ちくま文庫

「ぽんこつ」の頃

ちくま文庫『ぽんこつ』解説

10月のちくま文庫より『ぽんこつ』の解説を公開します。『強父論』が話題の阿川佐和子さんが、父・阿川弘之と自動車にまつわる思い出を交えながら書いてくださいました。

 娘が父親の小説の解説を書くなんてみっともない真似はやめなさい。と、草葉の陰から苦虫をかみつぶしたような顔で呟く父の声が今にも聞こえてきそうである。昨年の夏の盛りに九十四歳にして亡くなって、あれから一年あまり経ったにもかかわらず、父の不機嫌な顔がちょくちょく私の脳裏に蘇るのは、懐かしいからではない。脅威の余韻がまだ続いているせいだ。夢の中で父の怒声を浴びないためにも本当は解説なんて書きたくないのだが、このたび筑摩書房より、もはや絶版となって久しい本書「ぽんこつ」を書庫の奥から掘り起こし、改めて文庫として復刻してくださるという世にもありがたーいお話なのである。遺族が我が儘を言っている場合ではない。が、それにしても気が重い。

「何を書いてよいのやら……」

 ちくま文庫担当の方に率直な気持を申し上げたところ、

「わかってます、わかってます。解説などと堅苦しいことは考えず、父上の車好きのお話でも書いてくださればけっこうです」

 というわけで、ここでは娘から見た父と車の関わりについて綴ることにいたします。

 本小説は昭和三十四年、読売新聞にて連載を開始したのち、中央公論社より単行本として刊行され、その後、潮文庫の棚に長らく並んでいたらしい。この物語がそんな変遷を辿

っていたとは、情けないかな、このたびの解説依頼を受けるまでろくに知らなかった。基本的に父が現在どういう仕事をしているか、著作にも小説家にもとんと関心のなかった私はきちんと把握していないことのほうが圧倒的に多かった。ただ、書斎で何を書いているかは知らねども、家族が揃う食卓に父が現れて、食事をしながら海軍の話題を持ち出すときは、「ああ、今、海軍ものを書いているんだな」とか、はたまた警察へ取材に行ったときのこぼれ話を始めたら、「事件ものでも書き始めたのかしら」と勝手に想像することはままあった。

 さて本書「ぽんこつ」を書き始めた当初はどうだったか。父がこの小説の新聞連載を始めた年、私は六歳であり、たしかその頃、我が家に初めてマイカーが到着したことを思い出す。我が家族は当時、東京都中野区の片隅に新しく建ったメゾネット式公団住宅に住み始めて間もなかった。全部で二十戸ほどの二階建て住宅が並ぶ敷地内の、いちばん奥の一角に我が家は陣取っていて、そのこぢんまりとしたコンクリート建ての四角い建物に沿って伸びる砂利道に、突如として深いグリーン色の虫のようなかたちをした日野ルノーがやってきた日のことを、私はおぼろげに記憶している。あるいは到着した翌日だったかもしれない。父は長靴姿でシャツの腕をまくり、雑巾を手に、いとおしそうに車を洗っていた。父が目尻に皺を寄せ、満面に笑みを浮かべて身体を動かしている姿を見ることは、めったにないことだ。幼い私の目に父は、いつも口を尖らせて、ちょっとこちらが油断をするとすぐさま怒られるとてつもなく怖い存在だった。そんな気難しい父が珍しく天真爛漫に笑っている。よほど車が好きなんだ。私はそう理解した。本書冒頭の、順一と和子が中古自動車を洗っているシーンを読むと、あの頃の光景が懐かしく蘇る。

 父が最初に運転免許を獲得したのはアメリカでのことだったと聞いている。昭和三十年から丸一年、父は母を連れ立って、ロックフェラー財団の招きによりアメリカへ渡った。兄が四歳、私が二歳の年である。二人の子供は広島の親戚のウチに預けられ、夫婦だけでの留学だった。その間に、自動車大国のアメリカで車の魅力に取り憑かれたのであろう。帰国後、念願叶って自分の車を手に入れた。それは嬉しいに違いない。父は小さな日野ルノーに母と二人の子供を乗せて、あちこちへ出かけた。だからといって決して家族サービスをしている意識はなかっただろう。こちらも父にせがんでドライブをしたいとねだったことは一度もない。それどころか突然、父が言い出す。

「おい、出かけるぞ」

 母は幼い私たち兄妹を急かして支度をさせ、バタバタと戸締まりをして、すでに運転席に乗って「まだか、早くしろ!」と怒鳴る父に「はい、はい」と返事をしながら小走りで助手席に乗り込むのが常だった。

 あるときは真夜中にたたき起こされた。何事かと思えば、

「おい、軽井沢へ行くぞ」

 なんでまたこんな夜中にと、こちらがいぶかるまもなく、

「今なら道路が空いている。渋滞は嫌いだ」

 それが父の言い分であり、その意志に逆らうことのできる者はいない。

 たしかくねくね曲がる碓氷峠を登っているときだったと記憶する。運転席の父と助手席に座る母が言葉を交わしている。こちらは後部座席で車酔いをしないようなるべく窓の外の遠い山の景色を眺めるか、あるいは兄の膝に頭を乗せて寝るか、そんなことを繰り返しているとき、父の声が耳に入ってきた。

「そうだな、メイビー、そうかもしれないな」

 父はときおり、この「メイビー」という言葉を使うのだが、それがどういう意味か私は理解していなかった。が、文脈から想像するに、「かもしれない」と同じような意味なのだろうと思った。一年間をアメリカで過ごした父は、ときどき変な英語を交ぜて話をした。「メイビー」が英語であると知ったのは、だいぶ経ってからのことだが、私の頭には、碓氷峠の木々に覆われた真っ暗な景色と「メイビー」という父の声が同じ抽斗(ひきだし)に保存されている。

 アメリカかぶれの用語について触れるなら、すでにこの話はあちこちに書いたので重複することをお許しいただきたいのだが、「レフチェ」「ライチェ」問題である。運転中、交差点で一旦停止すると、まず「レフチェ!」と父が叫ぶ。たちまち母と兄と私は左に顔を向け、車が来ていないことを確認した上で、

「クリア!」

 と答える。続いて父が、

「ライチェ!」と叫ぶや、今度は我々三人、右に首を回し、車がいないことを確認して、

「クリア!」

 いつからこんな習慣が定着したのか知らないが、父の運転で出かけるたび、家族は一丸となってその行事をまっとうした。これもまた、英語の「レフトチェック(左を見ろ)」と「ライトチェック(右を見ろ)」のことであり、その返答が「クリア(車はいません)」であることは、ずいぶんあとになってから理解したのである。

 父は決して安全運転タイプではなかった。むしろスピードを出すことを好んでいた。しかし、好きこそ物の上手なれというか、大きな事故を起こしたことはなく、駐車場に入れるときにときどき車の端を擦ったりすることはあっても、下手ではなかったと思われる。元来、運動神経があるほうではなく、ゴルフを始めれば途中でやめてしまうし、一時期ボウリングに凝ったこともあったが、それもさして上達する間もなくさっさと諦めた。子供の頃から体育の授業は苦手だったと見え、「運動は苦手だ」が父の口癖の一つだった。その父が、運転に関しては自信があったのか、「運動神経はあんまりないのにね」と家族が揶揄するたび、

「運転は運動神経とは関係ない。あれは反射神経だ、覚えておけ」

 そしてついでに、

「女は反射神経に欠けている。だから女の運転はダメなんだ」

 と、よく言っていた。そのくせ、母にも運転免許を取らせ、娘の私にも自動車教習所

へ通えと勧めたのはどういうことか。

「それは俺が銀座で飲んで酔っ払ったときに迎えに来させるためだ」

 はっきり言われ、私が大学時代に運転免許を取るや、試験期間中であろうと先約があろうと、銀座から、「迎えにこい!」と電話がかかってくれば従わざるを得なかった。

 晩年になっても父はなかなか運転をやめようとしなかった。あるとき弟が心配し、

「ねえ、お父ちゃん。お父ちゃんだって、タクシーに乗ってみたら運転手さんが八十歳だってわかったら、怖くて降りるでしょ」

「そりゃ、降りるな」

「だったらお父ちゃんももう八十歳過ぎたんだからね」

 すると父は、

「それはたしかに道理だ。こりゃ面白い」

 と、さんざん笑った末、運転をやめようとはしなかった。

 さらに私が夕食どき、さりげなく申し出た。

「お父ちゃんもその歳で小学生を轢いたりして牢屋に入るのは嫌でしょ?」

 すると父がムキになって反論した。

「そんなのは、お前だって同じだ。お前が小学生を轢いたら牢屋に入るんだぞ」

 ちょっと意味が違うと思ったが、

「まあ、そうですけどね。でも事故の確率は高くなってるんだから……」

 すると父は即座にテーブルの下から両足を出し、椅子に座ったままの状態で足を交互に動かし始めたのである。右、左、右、左と足を突き出しながら、

「アクセル、ブレーキ、アクセル、ブレーキ。どうだ、ちゃんとできているんだ。文句があるか」

 それから数年後、父は自らディーラーに電話をし、車を引き取ってほしいと願い出たという。あれだけ運転が好きだった父の内心を察すると、ちょっとばかり切なくなる。

 

2016年10月27日更新

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阿川 佐和子(あがわ さわこ)

阿川 佐和子

東京都生まれ。慶応大学卒業。テレビキャスターとなる。その後、インタビュアー、エッセイストとして活躍中。父・阿川弘之について書いた『強父論』が話題となっている。

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