資本主義の〈その先〉に

最終回 資本主義の思弁的同一性 part4

4 楽園=荒野

 

直知としての予期

 

  ところで、ケインズは、「予期」ということについて、非常に独創的なアイディアをもっていた。ケインズの最初の著書『確率(蓋然性)について』(1921)で、彼は、人は、どのようにして蓋然性(≒可能性)を判断するのか、という問題を論じている(3)。これは、まったく経済学とは関係がない、哲学的な著作である。普通、ケインズは、経済学者に分類されているが、経済学は、彼の知的な営みの中の一部でしかない。むしろ哲学的な思索が、彼の経済学のベースになっている。

 ケインズによれば、蓋然性(確率、確からしさ)は、前提となる知識hと帰結される知識aとの間の推論的な関係――それはa/hと表記される――として定義される。前提となる知識hを、現在のところ確実とされている知識だとすれば、a/hとは、まさに予期を表す形式になっている。

 蓋然的な判断、つまり予期a/hは、どのようにして構成され、いかにして妥当なものとされるのだろうか。この問いに対してケインズが与えた回答は、驚くべきもので、ほとんど奇抜でさえある。ケインズによると、蓋然的な関係a/hは、推論者によって、自明なものとして直知acquaintanceされる。「直知」はラッセルに由来する概念であり、対象を直接に見知ることである。人は、知覚、理解、経験といった認識の作用を通じて、対象を、(記述を媒介にせずに)直接に把握することがある。これが直知である。たとえば、人は、青という色を、感覚を通じて直知する。「青」という感覚は、まったく直接の知覚であって、それ以上の要素的な認識によっては説明できないからだ。

 だから、青年ケインズによれば、われわれは、青色を明証的に知覚するのと同じように、歯痛を直接に感覚するのと同じように、二つの知識の間の蓋然的な関係を自明なものとして、直接に把握するのである。ケインズが心酔していたジョージ・エドワード・ムーアは、『プリンキピア・エティカ』で、「善」は直知される、と説いている。ケインズは、これを蓋然的な判断に応用したのだ。その判断を構成する、推論的な関係は、善が直知されるのと同じように、直知される、と。

 だが、われわれは、本当に蓋然的な関係について、こうした直接的で明証的な仕方で把握しているだろうか?  そこに「青」が見えるという直接性と同等な仕方で、(現在が「h」であるからには)「a」がありそうだ、という関係を把握しているだろうか? たとえば、ケインズの後に、数学的に洗練された確率論を展開したラムジーは、次のようにケインズを批判している。

 

 ここでケインズ氏の考えにたいするもっと根本的な批判へと転ずることにしよう。それは、彼が記述しているような蓋然的関係といったものは、本当に存在しているようには見えないという、すぐに気づかれる批判である。彼が想定するところでは、少なくともある特定の場合には、この関係は知覚可能であるとされている。しかし、私自身について言えば、それが事実でないと確信をもって言える。私はそれを知覚しないし、それが存在すると納得するには議論による他はない。しかも、私以外の人々もそれを知覚していないのではないかと、疑わざるをえない。なぜなら、人々は二つの与えられた命題のあいだにどの蓋然的関係が成り立っているかについて、ほとんど何の合意に達することもできないからである(4)

 

 しかし、そうだとすると、どうして、ケインズは、そもそも、こんなに簡単に批判されるようなことを主張したのだろうか。ケインズが、蓋然的な関係は直知される、つまり予期は直知の一形態であると主張したとき、彼は、ラムジーやそのほかの批判者たちがまったく自覚できていない認識のある側面を見ていたのではないだろうか。

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