ちくまプリマー新書

身体でたどる人類史
『身体が語る人間の歴史』はじめに

10月刊行の片山一道著『身体が語る人間の歴史ーー人類学の冒険』(ちくまプリマー新書)の「はじめに」を掲載します。 

 ほかの動物から見たら、あるいは人間は、伝説上の怪異動物である鵺(ぬえ)のような存在なのかもしれない。

 その鵺というのは、頭はサル、胴はタヌキ、尾はヘビ、手足はトラ、声はトラツグミに似ているという。もしもカピバラかなにか、人間以外のほかの動物が動物園を経営するようなことがあれば、人間のケージには「ホモ・サピエンス、別名ヌエモドキ」といった変な名札がつけられるのかもしれない。

 人間は、それほどに、とらえどころがない存在なのだ。そんな人間を相手にするわけだから、人類学という学問もまた、鵺のようにとらえどころがない性格をもっている。そんな学問を専門としてきたのが、わが半生である。

 人類学者としての私は、なにはおいても「等身大の人間」主義、ことに人間の「身体主義」を看板に掲げてきた。すなわち、人間の文化や社会のことではなく、人間の身体のことに自らの関心を傾けてきたわけだ。たとえば、身体から見るときの人間という動物種の特異性だとか、人間集団の多様性だとか、一人ひとりの人間の個性だとか。あるいは、地域性や時代性として表れる身体現象の歴史性だとか、――そんな問題に強い関心を寄せてきた。

 本書は、そのような「身体主義」の人類学の視点から、人間という存在をとらえなおしてみようとする試みである。どの著者にも、それぞれ独自の哲学があり、書き方があるものだが、私なりの引き出しから、いくつかのテーマを取捨選択した。それらをブレンドしようとしてみた。もちろん、もっと多くのテーマを選んでみたのだが、その多くは捨てた。「なにかを捨てない者には、なにも得られない」のたとえどおりに。その結果として、目次のような内容となった。

 私は人類学者としては、一見すると「身体」系のスペシャリストのようなのだが、よくよく考えると「なんでも」系のジェネラリストだったのかもしれない。あっちに行ったり、こっちに来たり、あれやこれやの迷い道、道なき道を行き来してきたものだ。

 ときに「見境ないですな」と言われつつも、世界のあちこちに出かける機会をいただいた。だから現地調査の臨場体験、つまりは喧嘩の場数を踏むことには恵まれた。そんな記憶が今となっては遠い昔の線香花火のようだ。あのとき思ったこと、そのとき考えたことが、今もパチパチとはじける。その一方で、考古学の遺跡で発掘される古人骨(こじんこつ)の研究にもいそしんだ。おかげで「書斎派」の蘊蓄はないものの、「考える足」派(第2章参照)の思考法が身についたようだ。

 本書でも、あっちに行ったり、こっちに来たり、あれこれと冒険してみた。

 第1章では、なぜに人間は「ヌエモドキ」であるのか、そのゆえんを「身体主義」の立場から解読してみた。そして、そうした人間のおかしな異形性(つまりは人間性、あるいは人間らしさ)が、まだ人類と呼ばれる頃からの移動癖の帰結であることを考察する。そう、人間とは「考える足」なのである。

 第2章では、人類学とはなにか、特に私が専門とする自然人類学とはなにかについて、ポリネシアでのフィールドワークを題材にして紹介する。ポリネシア人の身体特徴を調べていくと、彼らのアジア人起源を物語る興味深い事実が浮きぼりになってくるのだ。

 第3章以後は、哺乳類の常識から逸脱するような人間の特性、つまりは人間の人間たるゆえんについて、つぎつぎと数えあげてみた。そうして、そのいくつかを各章のテーマにしようと目論んだ。

 まず第3章では、人間の多様性について考えてみた。人間はみな、ただ一つの種のはずなのに、多様性のほどは、ただごとではない。でも本質的な違いではなく、それは見かけのことにすぎない。人間が移動人(ホモ・モビリタス)であり、ことのほか移動性と放浪性に長けるがゆえのこと。ともかく、人間の移動性と人間の多様性とは、扉の内側と外側の関係のようなものだ、と指摘しておいた。

 なによりも人間は旅が好きだ。ただ旅をするだけではない。ときに弾かれたように壮大な旅をする。さらには、海のうえをも旅する。さらにさらに、海上を移動するだけでない。海中活動が達者な人たちもいる。陸を歩くように海を泳ぎ、まるで海獣のように潜水する者さえいるのだ。この海と関わりの深い性格は、ほかの陸上哺乳類では類をみない。どんな成りゆきを経て、人間は海と近しくなったのだろうか。その歴史を簡単にたどろうと試みた。

 第4章では、さらに連想ゲームをふくらませた。人間の多様性の延長線上にある少々しんどい問題、いわゆる「人種」概念の問題について考えてみた。この問題はながらく、わが頭のなかに棘のようにしてある。そこで唐突のそしりを免れないだろうが、この概念の曖昧さとまぎらわしさ、「人種」言説のかびくささに対して、いささか青くさい議論を傾けてみた。身体的多様性と心理的多様性、身体的差異と気質的差異などとをからめる「人種」論の残滓(ざんし)のようなものが、まだ案外、われわれの無意識の底に潜むように思えるからだ。

 また、本書では、いくつかの章にまたがり視点を変えて、「ポリネシア人のことを知ってほしい」というメッセージを発している。第5章では、「海をめぐる人間の歴史」と題して、人間の生活環境としては特殊すぎる南太平洋の島々のこと、ポリネシア人の祖先たる「石器時代の遠洋航海者たち」がなし遂げた島々の発見・植民・開拓のこと、ポリネシア人に独特の身体特徴のこと、彼らが育んできた生活と文化と歴史のことなどを、つまみ食いするように紹介した。

 第6章では、その乗りが昂じて、あえてポリネシア人とラグビーとの関係について、あれこれと触れてみた。人間という存在のありかた、普遍性と個別性、来し方と行く末などを考察するべくモデルとなると考えたからである。

 最後に、第7章では、いわゆる「明石原人」と「高森原人」について論じた。いまは幻の「明石原人」は、昭和のある時期、こと日本では有名すぎる人類であった。その名前は忽然として、歴史教科書や歴史物の類から消えうせた。「明石原人」は一九八〇年代のこと、その仲間の「高森原人」は二〇〇〇年のことである。それらの名前が生まれ、あるとき市民権を獲得し、人知れず消えていった経緯につき、いささかなりとも総括しておくのは、少なくとも人類学に身をおく者には義務のようなものだろう。身体の歴史を研究する際の大きな問題が潜んでいると考える。げに昭和は遠くになりにけり。

 ともかく本書を通じて、読者のみなさまの人間観が深まり、人間の歴史に対する「身体主義」の見方が少しでも広く根をはることになれば、そんな人類学を稼業としてきた私は、まことに果報者ではある。

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