに囲まれていました。こんな時には「百姓していて、よかった」と感じます。
 ここには農の本質が現れていますが、現代社会では農の表面だけに眼が向いています。
しかも、どうしたら農を進歩・発展させることができるかに関心は集中し、農の経済価値ばかりが取りあげられることになります。そして、他産業並みの所得さえ手に入ればいいんだ、と言われ続けてきました。
 そもそも農を進歩・発展させる、という発想自体がまちがっています。農とはそういうものではありません。
 若い頃から、ずっと疑問に思っていました。規模を拡大し、生産効率を上げることがほんとうに農にとって、いいことなのかと。農の近代化によって生きものが減り、百姓ならではの情愛が薄れていくのは、何かがおかしいと感じていました。しかし、「農とは、いったい何なのか」「農にとって、いちばん大切なものは何か」などと考えることはなく、そういう思考法を教えてくれる人もいませんでした。
 その農の大切なものを体でつかんだのは、三九歳で百姓になってからです。つかんでみて、わかりました。他人に伝える必要などどこにもないものです。百姓はじっと抱きしめていればいいものです。これまで表現されてこなかったのも無理もありません。しかも、これは外からのまなざしでは見えないものです。これまで農学の対象とならなかったのも当然です。
 そこでふと「農とは人間が天地と一体になることだ」と語っていた百姓がいたことを思い出しました。そうか彼らは、農の大切なものを「農の本質(原理)」と呼び、必死で表現しようとしていたんだ、とやっと気づいたのです。彼らは農本主義者と呼ばれていました。昭和初期のことです。とくに「農(の本質)は資本主義に合わない」という発見は、今日から見ても、あらためて驚き、感嘆します。しかし、農本主義はもう百姓にすら忘れ去られています。
 よし、それでは彼らにならって農の本質を、百姓の内からのまなざしでつかんで、いつか書いてみようという気で、百姓を続けてきました。この本は私の百姓体験と、若い頃やっていた農業改良普及員の外からのまなざしと、さらに百姓しながら励んだ「農と自然の研究所」の活動成果を土台にしています。まちがいなくこの本の内容や表現は、これまでの農業論の常識を根底から揺さぶることになるでしょう。農の価値は「食料生産」にあるのではなく、在所で、天地自然の下(もと)で、百姓として生きていること自体にあります。その百姓の生が社会の母体となっているのです。言葉を換えれば、「農とは天地に浮かぶ大きな舟」なのです。この舟には、百姓も百姓でない人も、生きものや風景や農産物も、祭りや国家や神も乗っています。
「農本主義」という言葉は、初めて耳にする人が多いでしょう。
 現代でも「新自由主義」とか「イスラム原理主義」などという「主義」はよく耳にします。これまでは「思想」や「主義」と言えば、外来のもので、しかも知識人から生まれたものでした。しかし、農本主義は、ひとりひとりの百姓が、自ら見つけた「農の本質(原理)」を、これだけは捨てることはできないものとして示すのです。はたして百姓から生まれた「農本主義」に耳を傾けてくれるだろうかと心配でした。ところが、若い人は、百姓でない人も「農本主義って、案外面白い見方ですね」と言ってくれます。
 団塊世代より上の世代の人には、農本主義と聞くとファシスト、超国家主義という印象があるかもしれません。それは戦後になって張られたレッテルに過ぎません。彼らが百姓しながら、自分の体と頭で紡ぎ出した表現の魅力に触れてみてください。
 なお、農本主義者の引用は、私の言葉に言い換えているところもいっぱいあります。どこまでがかつての農本主義者の考えで、どこが私の思想なのか、境界がわからなくなっているのは、時空を超えて農本主義の代弁者になろうという工夫です(原典からの引用をそのまま読みたい方は、拙著『愛国心と愛郷心』『農本主義が未来を耕す』を開いてください)。
 田植えして四五日も経つと、村全体がおびただしい精霊とんぼ(赤とんぼ)に包まれます。畦で一服しながら、毎年この風景を眺めていると、ほんとうに天地は有情(生きもの)で満たされていると感じます。こういうひとときを私は引き継いできたし、さらに引き継いでいこうと思っています。こうした心情を大切にする農本主義の世界をこれから案内します。

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