ちくま文庫

ゆるやかな時が流れる固着生活
ちくま文庫『わたしの小さな古本屋』

倉敷の美観地区の外れにひっそりと佇む古書店「蟲文庫」。無理をせず、できるだけ来るものを拒まず、個性的なお店を「意地で維持」してきた女性店主・田中美穂さんの帳場に座る日々を綴った本を、古本のメッカ・神保町で特殊古書店を営むとみさわ昭仁さんが紹介します。

 ぼくは、神田神保町で古本屋を経営している。経営とはいっても文筆業との二足のわらじであり、取材や打ち合わせなどで外出する用事のないときだけ店を開ける気ままな商売。いわば道楽のようなもんだ。
 これまで古本屋はおろか、客商売というものを経験したことのなかったぼくが、まったく未経験の業界へ足を踏み入れるにあたって、いくつかの参考書を読んだ。古本屋の先輩たちが開業のノウハウを書いた本だ。その中でもとくに印象に残ったのが、岡山県の倉敷にある蟲文庫の店主・田中美穂さんが書かれた『わたしの小さな古本屋』(原本は洋泉社刊)だった。この本が、迷っているぼくの背中を「とん」と押してくれた。
 彼女も、これまでどこかの店で古本屋の修業を積んだことはないと言う。それなのに、ある日突然、二年ほど勤めていたアルバイトを辞め、深い理由も決意もなく、なんとはなしに古本屋をはじめてしまった。店舗家賃の予算は五万円程度。そこから多少オーバーするものの、格安の物件を見つけることができた。倉敷という土地にいたことが幸運だったかもしれない。東京ではなかなかそうはいかないだろう。
 店づくりは完全に独力で済ませた。少ない開業資金を節約するため、本棚はすべて板から自作し、店頭の商品はこれまで集めてきた自分の蔵書を並べた。経験も資金もないという点では、ぼくも同じである。唯一違っていたのは、彼女が開業当時まだ二十一歳の乙女だったということ。さすがにそれを知ったときは驚いた。でも、ぼくの半分以下の年齢の女性にやれるのだから、ぼくにだってできるだろう。何度もこの本を読み返しては、そんなふうに開業への決意を奮い立たせた。
 彼女は、子供の頃から「数字」と「競争」が苦手だったそうだ。そんなところもぼくと共通するので余計に親近感が湧いてしまうのだが、しかし、これは商店の経営者としては大問題である。なんせ商人というのは、仕入れ、売り上げ、掛け率を帳簿につけ、競合する他店との競争に勝つことを目指さなくてはならないもの。のほほんと「わたくし数字や競争がどうにも苦手でございまして……」なんて言っていたら、到底やっていけない世界なのである。
 しかし、それでもなんとかなってしまうのが古本屋というものだ。そのことは自分も開業してみてよくわかった。
 古本屋にはふたつの側面がある。商品の流通がはやい都市部で、複数の人間を使ってたくさんの本を売り捌いていくスタイルと、人口密度がわりあいに低い地方で、本好きの主人が自分一人の食い扶持だけを稼げればいいというスタイルだ。神保町にあるほとんどの古本屋や大手チェーンの新古書店は前者であり、蟲文庫のような個人商店は後者に相当する。ぼくの店も、日本一の古本屋街にありながら、本業の片手間でやってる不定期営業だから後者に属すると言っていい。
 ただひたすら帳場に座り古本の売り買いを続けてきた自分の姿を、彼女は「めくるめく固着生活」と呼ぶ。岡山コケの会に所属し、趣味が高じて『苔とあるく』(WAVE出版)なんて本まで上梓した彼女は、己の姿さえも苔になぞらえる。
 都市の古本屋が、降り注ぐ陽光の下で豊富な肥料を糧にしてたくさんの花を咲かせ、落ちた種がまた次の花を咲かせるというサイクルで成り立っているとすれば、蟲文庫やうちの店などは日陰でひっそりと生命を維持する苔のようなものだ。
 「『これだけはどうしても嫌だ』とか『無理』『出来ない』というものだけを避け、あとはなるべく来るもの拒まずでやってきた、それが形になったのがこの店なのでしょう」
スピードと効率ばかりが求められる現代社会において、苔のような生活を人は笑うかもしれない。でも、そういうものとはまるで別の時間が流れる生き方だってあるのだ。
                   (とみさわ・あきひと ライター/古書店主)
 

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