資本主義の〈その先〉に

第12回 資本主義的主体 part1

1 負債へと差し向けられた存在

消えない負債があるかのように振る舞う

 ニーチェは、『道徳の系譜』で、負債感を、人間の人間たる所以、人間を他の動物から分かつ特徴だとする見解を提起している。人は約束をすることできる。とりわけ、返済の約束を。言い換えれば、自分が他者たちに対して債務があることを認識できる。これが人間らしさの条件だと、ニーチェは論じている(1)
 われわれは、前章で、前資本主義的な利子について考察した。徴利が禁止されていたルネサンス期においても、金融技術の工夫によって、事実上の利子をとることができた、と(連載第9回、図「メディチ家の金融技術」)。それは、形式的には両替である。われわれが使用した例では、最初に、Aは、ヴェネチアで、ヴェネチアの市民として、メディチ家のヴェネチア支店から1000dを借りた。6ヶ月後に、Aは、およそ7%に相当する利子を付けた金額1068dを、メディチ家に返している。Aは、「ロンドンにいる彼(A)の代理人B」の代理人として、返済にあたっている。簡単に言えば、6ヶ月後の返済においては、彼は、ヴェネチアにいながら、ロンドン市民として、その責務を果たしているのだ。このとき、メディチ家のヴェネチア支店も、ロンドン支店の代理人である。端的に言えば、法的には、借りたときと返すときでは、Aは(そしてメディチ家も)別人なのだ(A1≠A2 ∵A2=B)(2)

 A1ヴェネチア—(代理人)→Bロンドン—(代理人)→A2ヴェネチア
 A2は、自分自身A1の代理人Bの代理人である。

 したがって、次のように言うことができるのではないか。二つのアイデンティティ、この丶丶都市(ヴェネチア)の市民としての資格と遠くの他の丶丶(ロンドン)の市民としての資格が、端的に同一人物に内在すると見なされるようになれば、つまり両者が単一のアイデンティティの内に統合されるならば、このとき、はじめて、固有の意味での利子が、正当な経済的なカテゴリーとして受け取られるようになるのだ、と。言い換えれば、本来の意味での利子が成り立つときには、借りたときのAと返すときのAは同一であり、そのことに、何らの道徳的な問題もない、と社会的に承認されなくてはならない。ルネサンスは未だ、この段階には到達していない。
 このことは、ニーチェが着眼した「負債」という現象と関連づけて言うと次のようになる。Aは、メディチ家から1000dを借りれば、当然のことながら、それに相当する(1000d分の)債務をメディチ家に対して負う。利子の分(約7%に対応する68d)は、過剰な負債、時間が経過したことによって生じた過剰な負債である。ルネサンス期の公認の解釈では、その過剰分に対しては、直接的には丶丶丶丶丶Aは返済の義務をもたない。それは、形式的には、Bの(メディチ家に対する)負債(の一部)なのだ。したがって、逆から見れば、利子が完全に正当化されるのは、この過剰分もまた、Aの直接の負債と見なされるようになったときだ、ということになる。利子の正当性が社会的に承認されているということは、近代的な資本主義のための必要条件であり、また資本主義が成立していることの指標でもある。
 それゆえ、資本主義の下では、Aの負債は、単純に時間が経過するだけで増加していくのだ。このことを考慮に入れれば、資本主義に内在する主体にとっては、負債は完全には消えず、それはいつまでも完済されることはない、ということになるはずだ。個々の借金に対しては、債務が履行される、ということはあるだろう。しかし、彼の債務が一般的にすべて消えることはない。なぜならば、時間の経過とともに、彼は、潜在的にはより多くの債務を負うことになるからだ。その債務の大きさを示す外的な指標が利子である。
 ここで連載第5回の冒頭で述べたことを思い出してほしい。われわれは、マックス・ヴェーバーに依拠して、ヤーコブ・フッガーとベンジャミン・フランクリンを比較した。前者は、資本主義以前の精神に属し、後者は資本主義の精神を代表する、と。両者の根本的な違いはどこにあるのか、ここであらためて振り返っておこう。簡単に言えば、フランクリンは、消えない負債があるかのように、支払っても支払っても完済されない──もしかすると支払えば支払うほど増大していく──借金を負っているかのように振る舞っているのである。「時は金なり」という教えは、ここから出てくる。時間の経過とともに蓄積される負債がある以上、時を無駄に使うことは──返済に役立たない仕方で時を費やすことは──、「罪」を拡大することを意味している。つまり、フランクリンにとっては、富を増やさないことは、大きな罪である。彼の貨幣獲得が、ヴェーバーが述べているように、「倫理的な色彩」を帯びるのはそのためである。フッガーにとっては、まったく逆である。キリストが、金持ちが天国に行くことはラクダが針の穴を通過するよりも難しいと言っている以上、蓄財したことが、──冒険的・侵犯的な快楽を伴ってはいるが──罪である。
 現在の動物行動学や社会生物学の知見を前提にしたとき、ニーチェが言うように、負債を認識し、それを返済することが人間を特徴づける条件なのかどうか、その点についての判断は留保しておかなくてはならない。ただ、いずれにせよ、伝統社会、資本主義以前の社会においては、負債は限定的であり、清算されうるものであった。これに対して、資本主義を資本主義たらしめている条件は、負債が永続化すること、決して完済されえないものになることである。
 この文脈で、連載第7回(補論)「ギリシャ危機の何が危機なのか」で述べたことを思い起こしておいてもよいだろう。ギリシャが、EUの他の諸国から批判されたのは、ギリシャが借金を返済しないからではない。ギリシャが、借金を背負っているのに、しかるべき罪の意識をもっていないことが他の諸国を憤激させたのである(3)
 このように考えたとき──いささか意外だと思われるだろうが──、ハイデガーの『存在と時間』は、少なくともその(枢要な)一部は、資本主義の論理に規定されていたとわかる。ハイデガーによれば、「死への先駆的決意性Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode」によって、人間は、世人(大衆)への埋没から逃れ、本来性へと立ち戻ることができる。「死への先駆的決意性」とは、自分が必ず死ぬということを、つまり生の有限性をまざまざと自覚することである。なぜ、このことが重要なのか。生が有限であるという事実は、永続化している負債が完済されないことが確実だということを含意している。だから、死への先駆的決意性を介して、人は、自身の払拭できない負い目を、罪を自覚することになる。かくして、人は良心の呼びかけに応えることができる、というわけである。こうした論理が成り立つためには、負債が永続化していることが前提である。ハイデガーにとって、人間(現存在)は、「死へと差し向けられた存在Sein-zum-Tode」である。だが、現存在のそのようなあり方を有意味なものとしているのは、「負い目へと差し向けられた存在Sein-zur-Schuld」としての生のスタイルである。
 もう一度、前章に検討したことも含めて、ここに論じたことを整理しておこう。借金時の主体A1と返済時の主体A2のそれぞれのアイデンティティということに着眼したとき、イスラームのヒヤルでも、ルネサンスの金融技術でも、両者の間の同一性は崩壊している。つまり、A1≠A2。だからこそ、「利子」に相当するやり取りがあっても、不正とは見なされないのだった。イスラーム圏のヒヤルでは、時間の経過によってAの継続的な同一性は自然に消えると想定されているが、キリスト教圏(ルネサンス)では違う。原則的には、A1=A2という持続的な同一性が成立する。それゆえ、A1とA2の間に断絶を持ち込むために、遠隔地の代理人Bを巻き込む複雑な操作を必要とする。これら二つのケースに対して、資本主義的な、正常化した(本来の)利子の取得が許容されている取引においては、当然、A1=A2が成り立っている。行動の外形だけ見れば、ヒヤルと、資本主義下の借金-返済は、まったく同じである。しかし、そうした交換が許容される根拠が異なる。ヒヤルが許されるのは、主体の同一性が継続しないからである。それに対して、資本主義の下で利子の取得が正当なのは、主体の同一性が継続しているからだ。その継続性の根拠になっているのが、負債、消えない負債である。

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