ちくまプリマー新書

高校や中学の公民で習う、裁判所や法制度の理解に

『裁判所ってどんなところ?――司法の仕組みがわかる本』の冒頭部分を紹介します。

第一章 日本の裁判所はいつからあるか

1 「遠山の金さん」「大岡越前」は裁判所の人?

 裁判に関するテレビ番組と言えば、現代物の法廷劇のほかに、「遠山の金さん」や「大岡越前」が活躍する時代劇があります。「遠山の金さん」や「大岡越前」は、法律的観点で見た場合、何をしているのでしょうか。関係者をお白洲に引き出して悪人を懲らしめたり、善人を救済したりしていますが、あれは裁判をしていると言えるのでしょうか。裁判らしきことをしているようにも見えますが、では、「遠山の金さん」や「大岡越前」は、裁判官なのでしょうか。「遠山の金さん」や「大岡越前」の役職は、もちろん、お奉行ですが、いまの時代に引き直した場合、裁判所の人と言えるのでしょうか。そもそも、「遠山の金さん」や「大岡越前」が働く場所は、裁判所なのでしょうか。
 実は、これは、「裁判所」というものを考えるうえで、大きな手がかりを与えてくれます。
 国家があるかぎり、また、私たちの社会があるかぎり、必ず裁判が必要となります。裁判というものがないと、人間社会で生ずる紛争を解決することができません。また、罪を犯した者に罰を科すこともできません。前者の紛争解決機能が民事裁判、後者の刑罰実現機能が刑事裁判と呼ばれているものですが、要は、これらなしでは、私たちの世界は混乱した無法状態になってしまいます。「遠山の金さん」は、お白洲で、もろ肌脱いで桜吹雪(さくらふぶき)を見せ、啖呵(たんか)切っていましたが、ともかく最終的には、町人や農民や武士や浪人たちの間で生じたトラブルを解決したり、悪事を働いた者を罰したりしていました。ですから、「遠山の金さん」や「大岡越前」がやっていたことは、裁判であると言っても間違いではありません。
 ところが、それにもかかわらず、「遠山の金さん」や「大岡越前」は裁判所の人かと言えば、そうは言えません。また、「遠山の金さん」や「大岡越前」が働く場所は裁判所かと言えば、そうではありません。そのころは、日本では、まだ、裁判所というものがありませんでした。
 そう、日本の裁判所は、とても歴史が浅いのです。
 日本の法制度や政治制度は、明治期の西洋化・近代化によって、西洋の諸国家の仕組みを輸入することで生まれ変わりました。それによって、はじめて裁判所が生まれたのです。


2 とても歴史の浅い日本の裁判所

 日本の法制度は、明治期に西洋の法制を取り入れる前は、律令(りつりょう)制でした。
律令制とは、律(りつ)と令(りょう)を基本とする国家のことで、「律」とは刑罰法規、「令」とは行政法規を意味します。つまり、犯罪の取り締まりと行政についての定めを中心とする国家のことです。律令国家では、為政者と官僚が中心で裁判所は独自の存在意義を持ちません。「遠山の金さん」や「大岡越前」は、この律令国家の役人として職務を行っていたわけです。
 日本では明治の初めに、この律令制を捨て、西洋法制を取り入れます。それは、日本をとりまく当時の国際状況に即応するためのものでしたが、あまりに先を急いだものでもありました。そのため、大変な軋轢(あつれき)を生じました。
 有名な逸話として、初代司法卿(しほうきょう、法務大臣)となった江藤新平は、早く外国の法令を取り入れるために、「誤訳も妨げず、ただ速訳せよ」と命じたと言われています。
 実際、たとえば、明治初期に刑事裁判のやり方を西洋にならって定めた際には、裁判官と検察官の区別がどうしてもわからず、検察官は裁判を傍(かたわ)らで直立不動で見ている者とされました。
 何しろ、当時の日本では、ついこの間まで、「遠山の金さん」や「大岡越前」のようなお奉行が裁判をしていたわけです。お白洲には、「遠山の金さん」や「大岡越前」のほかには主役となる役人はいません。それ以外に、もう一人、重要な登場人物がいるなどと外国文献に書かれていても、想像がつかなかったのでしょう。
 明治六年(一八七三年)に制定された断獄則例(だんごくそくれい)では、検察官とは傍らにいて「きをつけ」をしている者と定義されています(「傍ニ在テ査核(キヲツケ)ス」)。
 このように、短期間のうちに急速に西洋の法制を取り入れようとして、無理に無理を重ねたのが日本の近代化でした。

3 裁判所≠「裁判をするところ」

 さて、ここで、読者のみなさんに「裁判所ってどんなところ?」という問いかけをしたら、どういう答えが返ってくるでしょうか。答えとして「裁判をするところ」というのは、完全解とは言えません。なぜ、不完全なのか、その理由は、もう半分出てきました。
ただ、この点は、「裁判所」というものを考えるうえで、とても大事なことなので、あらためて詳しく取り上げてみましょう。
 すでに出てきましたが、国家・社会と裁判とは、切っても切れない関係にあります。有史以来、紛争を解決するために、あるいは法を破った犯罪者に罰を科すために、人間社会では裁判が行われてきました。原始社会では族長によって、古代では王をはじめとする支配者によって裁判が行われました。日本の場合、裁判は、古代には天皇や豪族、貴族によって、中世には武家政権の上級武士たちによって、近世には幕府や藩の役人によって行われてきました。「遠山の金さん」や「大岡越前」は、最後の「幕府の役人」に当たるわけです。
 ですから、「遠山の金さん」や「大岡越前」がやっていたことは裁判には違いありません。
 ところが、「遠山の金さん」や「大岡越前」は裁判所の人かと言えば、そうではなくて幕府の役人、いまふうに言えば、行政府の人です。
 裁判と裁判所との間にはギャップがあるのです。これは、見過ごしがちなギャップですが、ここに、私たちが「裁判所ってどんなところ?」なのかを考える一つの鍵があります。裁判と裁判所との間の一見不思議に思えるギャップには、裁判所が裁判所と呼ばれるゆえんが隠されています。
 裁判所は、政治権力から独立して、中立的な立場で裁判を行うからこそ、裁判所と呼ばれるのです。政治権力から独立していること、それが裁判所の本質です。なぜ、それが本質となるかと言えば、時の政治権力に影響された裁判が行われるならば、裁判を受ける立場からすると、裁判を受ける意味が激減するからです。国王に対する叛逆罪(はんぎゃくざい)の疑いをかけられた者が国王から裁判を受けても、ほとんど意味はありません。天領(徳川幕府の直轄領地)と境を接する土地の所有者が土地の境界を決めるために、幕府の役人に訴え出ても、公平な裁きは望めません。
 政治権力から独立して裁判を行う仕組みだけが「裁判所」の名に値するわけです。逆に言えば、たとえ裁判所という名前がつけられていても、政治権力から独立していないような組織や機関は裁判所の実質を持ちません。そのくらい、大事なことが、この「政治権力から独立して裁判を行う」という特質です。法律学の世界で、「司法権の独立」と言われる事柄です。

†「裁判権」と「司法権」どこがどう違う?
 以上の点はとても重要なので、法律学の分野では、裁判権と司法権とで、言葉の用い方を区別するべきだと言われているほどです。
 国家や社会と裁判は、切っても切れない関係にありますから、裁判権は太古の昔からありました。そして、それが裁判という形で行使されてきました。
 裁判権をめぐる問題は、世界の歴史にも古くから表れていて、中世ヨーロッパでは、教会(教皇)と世俗権力(皇帝)が裁判権をめぐって争い、近世の絶対王政の時代には、封建領主の裁判権が国王の裁判権に吸収され、統一されていきました。
 他方、近代になって、国家の公権力のうち、裁判をする権限が他の権限である政治権力から独立してきます。それによって、はじめて裁判の非政治性が確保されます。そして、さらには公平性や公開性や迅速性などが次第に備えられ、「公正な裁判」が実現されていくのです。
 そこで、国家の公権力のうち、歴史的に他の権限から独立したものを「司法権」と言って、「裁判権」と区別することが必要になってきます。
 このような用法からすれば、国王がやろうが、封建領主がやろうが、「遠山の金さん」がやろうが、「大岡越前」がやろうが、裁判は裁判には変わりなく、また、軍法会議であろうが、革命裁判であろうが、裁判権の行使には変わりないかもしれませんが、それらは司法権の行使とは言えないことになります。
 最初の「問い」「答え」に戻りましょう。
「裁判所ってどんなところ?」という問いかけに対する正解は、「政治権力から独立して裁判をするところ」となります。

†裁判を受ける権利
 これまでに述べたところからわかるように、同じ公権力でも、政治的権力と裁判所とは区別されます。以下では、政治的権力の別称として「政府」という言い方も出てきます。「裁判所とは対立的な公権力」というニュアンスの用法ですが、このような言い方ができるのも、裁判所には司法権の独立があることが根拠となっています。
 また、以上は、裁判を受ける側から見た場合、大きな意味を持ちます。それによって裁判の非政治性.中立性.が確保され、国民一人一人にとって権利の救済のよりどころとなります。
 それを指して、「権利保障的な裁判」と言うことができます。すでに出てきたように、ヨーロッパでは、一七世紀から一八世紀にかけて、裁判をする権限だけが国家の他の権限から独立して、近代的な司法制度が成立します。では、日本で、このような意味の裁判が成立するのは、いつごろでしょうか。
 明治初期は、誤解や混乱を重ねるだけの試行錯誤の期間でした。
 明治も半ばを過ぎた時期に、日本の裁判所の歴史を画する「大津事件」と呼ばれる事件が起きます。
 それは、日本訪問中のロシア皇太子が滋賀県大津で日本人巡査によって傷害を負わされた事件(暗殺未遂)で、この事件の裁判をめぐって、大騒動が沸き起こります。政府はロシアの報復をおそれて、被告人を死刑にするように裁判所に圧力をかけます。元老・伊藤博文をはじめとして、総理大臣・松方正義、司法大臣、外務大臣、内務大臣、逓信(ていしん)大臣、農商務大臣らが次々に介入し、適用する刑法の条文を「通常謀殺(ぼうさつ)未遂罪」から「皇室に対する罪」に変えるように大審院長(現在の最高裁判所長官)児島惟謙(こじま・これかた)に迫りました。当時の政府部内の強硬意見はすさまじく、逓信大臣、農商務大臣の両名は、「裁判所側が聞き入れない場合には、刺客を放って収監中の被告人を暗殺すべし」との意見具申を元老たちにしていたほどでした。これに対して、裁判所は、紆余曲折(うよきょくせつ)の末、大審院長を中心にして、何とか政府筋の圧力をはね返し、死刑を回避して無期懲役の判決を出すことに成功します。
 この出来事は、司法権の独立に関する記念碑的事件となりました。
 大津事件の判決は明治二四年(一八九一年)に出されていて、日本の裁判所が司法権の独立を獲得したのは、その時と見ることができます。それまでは、裁判所の名は冠していても、「遠山の金さん」や「大岡越前」の奉行所とどれだけ違うのか、大いに疑わしいところがありましたが、それ以降は、一応は政治権力から独立して裁判を行うことができるようになったのです。
 日本で「権利保障的な裁判」が成立したのも、その時ということになります。したがって、本当の意味での日本の裁判所の始まりも、そのころと言えるでしょう。
このような観点から、「遠山の金さん」や「大岡越前」がやっていたことを言い直してみましょう。「遠山の金さん」や「大岡越前」は裁判をしていたことには違いありませんが、権利保障的な裁判をしていたわけではありません。
 日本国憲法は、広く「裁判を受ける権利」を定めていますが、これは、権利保障的な裁判を徹底した考え方と言えます。
 以上を簡略化して言えば、「裁判所―司法権の独立―裁判を受ける権利」というひとつながりの図式が、近代の裁判所の姿を表しています。文章にして言えば、「司法権の独立が保障されている時、裁判所の行う職務は、裁判を受ける側から見て中立性や公平性が保たれた権利保障的な裁判として成立する」ということです。

4 裁判所の日本近代史

 明治維新と同時に、新政府は法制度の急速な西洋化を図ったこと、それに伴って大きな無理や混乱や戸惑いが生じたことは前に述べました。急転直輸入された西洋の法制度は、「士農工商」の身分から四民平等となったばかりの当時の国民にとって、まったく縁遠い話だったに違いありません。それどころか、明治政府自身にとっても、先ほど触れた断獄則例のエピソードにみられるように、西洋法制は、まだ十分に理解できないものだったのです。
 ここでは、明治維新後から現在に至るまでの日本の裁判史をざっと振り返ってみましょう。

†初代法務大臣を死刑に
 明治初期には、新政府に不満を持つ在郷士族による反乱が次々に勃発しました。佐賀の乱(一八七四年)、熊本・神風連(じんぷうれん)の乱(一八七六年)、福岡・秋月(あきづき)の乱(一八七六年)、山口・萩の乱(一八七六年)、西南戦争(一八七七年)が続き、かたや、岩倉具視(ともみ)襲撃事件(一八七四年)や大久保利通(としみち)暗殺事件(一八七八年)も相次ぎました。
 このころは、まだ、明治維新後、新政権が成り立つかどうかの瀬戸際で、国の統治機構全体が極めて不安定だったのです。
 佐賀の乱では、初代司法卿であった江藤新平が反乱の首謀者として死刑になっています。 その裁判では、内務卿(内務大臣)の大久保利通が一切の指揮権限を得て乗り出し、江藤らの死刑を事実上決めてしまいましたが、是非に及ばず、明治政府が成り立つように、何としても裁判をコントロールしなければならなかったわけです。その大久保も、四年後には暗殺されます。
 裁判所のあり方をどうするかどころの話ではなかったと言えます。
 また、国家として急激な西洋化を図ったものの、思ったように近代化が進まないという事情もありました。そのあたりの事情は、たとえば、当時、西洋化を期して編纂(へんさん)に着手したはずの刑事法典が、出来上がってみると未(いま)だに律令の影響を強く残したものになっていたことなどにも見られます(新律綱領、改定律例)。

†調味料を欠いた五目ずし
 さらには、むやみに西洋諸外国の法律を翻訳して取り入れた結果、法律間で矛盾や食い違いをきたし、全体をどう理解すればよいかわからない状態になり、明治一五、一六年ころになっても、まだ、政府首脳の頭の中で混乱が続いていました。
 そのころの様子は、元老・井上馨(かおる)の話として、次のように聞き書きに残されています。

「続々制定せられたる法律には、英国主義もあれば、ドイツ、フランス主義もありて、その様はあたかも調味料を欠ける五目鮨(ずし)の如(ごとく)」「法と法との間に自ら連絡を欠き……相互に衝突を免れざるの結果を生ぜしならん」「勿論(もちろん)明治一五、六年の頃には日本の法律家中に……博学多識の法律学者はいまだ乏しき時代なりし有様なれば、かくの如き結果を見るもまたやむをえざる次第」と(尾佐竹猛(おさたけ・たけき)『日本憲政史の研究』)。

 そうした揺籃(ようらん)期の混乱を経て、明治二二年(一八八九年)に大日本帝国憲法が制定・公布されます。憲法は翌年施行されて、ここに立憲制(立憲君主制)が開始されます。
 また、明治二四年(一八九一年)には、国論をゆるがす大津事件が生じ、裁判所はその審理を通じて司法権の独立を何とか獲得します。

†立憲主義の成立と裁判所のその後
 大津事件によって裁判所は曲がりなりにも独立の形を整え、日本においても西洋型司法制度が軌道に乗るかに見えました。
 ところが、その後も、裁判所は急激な変化の波に洗われ続けます。
 立憲主義(「国家権力の行使は憲法にしたがう」という思想)のもとで、やっと裁判所が本来の姿を見出しつつあった矢先、社会主義、無政府主義などの新思想が日本に入ってきます。政府は、これらの新思想を危険視し、罰則規定を設けて運動の広がりを禁圧しようとしました。そのため、裁判所は、罰則の適用を通して政府の思想統制につき合わされるようになり、一九〇〇年ころには、図らずも思想裁判に力を割かれるようになります。
その後、一九一〇年の大逆(たいぎゃく)事件、一九二五年の治安維持法の成立を経て、裁判所は、さらに深く思想弾圧のための国家的仕組みに組み込まれていきます。大逆事件は、幸徳秋水ら社会主義者二十数名が天皇に危害を加えようとしたという疑いをかけられて死刑になった出来事で、極めて短期間の審理で死刑判決が言い渡され、執行されたことで、日本の裁判史に汚点を残した事件でした。
 その結果、大正デモクラシーの高揚や普通選挙の実施(一九二五年)にもかかわらず、司法の本領を発揮することができませんでした。政府の反体制運動の取り締まりと一線を画して、裁判所が国民の権利を守るという明確な姿勢は、ついに見られずに終わりました。
 さらに、戦争が近づくにつれ、裁判所は次第に、積極的な体制擁護の姿勢に反転していきます。そして、太平洋戦争突入とともに、全面的に反体制処断を推し進める道を選び、戦時体制の中に完全に埋没していきます。

†戦後大きく変わった裁判所
 敗戦後、日本国憲法の公布によって、日本の裁判所は、今度は、一夜にしてアメリカ型の司法に変わることになりました。
 日本国憲法は、まず、日本の主権の所在(国のあり方)と政体(政治制度のあり方)を根本的に変更するものでした。天皇主権から国民主権へ、立憲君主制から民主制へと変わりました。
 また、国民の人権保障は、それまでの「法律による保障」から、「憲法による保障」に変わりました。法律による保障とは、「法律によらなければ、人権を制限されない」ことを意味しますが、憲法による保障とは、さらに一段、保障の度合いを高めたものです。そこでは、「法律によらなければ、人権を制限されない」だけでなく、人権を制限する法律が憲法の定めに反する場合、その法律は無効とされるという形で、人権保障のレベルが高められています(言いかえれば、「憲法に適合する法律によらなければ、人権を制限されない」こと)。
 それに伴って、法律が憲法に反していないかどうかを他律的に判断するために、裁判所に違憲立法審査権が与えられることになりました。違憲立法審査権は、すぐれてアメリカ型の制度です。
 刑事裁判も、従来の大陸型.ヨーロッパ型.からアメリカ型のものに変わりました。
 以上に加えて、ほかの面でも、裁判所の役割がクローズ・アップされることになりました。日本国憲法には、現代諸国家の憲法の中にあっても他に類を見ない大きな特徴がありました。戦争放棄と平和主義です。そのため、裁判所がこれらについてどのようなスタンスをとるのかが注目されることになったのです。

コラム1 日本人の伝統的意識とのギャップ

 日本の法制度は、明治期の西洋化・近代化の一環として、急激に変わりました。それは、近代世界史の中における日本という国家の宿命でした。しかし、同時に、日本人のそれまでの法意識とは大きな違和感のあるものでした。
 福沢諭吉の『学問のすゝめ』にも、次のようにあります。「譬(たと)えば今、……裁判所の風(ふう)も改まりて、……その習慣俄(にわか)に変ぜず」。西洋風に裁判所が変わっても、儒教的伝統に基づく人々の法意識や政治意識はまったく変わらないと言っています。そして、意見があっても、お上には逆らわず、事なかれ主義で無事を決め込んでいると嘆いています。
 日本の場合、聖徳太子の時代から続いた律令国家の伝統がありました。他方、ヨーロ
ッパでは、古代ギリシアの民衆裁判など、まったく異なる伝統がありました。
 一般に、東洋的な律令制と西洋法制では、次のような違いがあると言われています。
 律令国家では、国のあり方と統治の仕方を定めることに主眼が置かれ、法を為政者の命令と見る傾向が強く、基本的に個人の権利は定められません。国を統治する為政者や官僚には、それに見合った徳や心構えや配慮が要求されますが、反面、民衆には命令に従うことが求められます。
 かたや、西洋法制では、法は万人に共通の自然的、根源的なものという理解が強く、何かの手段とみなされることは基本的にありません。また、西洋における「法」の観念と「権利」の観念とは、もともと一つのものを表していて、そのため、法制度を権利義務の体系として理解する傾向が強いとされています。
 図式的には、東洋は「法による支配」(法を手段とした支配)、西洋は「法の支配」(何人(なんびと)も法に服する形の支配)、東洋の法は「命令」、西洋の法は「コンセンサス」(合意)という特色を持つと言われます。
 わが国の場合、明治期の急激な西洋化、敗戦によるアメリカ型法制度の導入という特殊な歴史的条件のもとで、司法権の独立や違憲立法審査権などの近現代的な裁判制度がどれだけ根をおろしたと言えるか、常に問い返されることになります。
 他方、一国の司法制度は、その地域的環境や国民の法意識に支えられた固有のものであるはずで、どちらが進んでいて、どちらが遅れているという問題ではありません。法制度と法意識とのギャップが埋まらない以上、聖徳太子以来の「和」や儒教的な「義」などの観点から欧米的な枠組みを再構成していく必要もあるように思います。
 二〇〇九年には、市民が刑事裁判に参加し、裁判官と変わらない権限で判決に関与する裁判員制度が始まりました。裁判員制度は、司法の中に市民感覚を取り入れるものです。そこは、また、日本の社会思想をはじめ、「道」「和」「義」「仁」などの日本的・東洋的な価値観が生かされる場でもあります。

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