ちくま新書

建築で「民主化」を語る理由

10月刊の松村秀一『ひらかれる建築』の冒頭を公開いたします。

多くの人にとっての建築

 建築。一般の読者の方にはわかりにくい世界だと思う。建築家と称する人がいるかと思えば、設計士などと呼ばれる人もいる。近くの工務店のおやじもいれば、巨大ゼネコンもある。そのそれぞれがどんな素性の人たちで、つくっているものにどんな違いがあるのか、なかなかわかりにくい。ましてその人たちがどんなことを考えて建築をつくっているのかは、全くもって理解しにくいのではないだろうか。

 でも、私たちは皆、四六時中その建築の中で暮らしている。建築の世界は、本来主役であるべき一般の人に開かれたものになるのが望ましいし、既にこれまでにつくったストックが十分すぎる程にある今日、一般の人が主役に躍り出る可能性がとても大きくなっている。本書は、その可能性、建築をもっと身近に感じ、楽しんで暮らしてもらう可能性を現実のものにしようという思いに基づいている。専門家はもちろん一般の方にも読んで頂き、一緒に楽しく豊かな建築の世界をつくり出していければと思っている。

 それでは、先ず似たような言葉、ケンチクとタテモノの違いから始めよう。

 

ケンチクとタテモノ

 フランク・ロイド・ライトのロビー邸、ル・コルビュジェのクック邸にラ・トゥーレット修道院、吉村順三の軽井沢の山荘、槇文彦の代官山の集合住宅、MLTWの住宅群シーランチ。建築が専門でない方にはわかりにくいかもしれないが、いずれも二〇世紀の世界的な建築家たちとその代表作と言われる建築作品である。

 大学の二年冬学期に建築学科に進学した私たちは、まずこれらの名作のパース(透視図)を描かされた。彩色のパースを提出しなければならないのだが、先生から渡された平面図と立面図等からでは色がわからない。建築の専門書を置いている書店に行き、それらの建築の写真が載っている作品集の類を探すのが週末の習慣になっていった。同級生との情報交換も欠かせなかった。そうこうしているうちに、自ずとそれぞれの建築作品に、そしてそれを設計した建築家に親しんでいった。同じ下宿の他学部他学科の学生たちは、四畳ほどの部屋に大きな製図版を持ち込んで、彩色パースを描き続ける私を「建築家」という目で見るようになった。その大きな製図版の下に布団をしいて寝るようになった私は、特異な専門を持ったことの誇らしさを感じた。

 これは一例に過ぎないが、建築学科に進学したほとんどの人が、多かれ少なかれこのような建築世界への入り方をしたのではないだろうか。その後は推して知るべし。知っている建築家やその作品の数は日に日に増え、その位置付けを知りたくて評論の類にも目を通すようになる。どっぷり建築づけになり、建築を「建築家」の「作品」として鑑賞し、評価することが当たり前になっていく。挙句、「作品」ではないまちの普通の建物は目に入らなくなってくる。カメラを持って目的の作品まで脇目も振らず一直線という具合である。

 そんな建築学生は多くの場合、自分の住むまちを形作るタテモノをケンチクとは見ていない。建築雑誌に写真が載るようなものではないし、大学で受けている日頃の設計指導からすれば、とてもまともに設計したものとは思えない代物だからだ。しかし、私たちの日常生活は、ケンチクではなくタテモノでできたまち空間で展開している。

 建築学生も遅かれ早かれこの矛盾した状況に気付く。私の場合は、大学院に進むまで気付いていなかったかもしれない。自分の創るケンチクを夢見ていたのだ。タテモノは関係ないものと思っていた。しかし、矛盾に気付いた途端、ケンチクもタテモノもでき方は同じであるという理解に達した。土地にはそれぞれ所有者とその事情や企てや好みがあり、それに従って好き好きに建てられた結果が、たまたまケンチクだったりタテモノだったりするだけだという理解である。この理解に達するとケンチクとタテモノの区別はどうでも良くなり、むしろ狭小な土地にそれぞれの所有者の勝手気儘に任せて建てられているということに「建築家」的な反感を持つに至る。それぞれに不恰好なのに個性を競い合うペンシルビル群に辟易としたりした。典型的な建築学生の心持ちだったろう。

 そんな私のありきたりな感性をひっくり返した一言がある。当時、デルフト工科大学のある教授と、東京でタクシーに乗った時のことである。ペンシルビルだらけになった通りを見ながら先生は次のように語った。

「これだから東京は好きだ。それぞれの土地に好き好きに建物が建てられている。これこそまさに「民主主義の風景」だ。ヨーロッパではこうはいかない。やれ色を揃えろだの、高さを揃えろだの、壁面線を揃えろだのと言われて、何一つ自由にならないのだから。ああ、東京がうらやましい」

 この一言を聞いて以来、私は、ゴチャゴチャしていると言われる日本の自由なタテモノでできたまちをかなり肯定的に捉えるようになった。日本の建築界では少数派のものの見方だとは思うが仕方ない。

「民主主義」という先生の言葉が、ケンチクとタテモノの間で揺れ動いていた建築学生の心に響いたのである。学術、芸術、技術としての専門領域の高い壁を築き上げ、その壁に守られながら、専門的に無知な人々にあるべき姿を押し付けるケンチクのあり方に大きな疑問符がついた。

 けれども、民主主義が、より幸せでより豊かな人々の暮らしを実現するために構想された体制なのだとしたら、私有されたそれぞれの土地に好き好きにケンチクやタテモノが建てられていることだけをもって、「民主主義の風景」などと言って良いだろうか。そうではないだろう。専門領域の高い壁に守られながら、価値の押し付けを繰り返すケンチクのあり方よりは、「民主主義」と呼び得る状態の方がずっと好ましく思えるが、一体全体、建築の世界において「民主主義」と呼び得る状態とはどういうものなのだろうか。

 

「民主主義」と呼び得る状態?

 長い間、この問いは私の頭から離れなくなっていた。けれども、容易に答えは見つからない。近代以降に本格的に築き上げられたケンチクの専門の壁は、十分に高く頑丈であり続けたし、そこら中で建てられるタテモノには、より幸せでより豊かな人々の暮らしを予感させるものは少なかったからだ。

 私の素朴な問いの前に立ち塞がるケンチクとタテモノ。現在のそれらを成立させた社会的な動きは共通している。近代化である。

 近代化は、偏在する物質、エネルギー、技術、知識を国家の或いは世界の隅々にまで行き渡らせようという動機に支えられた運動であった。その先には、すべての人が近代的な生活をおくれる状態が思い描かれていたに違いない。ケンチクはその象徴的な存在であったし、普及した技術と知識によって膨大な量のタテモノが経済行為として次々に建設されていった。この壮大な運動において、建築の利用者である人々の意見はほとんど傾聴されず、その自発性は軽んじられ、一九六〇年代以降、それが批判の対象となった時期もあったが、大勢は不変だった。

 ところが二一世紀も一〇年以上を経過した今日、状況は大きく変わりつつある。近代社会が蓄積してきた技術と建築のストックが溢れんばかりになり、人々がこれまでの定型とは異なる生活を志向し実践する際に、それらの社会的なストックを自由かつ有効に利用できる環境が整い始めているように見えるのだ。

 例えば、空室率の高まりが経営を困難にしている築古マンションを、居住者が内装や設備を好きに変えて良いという契約方式にすることで、均質だった各住戸が居住者の個性で彩られ、ご近所さんが週末のスポーツ感覚でDIY作業を手伝うことで、住民同士に新たな繫がりが生まれ、満室状態はおろか、それを知った人々の待ち行列までできたという事例。空き家や空きビルが増加の一途を辿っていた地方都市の中心市街地に、それらを低家賃で借りて、新たにスモールビジネスを立ち上げる移住者が相次ぎ、高々五年ほどの間に、八〇ものスモールビジネスの拠点が生まれたという事例。世界に発信できる今日的なアートセンターを実現したいというアーティストが、東京都心の廃校を、年間八〇万人が集うアートの拠点に仕立て上げた事例。

 専門家ではない空間の利用者たちが、既にある建物をより幸せでより豊かな人々の暮らしの場に仕立て上げる活動。それが各地で目立ってきたのである。近代社会が蓄積してきた技術と建築のストックを、自分たちの志向する生活に合わせて、人々が編集し始めたものと私は考えている。そして、この人々の活動が、私に想像できなかった「民主主義の風景」をつくり出すのだろうと期待せずにはいられなくなっている。

 

開かれていく建築の世界

 本書は、専門家が職能論を盾に長らく自らの領域と決め込んできた建築の世界が、普通の人々に開かれていくであろう近未来を見据え、その歴史的な意義を見定めるとともに、その変化をより豊かなものにする方法を見極めようとするものである。そこには、これまでの専門性に偏った建築の世界とは大きく異なる新しい世界が待っているという大いなる期待がある。

 ただ、待っているだけではことは動かない。開かれた建築の世界の実現、そしてそれが人々のより幸せで豊かな生活の場づくりに結びついていくために、私たちは何をすれば良いのだろう。その時代に相応しいいわば「作法」があるはずだ。本書では、「民主化」という分析軸で建築の世界のこれまでを振り返り、その中に埋もれていた作法の種を見つけ出し、今世紀に起こり始めた未来を予感させる各地での人々の活動の中に、作法の原型を探し出し、最終章において、いわば「民主化する建築」の時代の作法を明らかにしたいと考えている。しばしお付き合い頂ければ幸いである。

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