ちくま学芸文庫

不完全性の権威

異色の読書論/教養論として話題を呼び、世界30カ国で翻訳されベストセラーとなった『読んでいない本について堂々と語る方法』。本書がもつ奥行きの深さをあざやかに浮き彫りにする、気鋭の哲学者による論考を、PR誌「ちくま」11月号より掲載します。

 権威とは、何だろうか?――僕がこの概念をしきりに気にするようになったのは、ピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』に衝撃を受けて以来だったか、それより前からだったか、思い出せない。ともかく僕の頭のなかで、権威の問題は、バイヤールのあの本と密に関係している。
 僕は、「ちゃんとした」読書をせねば、という強迫観念を、バイヤールの本によって、ある程度は解消することができた。「読書の完璧主義」とでも言うべきものからの解放(しかし完璧な解放ではないのだが)。あらゆる読書は不完全である、そうでしかない……。そんなことは、わかっていたつもりである。読み落としがある、読んだそばから忘れていく、記憶は変質していく……。最後までページをめくったときのカタルシスは、形骸的なものでしかない。読書体験の実質は、律儀に最後までめくるのでも、ざっと流し読みするのでも、結局は不完全なのである。読書のこうした一般条件を確認することで、我々は積極的に、必要に応じての流し読みでも「読んだ」と言えるし、目次だけで構成を摑むのでも「読んだ」と言えるし、と、多様な読書のあり方を肯定できる。というようなことは、僕もそんなものだろうと思っていたはずなのである。しかし、その認識はモヤモヤした不安定なものだった。バイヤールという権威的な他人から改めて言われることで、僕のその認識は、ぐっと確かに固められた(……完璧にではないが)。
 自分(の読書)は不完全であってよい、そうでしかないのだからそれでよいという認識を、他人によって、その「不完全性の権威」によって、サポートしてもらったのである。逆に言えば、自分一人で自分(の読書)の不完全性を「これでいいのだ」と権威化することが、十分にできていなかったというわけだ。
 これでちゃんと読んだと言えるのか、という際限ない疑い、自己批判を、他人=バイヤールが、権威的に遮断してくれる。僕はバイヤールの学者としての権威を知っている。かのバイヤールがみずから認めているのだから、僕も不完全でいいのだ。注意してほしいが、バイヤール自身も権威に頼っている。あの本は、ヴァレリーの流し読み、モンテーニュの忘却、等々に依拠して論を展開している。
 これはつまり、「不完全性の権威のリレー」とでも言うべき事態である。
 不完全性の権威は、「こうあるべき」と命じる「規範」に対立するものだ。規範的な権威というものもある。対して、不完全性の権威とは、「非規範的な権威」である。それは、「こうあるべき」の引力圏から、「これでいいのだ」を分離する。
 以前、こんなことを思った。「不完全性の博覧会」を見たい。たとえば、ミスのある事務書類や、いいかげんなメールや報告書を、きれいに額装でもして、「これでも通用してるんですよ」とずらりと並べる。晴れやかな気持ちになるに違いない。これでいいのだ、と。おそらく、インターネットでの人のアラ探しが日に日に悪化しているこのご時世でそんな展示をやったら、ごく単純に「問題が明らかにされた」ことになってしまうのかもしれないが……。
 不完全なものというのは、ひそかにその存在が「泳がされている」ものなのだろう。不完全なものがその存在を強いて誇示するならば、公的な規範は、重い腰を上げてそれを排除しにかかるしかなくなるのだろう、建前としては。グレーな事柄は、強いて言挙げするべきではないのだろうか?
 そうだとしても僕は、グレーなことをグレーで「文句あるか」と堂々と言い張ることの、無謀な爽快感に惹きつけられてやまない。グレーなものは、通常息を潜めてはいても、ときにその姿をふてぶてしく見せつけるのでなければならないと、僕は思うのだ。ある不完全性が、姿を誇示することで呼び寄せてしまう攻撃をまったく意に介さず、その圧倒的な、恫喝的と言ってもいい「これでいいのだ」に居直ることへの肯定が、おそらく人間の文明には必要不可欠なのである。


(ちば・まさや 哲学/表象文化論)

 

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