資本主義の〈その先〉に

最終回 資本主義の思弁的同一性 part4
4 楽園=荒野

 

  蓋然性(≒可能性)が直知されている、とはどのような状態なのか。この点を明らかにするために、一見、これとは関係がなさそうな事実を参照しよう。柄谷行人はかつて、ごく短いエッセイの中で、スポーツの領域で、誰かが大きく世界記録を更新すると、それまで何十年間も誰も到達できなかったその近辺の記録を出す者が、突如として次々と出てくることがあるが、それはどうしてだろうか、という疑問を提起した。

 たとえば、1960年代の後半まで、100m10秒以内で走ることができた者はいなかった。100m競争の記録が最初に測られたのは1912年だが、それから半世紀以上の間、誰一人として、9秒台で100mを走ることができなかった。ところが、1968年に初めて9秒台の記録が出ると、それ以降、次々と、10秒を切る記録で、100mを走る者が出てきたのだ。同じことは、いやそれ以上に顕著なことは、体操やフィギュアスケートの新技術に関しても言える。登場するまでは、何年間も、誰もなしえなかった困難な技でも、ひとたび、一部のアスリートが成功させると、ほどなくして、多くの他のアスリートでも演じうる平凡な技に転じてしまう。だから、われわれは、たとえば20年前の体操競技の映像を見ると、今日との較差に驚かざるをえない。

 この現象をどのように説明したらよいのか。次のように考えるとよい。たとえば、あるとき誰かが、10秒を切るようなタイムで100mを走ったとする。当然のことながら、他のアスリートは、これを直接に知覚することに――つまり直知することに――なる。この途端に、世界の様相が変化する。どう変化するのか。先に述べた、「可能性」という観念の両義性に関係した変化が生じるのだ。以前は、9秒台で100mを走りきることは、空虚な可能性、事実上はありえないような、論理的にのみ仮定された可能性であった。それが、今や、現実性へと転化している(当たり前である。現に誰かが9秒台で走ったのだから)。可能性の観念の一方の極から他方の極への移動が一挙に生じているのである。

 ここで最も重要なこと、肝心要なことは、誰かが9秒台で走るという可能性が現実的なものであることが知覚されると、他のアスリートにとってもそれが、実際に可能なことになる、ということだ。9秒台で走ることができるかできないかわからない、それが不確実な可能性でしかない、と思っている間は、いくらがんばっても、またどんなに能力があっても、9秒台で走ることはできない。だが、それがまぎれもない現実であると知覚されると、それを知覚した者にとっても、(努力次第で)それがなしうることになるのだ。第二次世界大戦中、マンハッタン計画をめぐる最大の機密事項は、どうやって原爆を製造するか、ということではなかった。どういうやり方であれ、とにかく原爆が製造できたという事実、そのことこそが、最大の機密だったのである。原爆が製造できるということが、敵(ナチスドイツ)にとって現実になると――単なる空虚な可能性からはっきりとした現実へと転化すると――、実際に、彼らも原爆を製造できてしまうからだ。原爆の製造の可能性について確信をもてずにいる間は、敵は、容易にそれを製造することはできない。

 さて、それでは、最初に、100mを、10秒を切る速さで走った者にとっては、どうだったのだろうか。最初に、驚異的な大技を成功させた体操選手にとっては、どうだったのか。彼らは、「誰かが100m9秒台で走る」のを知覚する前から、あるいは「誰か別の人がその大技をやっている」のを知覚する前から、事実上、それらを知覚したのと同じ心的状態をもつことができていた、ということではないか。つまり、彼にとっては、人間が100m9秒台で走るという予期は、単なる空虚な可能性を指しているのではなく、知覚されたのと同然の現実を指示しているのだ。これこそが、蓋然性が直知されている状態にほかなるまい。蓋然性が直知されていることが、つまり予期が直知として生じていることが、現にそれが実現し成功するための必要条件――ただし最も重要な必要条件――ではないだろうか。

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