piece of resistance

8 傘

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 U氏には外出時に欠かせないものがある。
 やや大きめのコウモリ傘。たとえ雨が降っていなくても、どれほど空が青くても、天気予報が降水確率〇パーセントを保証する朝でさえ、U氏は必ずそれを携えて家を出る。まるで傘なしで家を出るなど信じがたい軽挙だとでもいうように。
 傘のない道行き。U氏にとって、それはあまりに無防備すぎる露出を意味していた。服を着ず、靴を履かずに家を出るも同然。なぜ、世の人々はかくも無邪気に己をさらけだせるのか?
 
 人は人で、そんなU氏を極度に用心深い男だと嗤う。
 たいした身なりもしていないくせに、それほど雨に濡れたくないのかと嗤う。
 虚弱体質かと嗤う。
 もしや中年男の分際で日焼けを気にしているのかと嗤う。
 頭頂部の薄毛を傘で隠そうとする姑息なジジイだと嗤う。
 嗤いたければ嗤えばいい。いかなる邪推をされようと、U氏は他者の視線など一顧だにしなかった。好奇・侮蔑・排他――そこにいかなる悪感情がうずまいていようとも、結局のところ、それはしょせん人間の目にすぎないのだから。

  人間の目。そんなものは恐るるに足らぬとU氏は思う。
 人々は見る。嗤う。そして、すぐに忘れる。留めない。そのまなざしはどこまでも刹那的であり、よって警戒に値しない。
 剣呑なるは真の敵。その追跡をかわすため、U氏は道々、必要に応じて傘を開く。自ら緻密に測り、地図に記し、頭に焼きつけたそのポイントをけっして見誤ることなく。

 朝の通勤路の場合、まず最初の関門は、家から徒歩二分のマンション「ハーフムーン白里台」だ。
 玄関先に掲げられた看板の二歩半手前で、U氏はおもむろに歩調をゆるめ、いざやと手にした傘を広げる。ワンタッチ式の急いた勢いに馴染めない彼は手動式の傘しか用いない。
 ただ漫然と開けばいいというわけではない。重要なのは角度だ。どの方向にどれだけ倒せば、その黒い影で完全に己を消すことができるのか。捕らえられ、留められることから逃れられるのか。
 熟慮の末に定めた角度を守り、慎重に慎重を期してU氏は傘を傾ける。息をつめ、掌に汗をにじませながら、時としてU氏は傘本来の有り方を思いだしたりもする。
 ただ単純に雨だけを受けとめていればよかった少年時代。遠い雨音をなつかしむほどに、ぽつぽつと、しずくのような郷愁がその胸を満たしていく。

 第二の関門は、表通りへ続く上り坂に面したコインパーキングだ。目安としているポールの位置で、いったん閉ざした傘をU氏は再び開く。坂の途中なので少々息が切れている。傍目には一休みをしている中年男に見えるかもしれない。
 しかし、なぜ、わざわざ傘を広げて? そんな目をした人々がU氏のわきをかすめていく。U氏の黒傘を、まるでまがまがしい影のように横目でながめながら。
 
 車の行き交う表通りへ出ると、いよいよ人の目が増える。
 足早に駅をめざす会社員。子ども連れの母親。学生の集団。地を踏む人々の足が一定数をこえると、晴天のもとで傘をさすというU氏の行いは、もはやたんなる奇行ではすまされない。ややもすれば通行人に対する故意の妨害や悪戯とも取られかねず、U氏にはまた別種の慎重さが求められてくる。
 人の行く手をさえぎらないように、そろりと、遠慮がちに傘を開く。無論、一寸の狂いもない角度で。表通りの至るところに配されたポイントを通過するたび、U氏は粛然とそれをくりかえす。
 雑居ビルの前で、そろり。数歩行ったコンビニの前で、そろり。また数歩行った不動産屋の店先で、そろり。
 卑屈なまでに腰をかがめて傘を開閉するU氏に、行き交う人々はそろって白い目をむける。時として罵声も飛んでくる。
「邪魔だ」
「何やってんだ」
「雨でもないのに」
 いらだちをあらわに歩みを速める彼らが、U氏の目にはみな裸んぼうに見える。恐れを知らない無邪気で無防備な人々。至るところからその影を捕まえ、留めようとしている「あの目」を意識するたび、彼らに代わってU氏はぞっと全身を粟立たせるのだった。
 自分は捕まらない。留めさせやしない。落ちつきを失ったU氏のコウモリ傘がくるくると回りだす。見えない包囲網をふりきるように、くるくる、くるくると回りつづける。
 

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