短短小説

第22回 ラストスパート

ちくま文庫のロング&ベストセラー『うれしい悲鳴をあげてくれ』の著者であり、作詞家・音楽プロデューサーのいしわたり淳治による書き下ろし超短編小説の連載企画!!

 

「そこから、もっと! いける! まだいける!」
 ──ピッ!
 突き出した胸がゴールラインを駆け抜けた瞬間、ストップウォッチを止めた。
「12秒76。んー、もう少しタイム縮めないと入賞は厳しいわね」
 インターハイまであと少し。二年生で女子100メートルの選手である優香が、膝に手をついて息を切らし、私の顔を見上げた。
「はあ、はあ、ぜえ、ぜえ。……おかしいなあ、いい感じだったのに。計り間違いじゃないですか?」
「そうやって人のせいにしてたら、成長はないわよ」
「はあ、はあ。だって、今のは、スタートも完璧だったのに」
 確かに、入部当初から彼女が苦手にしていたスタートはもはや完全に克服したように見える。でもそれとは別に、私はひとつの弱点に気づいていた。
「ねえ。もう一度走ってみない? それも、次は100メートルじゃなく、120メートルを走ってみてほしいの」
「はあ、はあ。まあ……はい」
 優香がゆっくり体を起こして、呼吸を整えながら戻って行く。近くにいた一年生に120メートル地点に立つように指示を出した。
「先生、この辺ですか」
「うん。そして、あなたがストップウォッチを持っているふりをしてちょうだい。私は100メートル地点でこっそりタイムを計るから」
 この女子高校に教師として赴任して七年。英語を教えながら、陸上部の顧問をしてきた。決して強豪校とは言えない学校だったが、進学校らしい真面目な校風もあって生徒たちは皆、素直な頑張り屋ばかりだ。
「優香、準備出来たら教えてー!」
 スタート地点に向かって叫ぶと、「はーい!」と威勢のいい返事が返ってきた。彼女を勝たせてあげたい。うちの部で、初めて短距離で入賞を狙える生徒が現れたのだ。彼女はもっと体も心も成長して、来年は陸上部を引っ張って行く存在になるだろう。出来ることなら、彼女にこの大会で自信を付けさせてあげたい。
「先生、お願いします!」
 スタート位置にしゃがみ込んだ優香が手を挙げた。
「オーケー! 次はそこまで走るのよ!」
 120メートルの地点にいる一年生を指さす。緊張感に満ちた少しの沈黙の後、スターター係の掛け声が聞こえた。
 テンポ良く地面を蹴る足音が近づいて来る。スタートも完璧。いいペースだ。
「いいよ! いい感じ! そのまま! そのまま!」
 100メートル地点で待っていた私の前を紺色のトレーニングウェアが駆け抜けて行く。
 ──ピッ!
 20メートル先まで走って、力尽きた優香がグラウンドに倒れ込んで天を仰いだ。私は飛び跳ねて駆け寄った。
「やったじゃない!」
 酸欠で声も出せない彼女にストップウォッチを見せた。
「12秒51! すごい! 自己ベスト! やった! これなら入賞間違いないよ!」
「はあ、はあ。うそ! やった! やった……」
 優香が顔をくしゃくしゃにしてガッツポーズをした。
 人間はゴールを意識した瞬間、急激に脳の血流が減って、がくっとパフォーマンスが落ちるのだという。先日、テレビで観たスポーツ番組で、水泳のオリンピック選手のコーチが言っていた。その解決策として、トレーニングでは選手がゴールのタッチをしてスタート地点を振り返ったところで、ストップウォッチを止めるのだそうだ。そうすれば、ゴールを意識するタイミングを後ろにずらすことが出来て、パフォーマンスの低下を避けられるのだという。
 思えば、優香にもゴール前で失速してしまう癖があった。本人も気づいていたようで、スタミナ不足を克服するため基礎体力の強化に取り組んでいたが、今ひとつ結果には結びつかないままだった。
「はあ、はあ。先生……」
 私の手を摑んで起き上がった優香が暗い顔で俯いた。
「何? どうしたの。素直に喜びなよ! 自己ベストだよ?」
「ねえ。先生、学校辞めちゃうって、ホント?」
「えっ?」
「結婚するんでしょ。みんなが噂してるよ」
「やだ、どこから漏れたのかしら」
 突然のことで苦笑いをするしかなかった。職員には報告済みだったが、部員たちにはインターハイが終わるまで内緒にしようと思っていた。
「うん、そうよ。結婚して、来年の春で教師を辞めることにしたの。三十歳までに結婚するのが夢だったから。あなたはあなたの夢を叶えて」
 優香が真っ直ぐな目で見つめている。心の奥を読まれたような気がして、声が震えた。夢なんて言えば格好がいいが、本当は逃げているだけかもしれない。ずっと自分には教師が向いていない気がしていた。純真無垢で可能性の塊の生徒たちと向き合って、心を開いて、深い話をするようになればなるほど、たいしたアドバイスも指導も出来ない自分の能力に限界を感じるようになった。私じゃない方がこの子たちはもっと成長するのではないか、という罪悪感に胸が押しつぶされそうな毎日だった。
「ねえ、先生。私、優勝するから」
「優勝?」
 彼女の目は冗談を言っている目ではない。だが、正直なところ、本番で自己ベストを出せても、決勝には残るのがやっとのタイムだろう。
「優勝するの。大好きな先生に、私からのプレゼント」
「ありがとう」
 さっきまで橙色だった空が藍色に変わっている。遠くから三年生の号令が聞こえてグラウンドの片付けが始まった。
「本当はあと一年、もっと練習して、来年優勝するつもりだったんだけどなあ。先生が辞めちゃうっていうから、予定を早めなきゃいけなくなっちゃった。まったくもう」
 優香が独り言を残して、部室へ歩き出した。
「先生。旦那さん、どんな人なのか今度教えてね」
 振り返って優香が笑った。自分が教師に向いていないなんて思い込みだったのかもしれない。あと一年、この子の卒業まで一緒にいたかった。彼女の笑顔は、私に幸せな後悔をくれた。

「ああ、疲れたー。ただいまー」
「おかえり、お姉ちゃん」
 その夜、帰宅して夕飯を作っていると、同居している姉が帰ってきた。
「いい匂い! 花嫁修業にぬかりがないね。今日は何?」
「今日は中華。春巻と麻婆豆腐と玉子スープ」
「へえー。美味しそうじゃん。それにしても。最悪だったわ、今日は」
 姉は鞄も置かずに、乱暴に冷蔵庫から缶ビールを取り出して、喉を鳴らして飲み始めた。
「ぷはーっ」
「お姉ちゃん。どうしたの?」
「どうもこうもないわよ。あと二日、会社に行ったら三連休だったのにさ、しょうもないミスしちゃって、おかげで休日出勤確実。もう、最悪」
 重くて長いゲップを吐いた後、姉はソファに倒れて泣き真似を始めた。自分は何も悪くない、部下の新入社員がポンコツなせいだ、そもそもこんな職場は私に向いてない。下手な芝居で悲劇のヒロインを演じている。
「お姉ちゃん、それって連休のせいかもね」
「はあ? 連休? 何言ってんの」
 姉が首を持ち上げて、睨んだ。
「それってたぶん、連休のせいなのよ。連休前じゃなかったら、きっとお姉ちゃんはミスしなかったと思うよ。人間ってね、もうすぐゴールって意識するとね、脳の血流が急激に減って、パフォーマンスが下がるらしいのよ。そのせいで判断力が鈍ったり、思いがけないミスしちゃったりするらしいの」
「何よ。先生ぶって。偉そうに」
「先生だもの。今日も陸上部の子にね、100メートルじゃなく、120メートル走ってもらったらね……」
「その話、長くなる? 後にして。春巻、いただき。あちちち」
 一通り愚痴って気が済んだのか、姉はいつもの調子に戻って、揚げたての春巻をくわえてバスルームへ消えて行った。自由な人だ。このがさつな性格のおかげで、恋人は出来ないが、男女問わず友達は多い。直感で生きている姉が、私は少し羨ましかったりする。

「お姉ちゃん、ご飯出来たよ」
 バスルームに向かって叫ぶと、バスタオルで髪を拭きながら姉が現れた。
「やだ。またその格好?」
 姉はいまだに高校の頃のジャージを寝間着にしている。
「いいじゃん、別に。ああ、腹減った」
 姉が冷蔵庫から二本目の缶ビールを取り出してテレビを点けた。しばらくザッピングした後、「つまんないわね」とつぶやいて、諦めた様子でリモコンを置いた。
「いただきます」
「いただきまーす。うわっ、麻婆豆腐、美味しい」
 大皿に盛られた麻婆豆腐に直にスプーンを突っ込んで口一杯に頰張った。
「そう? うれしい」
「いい嫁になるよ」
「お姉ちゃんと違って、私は出来る女だからね」
「ふん。本物の出来る女は自分でそういうこと言わないけどね。おい、偽物」
 瞬時に悪口を返す姉の頭の回転の早さには本当に感服する。
「何年か経って、騙されたって、旦那が泣いてる姿が目に浮かぶよ」
「騙してないわよ。やめてよ、嫉妬は」
 一年前、姉に誘われて出かけた街コンで私に彼氏が出来た時も、姉の悪口は凄かった。一流企業に勤めてるからってちょいちょい上から物を言ってくる、ざっくり開けた胸元がキモい、会話にビジネス英語が多くてウザい、私服のセンスが古い、友達いなそう、絶対目を整形してる、とさんざん言われた。私がその彼と結婚することになって、自然と姉の悪口も少しは収まったけれど、今でも彼のことはあまり良くは思っていないようだ。
「ねえ、そういや、式場は決まったの?」
「うん。決めた。でも彼が仕事忙しくて、一人で下見して決めてきちゃった。ずっと憧れだった式場が取れたのよ」
「ふーん。彼って、そんなに忙しいの? 愛されてないだけなんじゃない?」
「また悪口? やめてよ、もう」
「悪口じゃないわよ。純粋な質問。あんたさ、マジで、考え直したら? 三十歳だからって、何もそんな焦って結婚しなくてもいいじゃん。夢だか何だか知らないけどさ、計画通りに行かないのが人生ってもんよ?」
「焦ってなんかないわよ。素敵な人だから一緒にいたいと思っただけ……」
 言いながら声が小さくなって、俯いた。ふと、結婚を報告した時の優香の顔が浮かんだ。そういえば、あの時も声が震えてしまった。
「へえー、あれが、素敵な人、ねえ……」
「何よ。お姉ちゃん、言いたいことがあるなら、はっきり言ってよ。反対なの? 妹に先を越されて、悔しいだけでしょ!」
 箸を叩き付けて、声を荒らげた。
「ぜーんぜん。悔しくないよ」
 姉は笑って言った。会話の止んだ部屋にテレビの音だけが響いている。
「そうだ。今日、仕事であんたの彼の会社の人に会ったのよ。で、今度うちの妹がそちらの社員さんと結婚するんですよ、って言ったら、誰ですかって聞いてくるから、彼の名前を言ったの。そしたら、首を傾げて、そんな人いたかなあ? って。あんたの彼、会社じゃあ相当、影が薄いのね」
「このタイミングでまた悪口? お姉ちゃん、もう、やめてってば! 彼の会社、大企業だもの。知らない人がいても当然でしょ!」
「そうかなあ? そんなに大きな会社でもないじゃん。あんたと会えないほど忙しく働いてんでしょ? それに、けっこう良い役職だって言ってなかった? なのに、影が薄いって、ねえ?」
 姉が皮肉っぽく笑った。
「もう……違うのよ。分かった。ちゃんと言うわ」このままでは姉の悪口は止まらないだろう。本当は言うつもりはなかったのだが。「実はね、今度、彼が会社を辞めて独立して会社を始めるの。そのためのお金がいるから今、掛け持ちで、別の仕事もしてて会えないの。私も出来るだけ力になりたいと思ってるんだけど私の貯金じゃあ全然……」
 姉が目を見開いたまま固まっている。
「どうしたの? お姉ちゃん?」
「テレビ……!」
 私の背後のテレビ画面を指さしている。
「えっ? 何?」
 振り返ると、画面いっぱいに彼の顔が映し出されていた。
〝詐欺の疑いで逮捕されたのは住所不定無職の大野雅彦容疑者三十六歳で、男は警察の調べに対し、「結婚を持ちかけて女性から金銭を騙しとったことは間違いない」と全面的に容疑を認めています。被害者は十数人にのぼると見られ、警察では引き続き調べを進めています。続いてのニュースです〟
 アナウンサーが険しい表情から一瞬で笑顔になった。隣町にある動物園でライオンの赤ちゃんが生まれたのだという。
 ──今のニュースは、何……? どういうこと?
 ショックで血の気が引いていくのが分かった。いや、おそらくゴールインを強く意識した時から、脳の血流が急激に低下して、まともな判断力を失っていたのだが……。

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