資本主義の〈その先〉に

最終回 資本主義の思弁的同一性 part4
4 楽園=荒野

 

楽園であり荒野でもある

 

  回り道を通ってきたが、これで、われわれはプロテスタンティズムに戻ることができる。どうしてか。

 前章で、カルヴァン派の予定説が信者にどのような効果をもたらすことになるのか、を「ニューカムのパラドクス」を用いて説明した。ニューカムのパラドクスで、行為主体は、明らかに不合理な方の選択肢をとる。どうしてそうなるのか。詳しくは再論しないが、そのパラドクスを引き起こしているのは、「予見者」であった。予見者とは、神のことである。

 このゲームに、もし予見者がいなければ、行為主体は、普通に合理的な選択を行う。しかし、予見者が導入されたとたんに、パラドクスが生ずる。どうしてそうなるのか、を理解することが重要である。予見者が、予想するただの人ではなく、神であるということの意味を正確に把握することがポイントだった。

 その予見は、神の予見なのだから、結局、単純な知覚――つまり覚知である。神は、行為主体の選択を、ほんとうのところはどうなのかわからずに予想しているのではない。神は、行為主体がどのような結果に到達するのか、その結果にいたる過程で何を選択するのかを、直接に知っているのだ。行為主体は、その神によって知られていることをたどるように選択するほかない(と自ら思っている)。

 ここに、直知の形態をとった予期が、最も露骨に、最も純粋な状態で姿を現している。直知しているのは、もちろん神=予見者である。信者(行為主体)にとって、神=予見者の存在は確実だ。信者は、神=予見者の直知を想定した上で、つまり神=予見者が直知しているということを前提にした上で、行動する。これが、予定説が機能するメカニズムだった。

                 *

 ここに、しかし、苦難の神義論が幸福の神義論へと反転する究極の原因がある。どうしてか。「予見」を、(神による)直知として意味づけることは、「未だ」という様相を「既に」へと転換させることになるからだ。説明しよう。

 本来は、救済は、未だ丶丶来たらざる終末のときにあるのだから、信者にとっては、それは保証されていることではない。彼または彼女にとっては、終末の日(最後の審判のとき)に、救済されるのか、それとも呪われるのかはまったく分からない。何かをしたからといって、彼(彼女)の救済の確率を上げることはできない。これが苦難の神義論の状況である。

 だが、ここで信者は、神の直知を想定して行動するのであった。神は既に丶丶見ており、知っている。神は何を見て、知っているのか。この信者が、終末のときに救済されることを、である。そして、この信者が救済までの全過程でどう行動するかを、である。ということは、彼または彼女は、救済が約束されていることになる。しかも、彼(彼女)が今なしていること、かつてなしてきたこと、これからなすことが原因で、救済されるのだ。とすれば、これは、まさに幸福の神義論の構成であろう。

 究極の「未だ」であること――何しろそれは終末のときまで待たなくては判明しないのだから――を、神の直知を媒介にして、「既に」へと(神は最初から「既に見ている」のだから)転換する。この「未だ」から「既に」への急激な遷移こそが、苦難の神義論を幸福の神義論へと反転させるメカニズムの中核である。この遷移によって、救済の様相が、究極の不確実な可能性から、現実以上の現実性へと交替する。これに伴って、信者が置かれている状況が、「救済されているかいつまでたっても定かではない」という状態から、「既に救済されている」に等しい状態へと一挙に変容する。

 ロバート・ベラーは、初期の入植者たちが、アメリカを、「楽園」として描くと同時に、「荒野」としても描いた、つまり両極端のイメージでアメリカを記述した、と述べている(5)。苦難の神義論のフレームで捉えれば、アメリカは、荒野である。アメリカは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けた後で、キリストが40日間過ごした荒野、あるいはエジプトを出たイスラエルの民が40年間さまよい歩いたシナイ半島の荒野、そうした荒野に比せられる場所であり、信者たちは、「荒野への使者」である。しかし、幸福の神義論のフレームを用いるならば、アメリカは、楽園である。エデンやカナンに喩えられる楽園だ。

 ベラーは、アメリカへの入植者が、自分たちの新たな土地をイスラエルか古代ローマに見立てることが多いと述べたあと、こう続けている。「イスラエルのながい苦難の歴史、ローマの衰退と没落の姿を思う時、この二つの国がアメリカという新国家の原型として選ばれたことを」不思議に思うだろうが、アメリカ人の父祖たちは、これら古代の国家の暗黒の日々を見逃していたわけではない、と。そうではなく、彼らは、共和国を健全に営めば、ローマやイスラエルがたどった苦難の運命を裏返し、幸福の場所へと変えることができると確信していたのである(6)。アメリカへの初期の入植者たちの比喩は、彼らの幸福の神義論が苦難の神義論を素材として構成されていることを示唆している。

 繰り返せば、アメリカは荒野でありかつ楽園である。同一の空間が、時間的様相(「未だ」と「既に」)を重ねられることで帯びる、両極端の敵対的な二つの意味。これが資本主義を特徴づける内的な敵対性の原型になっている

                

 Webちくまでのこの連載は、今回で終了する。連載の冒頭に提起した疑問にまだすべては答えていないが、それらは、この連載を単行本にするときに解決されるだろう。

                                    (了)

(1) ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳、岩波文庫、2010年。

(2) 実際にはそうではない。

(3) ケインズ全集第8巻『確率論』佐藤隆三訳、東洋経済新報社、2010年。

(4) ラムジー『ラムジー哲学論文集』伊藤邦武・橋本健二訳、1996年(原著1990年)、勁草書房、82頁。一部訳語を変更した。

(5) ロバート・ベラー『破られた契約』松本滋・中川徹子訳、未来社、1983年、34-42頁。

(6) 同書、61頁。

 

この連載をまとめた単行本は2017年春に刊行予定です。

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