オトナノオンナ

第8回 ヲトメノイノリ(最終編)

おとなびた幼稚園児がいる、少女のような老婆がいる……。さまざまな年代の女性の仕事、生活、恋愛、を丁寧に追いながらそれぞれの「オトナノオンナ」を描く、一話読み切り小説。 

 

 

「こんちは」
「あ、奥さん、まいどごひいきに。」
「ええとね、きょうは、つくねと、ねぎまと、レバとハツ。あとはそうね、皮もね。みんな七本ずつ、お願いします」
「つくね、ねぎま、レバとハツに皮、いつもどおりの全タレですね。なかの買い物のあいだに焼いときますから、お会計もそのときで」
「どうもありがとう。うちのひと、焼き鳥きらいなのに、ここのはうまいうまいって、いくらでも食べるのよ。ありがたいわ」
「いやあ、食通のマルトヨクリーニングのだんなさんにほめていただけるなんて、光栄ですねえ」
「いやあね、うちのひとなんて、食通でもなんでもないわよ。あら、そういえば、さいきん、ゆりちゃん見かけないわねえ。このくらいの時間ならたいてい立ち呑みしてるじゃないの、缶チューハイ握りしめて。お腹でもこわしてるの」
「そうなんですよ。ゆりこ先生ね、かれこれふた月になるかなあ。絶ちものするからって、ぱたっと来なくなっちゃって」
「あらまあ、それは例の件よねえ。でも佃甚さんのお稽古はつづけてるのよねえ。ゆりちゃんも、大役買わされちゃって大変ねえ。あそこはなんたって、お母さんが張り切るひとだから。だってほら、テレビにも出ちゃったんでしょ、あのひとたち。うちはそのころ衣替えキャンペーンでてんてこまいで見てないんだけど、お客さんたちの噂はすごいわよ」
「うちもですよ。テレビにでてた、先生、あんたんとこのお客さんでしょーって。じつはうちにもカメラは来たんですけどねえ。どうもカットされちゃったみたいで」
「あら、残念ね。でもここは、路地裏じゃないもの。なんでも路地裏散歩の撮影中にピアノの音がきこえてっていう話でしょ。それがいまじゃ、大騒ぎ。一日一小節とか、オクターブの特訓ギプスだとか、まつ子さんがあれこれしゃべったっていうはなしじゃないの。敬老会事務局って、つまりうちのお父さんのところなんだけど、忘年会の問い合わせが殺到しちゃってるのよ」
「はあー、そうだったんですか。それじゃあ、ゆりこ先生もあとにひけねえなあ。でも佃甚の奥さんはしっかりしたお方ですし、ゆりこ先生だって、あれでたいしたもんなんでしょ。うまくやってくれるんじゃないですか」
「だといいんだけどねえ、失敗したりしたら、敬老会の面目にかかわることになっちゃうって、お父さんが心配してるのよ。ほらあのひと気が弱いから、胃が痛いって。あら、うしろ、ならんじゃってるわね。お商売のおじゃまして、ごめんなさいね。じゃあ、あとでとりにきますから」
 いつもの時間、いつもの場所に、ゆりこさんの姿なし。絶ちものなんて、できるんでしょうか。どこぞで飲んだくれているんじゃあないかと、たそがれの商店街をつーっと、大川のほうまでさがしていくうちに、桜並木に出てくる。花見のころはさぞやというりっぱな枝ぶりを歩いていきますと、マンションがあります。特別高齢者住宅・ゆるり千住。どうやら、お年寄りのお住まいのようですね、窓辺から耳なじみあるメロディーが、漏れきこえてまいりました。
「ほら、また最後のところ、指で弾いてる。こころがからっぽになってるよ。もういっぺんやってごらん」
「すみません、つい気がそれちゃって」
「わかってるよ、焼き鳥のこと考えてたんだろ。習慣っていうのはおそろしいねえ、まったく」
「はあ、あと十小節かあ、あと十日だなあって思ったら、ふらっと気が遠くなりました」
 ゆりこ先生、姿勢をただして深呼吸をすると、目をつぶる。右にくるり左にぐるり、あらためての儀式ののち、頭から弾きなおすと、やはり乙女の祈りでございます。
 ここはゆるり千住の集会室、ご家庭に置かれているアップライトのピアノです。ゆりこさんにお稽古をつけていらっしゃるのは、こちらにお住まいの笹塚みどりこ先生。ゆりこさんがいちばん最初にならったお師匠さんで、いまはこちらで悠々自適のご生活、久方ぶりにたずねてきたゆりこさんに、乙女の祈りをもう一度教えてくれ、いやピアノにさわるところから、一から教えてくれと頼みこまれ、特別教授の真っ最中。
 タラリララ、ラーンラ、ドゥララララーン。
「うん、だいぶ乙女らしくなってきた。酒の匂いもうすくなったし、千鳥足でもないね。あんたのなかに、乙女が見えてきたんだね」
「そうでしょうか、このところはもう乙女イコール潮子さんですから、イメージはしやすいんですけど、なんていうか一本気すぎるっていうか、しょうゆの風味が濃いっていうか、そうすると、ああ飲みたいなあって、気がそれちゃうんです」
「ほんっとに好きなんだねえ。あんたのじいちゃんも、まったくそうだったから、血なんだろうねえ。で、どうなのさ。間にあいそうなのかい。ここのひとたちも、みんな見に行くって大騒ぎしてるよ。いまやあのおかみさんは、われらシルバーの星だよ。あんた、なにがなんでも恥をかかせないようにしてあげないと」
「それは、大丈夫ですよ。潮子さんの努力じたいがみんなの星なんだから、結果なんてどうだって。そりゃあ、テンポはまだ象から牛になったぐらいだし、指も鍵盤からすべったりしてますけどね、でも毎日確実に、前日の失敗を乗り越えようとがんばってます。そのすごみがね、気迫がね、きくひとに伝わるんです。だから、あんなちらっとテレビに出ただけで騒ぎになったんですよ。ただのピアニストが、たっらららーんと弾いたって、あんなことにはならないもん」
「そりゃあ、そうだ。あのひとのほうは、大丈夫だ。そうなると、問題はあんただよ。ピアノ教室やめちゃって、これ一本にしちゃったんだろ。このさきどうすんの。一からやりなおすって、その年でコンクールはないだろうし、コンサートっていったって、いきなり仕事が来るわけでもないだろうし、あのじいさんの孫なら、宵越しの金だって考えたことないだろうよ」
「ほんとに、この齢で自分探しをするとは、まったく思いもよらなかったんですけどねえ。でも、このごろようやく、うちのピアノがこころをひらいたっていうか、いい音が出るようになった気がするんですよ。それで、弾くのがちょっと楽しくなった」
「それは、ピアノじゃなくてあんたのこころが開いたからだろうけどさ。とにかく、家のひとにも長年心配かけてきたんだから、このさきの身の振り方は、よーく考えなくちゃいけないよ」
「はい、せっかくだから、ちょっと旅に出てみようかななんて、思ってるんですよね」
 みどりこ先生、こくんとうなずくゆりこさんを見て、そうかい……。しわくちゃの顔を、もっとしわくちゃにして涙ぐみます。
「ちっちゃいころ、あんたはなーんにもわかってなくて、こうするんだよ、ああするんだよって教えると、いまみたいにこっくりうなずいてね。わかってるんだかわかってないんだか知らないけど、器用に覚えて弾くんだった。なつかしいねえ。でもね、いつまでもそのまんまじゃ、教われるって思ってたらだめなんだ。笹塚みどりこにならうのも、ここまでだよ。もう、ここからはひとりで、歩いていかないといけないんだ」
「はい。みどりこ先生、覚悟はきまってるんです。ほんとうに長い間、お世話になりました」
「よし。それじゃあ、あと十日、しっかりおやんなさいよ」
 かたく握手をしておりますと、笹塚さーんお食事ですよーと、ヘルパーさんが呼びにきて、師弟の最終レッスン、静かに幕となりました。

 さて、その川沿いを、大橋のほうへ歩いていきますと、なにやら長い列。佃甚の店のまえでは若おかみがしきりに頭をさげています。世は歳末お歳暮商戦まっさかり、佃甚では毎年恒例の行列ですが、ことしはテレビの評判もあいまって、例年にましての大繁盛でございます。
「寒いなか、お待ちいただいて申し訳ございません。どうぞ、熱いお茶でございます。それからこちら、新商品の乙女こぶ、おかげさまでとっても好評なんですよ、どうぞお味見なさってください」
「あのう、テレビのおかみさん。練習どうですか」
「ありがとうございます。みなさんのお声を励みに、いまもお稽古にいかせていただいております」
 えらいなあ、がんばってね、見に行くよ。列にならぶほかのお客さんからも、声がかかります。
「ありがとうございます。あのう、うちの娘、まだ小学生なんですけどね、いっしょに出させていただくことになりまして。家じゅうで、わさわさして、お騒がせしてばっかりで、もう、うふふふふふふ」
 噂のさなか、おかみさんが帰ってまいりました。
 いよっ、下町のピアニスト。待ってました。
 飛びかう声援に、一人ひとり頭をさげ、あいさつをしながらなかに入ると、潮子さん、さっそく白衣に三角巾をきりり。店頭に出てまいります。
「はい、お待たせいたしました。こちらでおうかがいいたします。ご注文を、おねがいいたします。」
 声は元気に出しましたが、なにか顔色がすぐれない。そうして、そろばんを取ろうと立ちあがりました。そのとき、ゆらりとめまいをおこし、その場に倒れこんでしまいました。
「おかみさん!」
「母さん!」
 店をほかのものにまかせ、息子の鮎太郎がおくに運び、近所の ヤマキタ医院から往診の先生をお願いしました。
「ずいぶん、くたびれてるねえ。こりゃあ過労だ。ゆっくり寝て、栄養とらないと。いま、点滴もってこさせるからね」
 注射を一本、してくださる。
「先生、そんなわけにはまいりません。あと四小節、最後の一段にさしかかって、明日は百五小節め。休符つきの三連符からくり返す、苦手なところなんです。おさらいをしないと、ゆりこ先生に申し訳がたちません。お教室もやすんで、絶ち物までしてくださってるんです」
「とにかく、休んでからじゃないとだめですよ。おかみさん、これは主治医の命令です。ほら、いま点滴入れますから、おとなしく横になって」
 先生は、栄養剤にすこしの眠り薬を配合されたようで、お稽古お稽古といっていたおかみさんも、しばらくするとすやすやと寝息をたてはじめました。
 そばでじっとやりとりをうかがっていた鮎太郎、寝顔をたしかめ、すっとたちあがり仏間に入っていきました。
 線香をたて、手をあわせる。
「父さん、ご先祖のみなみなさま。どうぞおふくろの願いをかなえてやってください。いままで文句ひとついわず、店のため、家族のために働いたおふくろの、たったひとつの願いです。ねえ、みなさん、ご覧のとおりの真っ正直な人生を、まっしぐらに歩いてきたんです。会えずじまいの新潟のおじいさんおばあさん、おじさんたち、それから、おばさん。どうか見守って、力を貸してやってください」
 ひとり息子の必死な願いが、空へのぼっていく。そのころ、ぐっすり眠っている潮子さんは、不思議な夢を見ておりました。
 ざぶーん、ざざーん、波の音。目をつぶっても駆けていける、新潟の浜辺です。松林をぬけると、しみるような潮のにおい。すると、いちめんの菜の花畑が見えて、やさしい歌声がきこえて、立ちどまる。花のなかに、姉が立っておりました。
「潮子ちゃん、ありがとう。お姉ちゃん、毎日ちゃあんときいていますよ。潮子ちゃんが、がんばってお稽古してくれて、どんなに嬉しいか、お姉ちゃんわからない。みんなできいているのよ。毎日毎日じょうずになって、ほんとによくやってる。ねえ、にいさんたち」
「そうそう、それからほら、あのちっちゃい女の子、エビ子ちゃんも、ちょっとはうまくなったじゃないか、なあ兄さん」
「ああ、それにあの先生も、ちょっと変わりもんだけど、腕は確かだな。いい先生との縁で、りっぱなことじゃありませんか。ねえ父さん」
「そうだよ、こっちでは、毎日みんなで楽しみに聞いてる。けれど、おまえはちょっとがんばりすぎだ。母さんも心配してるぞ」
「そうですよ、潮子は甘えんぼのくせに、負けず嫌いなんだから。みんな心配してますよ。ちゃんと精のつくもの食べて、休まないと。みんなに心配をかけないようにするのも、おかみさんのつとめですよ」
 菜の花畑のむこうに、なつかしい家族が笑っています。ああ、みんな生きてたんだ、よかった。すっかり嬉しくなって潮子さんは駆けだします。きいろい菜の花をかきわけていこうとしたとたん、それまでの笑顔が消えて、みんながきゅうにこわい顔になって、だめだ、くるな。そっちに帰れと、追い払うようにいたします。そうして、くるりと背をむけ、すうっとあちらに消えてしまった。
 ……なんで、どうして、置いていかないでくださいな。
 じぶんの声にはっと目をさますと、ふとんのまわりを家族、店のひとたち、みんなが心配そうにのぞきこんでおります。
「では、お大事に。」
 看護師さんが、点滴をはずし、帰っていかれました。
「母さん。いま、みんなで母さんの顔みながら話した。母さんは、明日もとめたって、稽古にいくつもりだよね。だったら、本番まで店に出るのはやめてほしいんだ」
 いつもは頼りない鮎太郎が、きびしい顔できりだします。
「だって、そんなわけにはいかないよ。一年でいちばん忙しいときなんだよ」
「そういう時期ですから、みんなで力をあわせて、おかあさんを支えようって。お願いですから、今度だけはみんなのいうように」
 若おかみも頭をさげます
「そうですよ。おかみさんががんばっているのを見て、職人が乙女こんぶをひらめいた。それも、おかみさんがテレビに出られて、どんどん売れている。おかみさんは、うちの看板おかみ、いえ看板乙女なんですよ。無事りっぱに演奏していただかないと、店の評判にもかかわる。これは、おかみさん以外にできない、大仕事なんですよ」
 長く勤めた番頭さんが、店のものの声をまとめて説得します。
「おばあちゃん。エビ子はもうお稽古やめちゃったけど、おばあちゃんのお手伝いはがんばるから。だって、せっかくゆりこ先生に音符読めるようにしてもらったんだもん。だから、まだ死んじゃわないで。お願いだよう」
 かわいい孫におーいおーいと泣かれて、おかみさんも、嬉しいもらい泣き。
「みんな、ありがとう。ふふ、佃甚の看板にかかわるんじゃあ、命がけでやらないといけないねえ。それじゃあ、これから半月、みんなのいうとおり、お稽古に専念させてもらいます。みんなで力をあわせて、がんばりましょうか」
 まぶたをとじれば、さっきの菜の花畑で、家族が笑っている。姉は形見の振りそで姿。そうだ、嫁入りの日に着て以来のあの振袖を、晴れの日の舞台衣装にしたら、姉といっしょに舞台に立てる。きっと供養になるはずと、潮子さん、あらためて力がわいてくるのでした。

 時は平成師走十四日、元禄にさかのぼれば、この日の未明、両国吉良邸に、大石内蔵助を先頭に赤穂義士四十七士が亡き主君浅野内匠頭の無念はらすべく討ち入りし、武士の本懐を遂げた朝でございます。世はうつり暦もかわれど、かわらぬ供養の煙かな。義の誠を知る日でございます。満願成就の朝というのは、こころしずかに澄みわたり、やはりいつもとはちがうようでございます。
 潮子さんも、いつにもまして早起きをして、仏壇を拭き清めますと、朝一番のお茶をそなえ、線香をたき、手をあわせております。
「おかげさまで、ようやくこの日をむかえました。ほんとうにありがとうございました」
 それからは、いつもの日課、竹刀素振り三十分、ゆりこさんにいわれた筋トレ、腹筋背筋にラジオ体操。ひと汗もふた汗もかいて、冷水摩擦。そうしてようやく家族との朝食をすませると、ピアノの部屋にこもります。
「おばあちゃん、いってきまーす」
「あ、エビちゃん。あんた、きょうも来てくれるの」
「うん、学校終わったら、すぐ行くね」
 あれほどお稽古から逃げまわっていたエビ子も、いまでは毎日教室に通っております。どうやら、これにはわけもあるようですけれど……。
 開店から昼まで、また昼から二時までは防音室にこもってお稽古、十連符や装飾音符はまだ苦手のようです。この、こちょこちょしたところが、うまくできないのよねえ。そろばんで鍛えた指先で、くりかえしおさらいをして、きょうもゆりこ先生のお宅にむかいました。
「先生、よろしくお願いいたします」
「いよいよ、この日がきましたね。うちの母のせいで、妙なところにひっぱり出されることになりましたが、そんなことより、潮子さんにとっては、今日がいちばん大切な日です。では、さっそく聞かせてください」
 潮子さん、指にずいぶん力がこもるようになりました。背すじものびて、すがたもひとまわり大きく見える。これはじっさいにトレーニングの効果でしょうね。楽譜は、すでに赤ペンで書きこみやぐるぐる印やらで、もう曼荼羅みたいになっております。
 最後の十六小節は、最大の山場、オクターブ三連符でたたきつづける難所でございます。
 スタタ、タタタ、タタタ、タタタ、タラタ、タタタ、タタタ、タタタ、タラタ、タタタ、タタタ、タタタ、ドゥララララーン。
 最後の余韻をかみしめ、鍵盤から手をそっとはなす。おもわず両手で、顔をおおいました。お姉さん、やっとここまで追いつきましたよ。まだ牛の乙女だけど、きいててくれましたか。
「ほんとうに、よくがんばってくださいました。すばらしい乙女の祈りになりました」
 ゆりこ先生も、涙ながらに背をさすって、ねぎらいます。
「最初は、無理だろうって、思ってたんです。でも、潮子さんのおかげで、奇跡って、きゅうに起こるもんじゃないんだなってわかりました。この奇跡は、百八日間の苦労があってこそなんですから。ほんとうに、いい勉強をさせていただきました」
「先生、ありがとうございます。でも、いかがでしょう。まだ、牛の乙女でございますものねえ。これではとうてい、人前ではと思うんでございますが。」
「あはは、欲が出てきましたね。でもあと二週間もあるんです。それだけあれば、牛が羊に、羊が猿に、猿が人間の乙女になるのも夢じゃありません。きょうから、また新しい気持ちで練習しましょう」
「先生、まだ見ていただけるんですか」
「ここは船出の町千住ですよ、乗りかかってしまったら、船にも船頭にもこまりゃしませんからねえ」
「そのとおり!」
 拍手とともに、敬老会婦人部長小川まつこ、つまりゆりこさんのお母さんが飛び込んできました。
「僭越ながらこの小川まつこ、当日の司会では、おかみさんのきょうまでのご苦労の立ちあい人として、しっかりみなさんにお伝えいたしますよ」
「お母さん、船頭が多いの、よくないよ。ほどほどにしといてよ」
「なにいってるの、船頭が多けりゃ、船を大きくしたらいいのよ。だから、会場もおおきくなったんだし」
「え、なにそれ。」
「さっき、マルトヨクリーニングのだんなさん、つまり敬老会長から電話があったの。当日、せんじゅケーブルテレビの中継が入ることになったから、駅ビルのホールで開催することになったって。もう大騒ぎよ。フラダンスとか、南京玉すだれのひとたちも衣装新調したって、はりきってるわ。みんな潮子さんのおかげですよ」
「いえいえ、そんな。それにしてもこんなに大事になって、どうしましょう」
 そこにひょいと顔を出したのが、孫のエビちゃん。
「こんちは」
「あら、エビちゃん。あんたあいかわらずちっちゃくて、ほっぺが赤くて、海老みたいね。おばちゃん、今夜は海老フライにしちゃおかな」
「あのう、うちのおばあちゃん、またテレビに出るんですか」
「こんどは、あんたも出るんだから、楽譜めくるとこ、ペダル踏むとこ、しっかり覚えなさいよ。」
 ゆりこさんが頭をぐりぐりっとやると、エビちゃん心配そうな顔をします。
「ねえ、おばあちゃん。お母さんがね、エビ子のお洋服ちゃんとかわいいの買ってくれるかなあ。お父さんはデパートで買ってあげるっていったけど、お母さんけちんぼだから、 どっかの閉店セールとかでへんなの買うんじゃないかって、心配なの」
「あらあら、エビちゃん。そんな心配しないでいいよ。おばあちゃん、もう用意したもの。さっき届きましたって、とりにいってきたのよ」
 ほら、この箱。
 エビ子は小海老のようにぴょんぴょんはねあがって包みをあけますと、あらまあ、なんともおめでたい。紅白よこじまの、すてきなドレスです。
 あら、よく似あう。ほんとに小エビだ。みんなで泣いて笑って大賑わいの満願の日でございました。

 そうして、クリスマスがすぎ、学校は冬休み。いよいよ師走二十八日になりました。商店街はいそがしさまっただなか、敬老会の忘年会当日となりました。例年でしたら、近くのご老人とそのご家族くらいのこぢんまりした催しですが、今年は商店街あげての大イベントでございます。テレビの中継は、朝から潮子さんに密着しておりますし、親戚、友人、店はどこも早じまいして、駅ビルのホールには長蛇の列ができております。もちろん佃甚のみなさんも。こちらは、いつもの時間に店を閉めると、駆け足で会場にむかいました。
 区長はじめお歴々にマルトヨ会長のあいさつがすむと、敬老会芸達者のみなさんによる出しものはいろいろ。おなじみの手品に民謡フラダンスにくわえて、最近のご老人はお元気ですから、ヒップホップダンスやヘビメタバンドにDJと、盛りだくさん。枯木も山のにぎわいでございます。
 やはり、ハコがいいと、やる気もあがる。みなさんいつも以上の出来で順調にすすみ、休憩時間。いよいよ、舞台にはグランドピアノがすえられております。
「潮子さん、かわいい」
「いやですよう、先生」
「おばあちゃん、すごーくきれい。ねえ、おばあちゃんが死んじゃったら、この着物エビ子にあげるって、遺言にかいといてね」
 紅白ドレスに身をつつんだエビ子、緊張のあまり、縁起でもないことをくちばしっております。
 そうして、ブー。開演のベルが鳴りました。
「ふたりとも、まちがえても大丈夫だから、最後まで気をたしかに、しっかりもどってきてください」
 三人で、円陣を組んでおりますわきを、婦人部長のまつこさんがひとり先に出て行きスポットライトをひとりじめ。
「本日大勢のご来場をたまわりましたこの忘年会、いよいよ最後の演目でございます。お待ちかね、佃甚おかみ、橋本潮子さんです。彼女のきょうまでのご奮闘は、みなさますでに御承知のことと存じます。うちのぼんくら娘、たまにはいいことを申しました。奇跡は、突然おこるものではなかった。きょうは、お孫さんもお手伝いしてくれます。お姉さまの形見の振りそでも、よくお似あいです。みなさま、ごいっしょに、奇跡のピアノをききましょう」
 会場われんばかりの拍手のなか、潮子さんとエビ子が手をつないで舞台中央のピアノにすすみます。
 椅子に腰かけ、着物の袖をととのえ、みぎにぐるり、左にぐるり。
 手首をぶらぶら。ゆりこ先生直伝の、あがらないおまじない。そうしてすとんと肩の力をぬいて、深呼吸をすると、鍵盤に静かに手をのせ、しっかりたしかめます。
 ターン、タターン、タターン、タターン、タターン、タターン、タターン、タターン、ドゥラララーン、ドゥララレーン。
 百八日の練習のあと、その後の二週間は通し稽古をくり返しました。何千回と弾いたこの曲。象から牛に、牛がヒツジに、羊がさる、猿からよちよち歩きの人間に、よちよちあるきが幼稚園にいき、小学校、気がつけば十になっていた。テンポは、そのくらいまで上達いたしました。乙女というには幼いけれど、光源氏なら惚れてしまう。格段の進化でございます。
 客席では、佃甚の一同、手をあわせ拝んでおります。難所の五十三小節めは、すこし指がすべりましたが、あわてず、腕の交差もじっくりとすすめております。舞台袖では、ゆりこ、まつこの親子もかたずをのんで見守っています。
 エビ子も、ペダルをふむときは、おばあちゃんの肩をそっとさわる。そうして、最後の山場、三連山脈にさしかかりました。最後の力をふりしぼって、たたくたたくたたくたたく。振袖が、みぎにひだりにひらりひらり。蝶のように舞い踊る。いつしかだれもが、舞台でひいているのが七十六歳のおばあさんであることを忘れました。
 大和撫子、春の宵に、ぽうっと。
 タタ、タタタタタタタタタ、タラタ、タタタ、タタタ、タタタドゥラララーン。
 会場は、しーんと静まりかえる。
「母さん、すごい、すごいよお。」
 さいしょに立ちあがり、うおーんうおーんと泣いて手を叩いたのは、客席の鮎太郎。みんな顔を見あわせ、涙ぐみうなずいています。マルトヨクリーニングのご夫婦も、かき入れどきを抜けて来た焼き鳥屋のだんなさんも、笹塚みどりこ先生も、拍手喝采。花束を持って、みんなが舞台に駆けよっていきます。エビ子が袖からゆりこ先生をひっぱりだすと、さらにわれるような拍手、カーテンコールを十回もくりかえし、ようやく緞帳がおりたのでした。
「先生、ほんとうに、まだ夢のなかのようです。ありがとうございました」
「いままでのステージで、こんなに緊張して、こんなに幸せな日はありません」「ああ、スターって最高だね。エビ子やっぱり、佃煮やさんよりアイドルがむいているってわかったよ」
 花束を抱えて楽屋にもどりますと、金髪のおおきな男性が、泣きはらした目で立っております。潮子さんを見るなり、駆けよりぎゅーっと抱きしめ、なにやらぺらぺら話しはじめました。
 このひと、どっかでみたことある。エビ子がいいます。
 いちおう、イギリス留学をしておりましたゆりこ先生が、いっていることをきいていますと、こんどは客席にいたひとたちが、どっとなだれこんできた。
 なんでこんなところに、ブラリーノ・コックピットがきてるの、まさか、そっくりさんだろ、なぎら健壱じゃないのか、絶対本物よ。
「あんた、だれ」
 ゆりこがきくと、おまえ、おれを知らねえのか、いいねえ、気に入った。これはやはりほんとの、ブラリーノ・コックピット。アメリカハリウッドの人気俳優なのでした。
「その人気者が、こんなとこで、なにしてんのよ」
 きけば、ブラリーノさん、つい先日、妻で大女優のオランジュワイヨクチュール・エンジョーイさんとの破局で、傷心のお忍び旅に出ているさなか、ふらりと東京の下町にきたとのこと。すると駅ビルホールに長蛇の列を見つけて、入ってみたらば、ピアノの音色にすっかり感激心酔したという。
「潮子さん、このひと、ロスの自宅で、もういちど自分のためだけに弾いてほしいんですって、おかねいくらでも出すっていってますけど」
 もう佃甚一家も、まつこさんも、まわりは大騒ぎです。
 潮子さん、さてどうする。
「もったいないお話ですが、あれよりいい演奏はできませんねえ。それに、姉は案外焼きもちやきだったから、こんな男前と仲よくなったら、大変。これ以上欲をかいたら、乙女の祈りどころか、怒りをかってしまいます。それに、もしあなたさまが気もちを落ちつけたいなら、ご自分で弾かれたらよろしいんじゃないですか。わたしもこの曲で、ずいぶんと心をなぐさめられました。なにごとにも、潮どきというものがあります。それは、自分でしかわからないものですからね」
 ぺらぺらーの、ゆりこさんがてきとうに通訳する。
「シオドキ……」
初めて耳にした日本語ですが、どうやら名優ブラリーノさん、意味はこころで理解されたようです。
「それなら」
 こんどは、くるり。顔を、ゆりこさんにむけました。
「それなら、おまえ、かわりにおれとLAにきて、レッスンしてください。おれもあんなふうに弾けるようになって、こころの傷を自力でなおしてえんだ」
「ゆりこ先生、かわりに行ってあげてくださいな。このひと、偉いのか有名なのかしらないけど、あおい目が、ほんとにさびしそうですもの」
「そんなこときゅうにいったって、こっちにも都合があんのよ。第一、あんたんちの近くに焼き鳥やはないでしょう」
「おう、ヤキトリか。オレも大好物だぜ。うちの斜めむかいには、オレが経営するジャパーニーズ・レストランがあるんだぜ」
「ちゃんとおいしいの、そこ。うーん、それなら、いまからうちの近所の焼き鳥食べてみなさいよ。それとおなじくらいおいしいんなら、いってもいいよ」
 ブラリーノさん、思いがけない展開に色めきだつまつこさんに案内されて、さっそく商店街にむかいます。いやはや、ゆりこ先生の乗りかかった船ってのは、ずいぶん大きな豪華客船だったようでございますねえ。
 師走もおしつまり、てんやわんやの帰り道、さいごは師弟ふたりで桜並木のつきあたりまで。
「ほんとうに、おつかれさまでした。潮子さん、このさきどうされるんですか」
「姉がいてくれたおかげ、みなさまのおかげで、ほんとうに楽しい思いをいたしました。もちろんまた明日からは、佃甚のおかみにもどりますよ。姉のかわりに弾いただけ、それでじゅうぶんなんですから」
「でも、せっかく覚えたんですから、一曲入魂、忘れないでくださいね」
「はい。毎日姉に手をあわせて、弾いてまいりますね。でもねえ、プラリーノさんじゃないけれど、今回のことで、いろいろと、潮どきって考えました。からだもずいぶんがたが来てるし、駄目だ駄目だと思っていた若夫婦も、なんとかそれなりになっていましたしね。」
「そんな、きゅうに気弱な」
「いいえ、潮子ってこの名もね、ほんとに潮どきの潮なんです。恥かきっ子だったんでね、もうこれきりだよって、父がつけたんです」
「潮どきの潮、ですか」
「いえね、ほんとは姉が末っ子になるはずだったんです。それが、十年もたってぽーんと妹が生まれちゃって。姉はやきもちやきだったから、むくれたこともあったみたい。たぶん、これ以上さわぐと、あれはわたしの祈り、わたしの曲なんだからとらないでって、叱られてしまいますよ」
「そうですねえ、お姉さんの、テーマ曲、ですものねえ」
「ふふふ、そのとおり。だって先生、そもそもうちの姉、名まえをトメと申しましたんです」
                           (「ヲトメノイノリ」 完)
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