日本思想史の名著を読む

第2回 本居宣長『くず花』

二つの宣長像

 本居宣長(享保十五・一七三〇年~享和元・一八〇一年)の肖像画として有名なのは、この国学者があぐらをかいた姿勢で座り、その姿の左上に和歌が書きつけてある図だろう。寛政二(一七九〇)年、六十一歳のときに描いた自画像であり、和歌は「しきしまのやまとごころを人とはば朝日ににほふ山さくら花」。
 夜が明けて明るくなってくると、遠くに見える山桜の白い花が、朝日にあたってそこだけ輝きだすように見える。その白さを、損得勘定や他者に対する支配欲をまじえない、純粋な感情の動きとしての「真心」もしくは「大和心」にたとえたもので、宣長自身のお気に入りの一首であった。また、普通の着物の上に、みずからの書斎の名を冠して自作した鈴屋衣(すずのやごろも)という上着を着ている。
 宣長の国学は、儒学や仏教などを通じて、中国風の考え方、すなわち「漢意(からごころ)」が流入する前の時代に日本に息づいていた、「古(いにしえ)の道」の再認識をめざすものであった。純白の山桜は同時に、「理窟」をめぐらして人々をだまし、支配欲を満たそうとする、邪悪な「漢意」を取り除いたところに現れる、「大和心」の象徴である。鈴屋衣もまた、『古事記』の神々の物語に登場する「古」の人々――宣長の理解ではそれが『古事記』の言う「神」なのである――は、こういう服装をしていたと考えて作ったものなのだろう。
 端然と座り、おだやかな表情で中空を見つめている表情にもまた、よけいな道徳理論など借りなくても、おのずから人倫の秩序が整っていた、「古」の人々の顔立ちについての想像が投影されているのかもしれない。教科書などで紹介されるのは、たいていこの六十一歳の自画像である。宣長が生活した伊勢松坂の旧宅は現在も保存され、本居宣長記念館になっているが、そのウェブサイトで紹介されているのもこの図像である。これは宣長の顔について現代人が考える、標準のイメージと言ってよいだろう。
 ところが、まったく別の表情をした宣長の肖像画もある。晩年、七十二歳のときに京都の絵師、鴨川(祇園)井特(せいとく)が松坂を訪れて描いた肖像画は、やはり鈴屋衣を着て座った姿である。だが表情は自画像とは異なって、目がつりあがり、鼻も高く描かれており、狷介そうな人柄に感じられる。もちろん、二つの肖像のあいだには十年以上の歳月が流れているから、老化によって風貌が変わったという事情はあるだろう。しかしそれをさしひいても、両者の違いは大きい。もしも衣服が共通していなかったら、同一人物を描いたと思えないのではないか。
 『古事記』に記された「古」の世で、「真心」のままに生きていた人々は、おたがいの心情をおしはかり、他人の苦しみを自分のもののように感じながら、秩序を保って生きていた。それに対して、感情の機微を理解せず、「理窟」によって相手を説き伏せるやり方は、後世に入って日本に流れこみ、いまの世を支配している「漢意」の所産にほかならない。宣長はそう説いて、「古の道」を学ぶことによって「漢意」をすすぎ去り、「真心」もしくは「大和心」に立ち返ることを説いた。
 だが、本人の手になる自画像はともかく、他人が描いた肖像は、むしろいかにも「漢意」を駆使して相手をやりこめそうな風貌なのである。こうした宣長の論争ずきの側面、あるいはその人格のうちで重要な働きをしている「漢意」風の側面をよく示している著作が、安永九(一七八〇)年に書かれた『くず花』なのである(『本居宣長全集』第八巻、筑摩書房、一九七二年、所収)。

儒者と国学者の論争

 『くず花』は、荻生徂徠の孫弟子にあたる名古屋の儒者、市川匡麻呂(たずまろ)が宣長に対して批判を加えたのに対して、反批判を試みた著作である。そのころ宣長は、ライフワークであった『古事記』の厖大な注釈書、『古事記伝』の完成の途上であったが、その総論部分のなかで「古の道」について述べた、「道と云ふ事の論(あげつらへ)」(のちに「直毘霊(なほびのみたま)」として完成される)という草稿を、匡麻呂は宣長の門人を介して通読した。そして「末賀乃比礼(まがのひれ)」という文章を書き、儒学とりわけ徂徠学の立場から批判を試みた。
 それを受け取った宣長が、匡麻呂に対し反批判を加えた著書が『くず花』である。市川は、徂徠派の儒者なので、人間社会の秩序を支える文明の始まりは、中国古代の「聖人」が「道」を造った時点にあると見なす。それ以前は野蛮な「洪荒ノ世」なのであり、『古事記』に記された伝説は、文明以前の非合理な空想を、後世になって統治者がまとめたものにすぎない。そんなものを信奉していれば、人は「禍心(マガゴコロ)」に支配されてしまうだろう。その「禍心」を、「聖人ノ道」を「領巾(ヒレ)」として祓い清めてはどうか。
 神道風の表現を使いながらそう揶揄した匡麻呂に対して、宣長は表題にも見える「ひれ」の言葉をおそらくフグのヒレ酒に重ね、儒学すなわち「漢籍(カラブミ)の毒酒」に悪酔いしているのだと指摘する。それに対して、酔い覚ましの薬として、葛の花を市川先生にさしあげましょうという趣旨が、『くず花』の表題にこめられている。文人どうしの遊びの調子もうかがえる論争であるが、宣長の説く内容は強烈な儒学批判である。同時にその結果として、儒学との対比で国学思想の特徴をくっきりと浮かびあがらせたテクストになっていると言える。
 匡麻呂は、宣長の言う「道」は、老荘思想が説く「無為自然」の立場と同じだと批判する。徂徠学派の儒者にとっては、聖人による「制作」の以前から「道」が存在したと説き、儒学を批判する発想は、まさに老荘の立場そのものなのである。これに対して宣長は、人間の「さかしら」によって造られたのではないという点については、たしかに老荘思想との「自然の道」と共通すると認める。だが老荘の道は、それを「自然の道」としてわざわざ構成し、宣伝するところに、むしろ人為が強烈に働いている。天地が生じ、神々が登場すると同時に「道」はこの世界に始まって、現代に至るまで働き続けているのであり、その「神の道」のままに生きてゆくのが、「道」についてのまっとうなとらえ方なのだ。――したがって、これを「道」として概念化すること自体が、それを他の「道」と並べて相対化することになり、ふさわしくないと宣長は説いている。
 しかし、その「道」は『古事記』に記されているというが、それは意志をもって動いている天照大神がそのまま太陽だとか、荒唐無稽な話を含んでいるではないか。また天照大神が登場する以前は世界が真っ暗なはずだが、そういう記述がないのはなぜか。そうした疑問を匡麻呂は示し、荒唐無稽な空想を信奉するべきではないと説いたのである。これに対して宣長が提示するのは、一種の不可知論である。

「又人の此身のうへをも思ひみよ。目に物を見、耳に物をきゝ、口に物をいひ、足にてあるき、手にて萬のわざをするたぐひも、皆あやしく、或は鳥蟲の空を飛(ビ)、草木の花さき実(ミ)のるなども、みなあやし。」

 二十一世紀の現在では、この引用箇所で挙がっている人間の身体や動物の行動の例は、自然科学によってかなりの程度、解明されている。だが、宇宙の限界や生命の始まり、あるいは運命の転変といった事柄になると、まだまだ未知の領域が人間の世界を取り囲んでいることは確かだろう。宣長は、人間の知恵には限界があるのであり、人間である聖人が天地の「理」を極めて「道」をしつらえたなどと考えるのは、思いあがりにすぎないと説く。それよりも、遠い過去から『古事記』のテクストが現存し、それに根ざした祭祀がいまも行なわれている。人間にとってその内容が不可思議であったとしても、それを真実として信じるべきではないのか。――現代人にとっても、『古事記』に関する史料批判をもし前提としないのなら、簡単には反論しがたい論理を宣長は展開しているのである。

世界の中の日本

 宣長の「漢意」批判に、日本人の自国賛美と、外国に対する蔑視が働いていることはたしかだろう。世界の始まりについて、それぞれの国には異なった伝説が伝わっているが、それぞれの国民は、自分の国に伝わっている考えを守るべきではないか。ましてやこの「皇国」は「古の伝へ」が唯一正しく伝わっている、「万国にすぐれ」た国なのだから。そう説きながら、日本以外の外国を「戎狄」と見なし、自国の優越を説く姿勢が、宣長には強く見られる。
 だがこれは、自国のことしか知らないお国自慢とは、性質が異なっている。先に紹介した不可知論を述べるくだりでは、「天」すなわち宇宙に「際限」があるか否かという問いを提示している。そのなかで宣長は、もし「際限」がないとするなら、「地球」がこの宇宙の不動の中心になっているのはなぜか、わからないではないかと指摘している。宣長はここで、西洋天文学に言う天動説を前提にしているのだが、その他面で「地」が球体だとする地球説は知っているのである。実際、宣長の残した著述のなかには、「天文図説」(天明二・一七八二年)という、蘭学者による天文書を参考にしてまとめた短い作品がある。同時代の日本ではすでに地動説の受容も始まってはいたが、それなりに新しい科学知識ももった上で、ものを考えていたのである。
 宣長の旧蔵史料には、天明三(一七八三)年に大坂・京都で印刷・刊行された「地球一覧図」もある。西洋の原図に由来すると思われるが、日本が東西の中心にある形で作図された世界地図であった。天照大神すなわち太陽は、日本だけでなく万国を照らしているのであり、日本はその天照大神が生まれ、また「古の伝へ」が伝わっている、世界の中心である。主君への忠や親への孝といったモラルが、日本でも中国・インドでもそれぞれの言葉で尊重されているのは、この「神の道」が、本来は世界に共通するものであることの証拠なのだ。こうした一種の普遍主義に裏打ちされているところも、宣長の論理の強靱さを示している。